決着
決着
手紙が届かぬ事はさして問題では無い。
問題はこちらの動きを読まれている事だ。
但し、敵の狙いも読めた。敵は藩札の発行を阻止したいのだ。
ならば一万両の輸送を必ず邪魔して来るだろう。
その日の夕刻、西新屋の二階で手すりに肘を持たせて堀端を眺めながら、弁千代はそんな事を考えていた。
『やはり、一刻も早く柳河に戻らなければ』
弁千代は立ち上がって階段を降りた。
「ちょっと出て来ます」
仲居に声を掛けて外に飛び出した。
門番の言った通り、検校は下城して道場に居た。宮原も戻っていて藩士の指導に当たっている。
宮原が弁千代を見付けて軽く手を挙げ、検校に耳打ちした。
検校が近付いて来る。
「奥へ・・・」
そう言って検校が先に歩いて行く。
座敷で向かい合うと検校が言った。
「玄海屋での事は聞いた、敵は中々手強いようだね」
「その事でお願いがあって参りました」
「何かな?」
「私は今、詮議の為この地に留め置かれております。しかし、一刻も早く柳河に戻って次の手を打たなくてはなりません。詮議を早めてもらうよう、奉行に検校様よりお口添えを願いたいのです」
「ふむ、玄海屋の事でお主に非がある訳では無い・・・分かった、宿にて返事を待て」
「誠に勝手なお願いでは御座いますが、何卒よろしくお願い致します」
弁千代は道場を出ると真っ直ぐに西新屋に戻り、奉行所からの返事を待った。
奉行所からの返事が来たのは、もう夜も更けてからであった。
今朝来た役人が奉行の手紙を届けて来た。
不明な点が多いのでまだ詮議は続行する。但し鎌池検校が身元を保証すると言う事なので一旦帰藩する事は許可する、と言う内容が記してあった。
「有り難い!」
弁千代は役人に礼を言って、奉行に今夜博多を離れる旨を伝えてもらうように頼んだ。
宿で筆を借り検校へお礼の手紙を書いた。すぐに出立する事と、また必ず挨拶に伺う事を書き添えた。
仲居に手紙を届けてもらうように頼んで宿を出た。
仲居は突然の出立に驚いた様子だったが、提灯と予備の蝋燭を持たせてくれた。
危険を承知で山越えの道を選んだ。来た時と同じ道だ。
早足で三ッ瀬峠を登る。額に汗が滲んだ。
既に笠原も宿を出たことには気付いているに違いない。
月は出ているが山道には光は殆ど届かなかった、提灯の灯りだけが頼りである。
休まずに歩き続けた。
人の気配がする。二人。思ったより早かった。
足を止めて提灯を吹き消した。足音を殺して移動。
笛のような風切り音。すぐ右側の木に矢が突き立った。
矢が放たれたと思しき方角に全速で走った。枯葉を踏む音。逃げる。
何かが光った、淡い月明かりにを刃が反射したに違いない。
鯉口を切ると同時に斬りつけた。くぐもった悲鳴が上がる。
左後方に足音。少し高い位置。
身を伏せて待つ。
足音が止まった。こちらを窺っている。
静かに鞘を帯から抜き取って二間ほど先に放った。
足音が動いた。
刀を逆手に持ち替えて投げる。
手応えがあった。
倒れる音。低い呻き声。やがてそれも止む。
周囲に気を配る。人の気配は無い。
闇に目が慣れて物の形が認識出来た。落ちている鞘を拾う。
倒れていた骸から刀を抜き、拭をかけて鞘に納めた。
提灯を探して再び灯を点ける。
大きく息を吐いて歩き出す。山は更に深くなった。
*******
なだらかな下りが続く。峠は越えた。仙谷山まであと一息。
あれから何事も無い。笠原は諦めたのであろうか?
いやそんな筈は無い。笠原の蛇のような目を思い出した。
勝てるだろうか?
『相手を好きになれ』検校の言葉が蘇る。
無理だ!そんなこと絶対に出来ない。弁千代は頭を振って検校の言葉を振り払った。
仙谷山に奴は居る。予感は確信となって弁千代の心に蟠った。
あの場所で決着をつける!弁千代は足を早めた。
*******
仙谷山に着く頃に、東の山の稜線が橙色に輝き始めた。
山は黒く、空は群青に染まって、くっきりと世界を分けている。
もうすぐ夜が明ける。
弁千代はしゃがんで草鞋の紐を結び直した。
その時、遠くに一点の黒い影が見えた。こちらに近づいて来る。
笠原だ!弁千代は直感した。躰の芯がぶれないので歩いているようには見えない。
思ったより早くこちらに到達する筈だ。
それならば、待っているより迎えにいった方が良い。
二人の歩速が足されて条件は互角になる。
弁千代はゆっくりと立ち上がって歩き始めた。
*******
「あなたがここまで来たということは・・・」笠原が言った。
「二人死んだ」
「そうですか」笠原は何の感慨もなく言った。「ここで終わりです」
「まるで勝ったような言い草だが?」
「試してみますか?」
「勿論!」
重い風切り音、矢ではない。
笠原の方から飛んでくる。動いたようには見えなかった。
右へ飛ぶ。
何かが後ろの岩に当たって跳ね返る。
岩が崩れてバラバラと落ちて来た。
笠原のだらりと下げた右の拇指から弾き出された鉄の礫。
また音がして左の腕に衝撃、焼けた火箸を当てられたようだ。
続けて来る!杉の木の後ろに回り込む。
木肌にめり込む鈍い音が聞こえた。
終わりか?
そろりと刀を抜いた。距離は三間、まだ遠い。
まだ礫が残っていれば飛び出した瞬間にやられる。
笠原の立ち位置を思い浮かべる、こちらよりやや低い。
左手で脇差を抜く。考える前に動いた。木の左側から飛び出し前に突っ込む。
途端に風切り音。正中に鎬を見せて脇差を立てた。
高い金属音がして脇差が折れ飛んだ。
笠原が刀を抜くのが見えた。礫は終わりだ。
斜面を利用して勢いをつけた。左手の折れた脇差を投げつける。
笠原がそれを跳ね上げた時には、弁千代の剣が笠原の胸を貫いていた。
笠原は自分が死んだ事も分からなかっただろう。
せめてもの武士の情け。いや、そうじゃない、情けなどかける余裕は無かった。
強敵だった、始めて笠原を少し好きになった。
夜はしらじらと明け初めていた。
神崎の村に入った。柳河はもうすぐそこだ。
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「弁千代、ご苦労であったな」改まった口調で吉右衛門が労った。
弁千代は柳河に着いて真っ先に吉右衛門の屋敷を訪ねた。
報告を終えて口を閉じた時、吉右衛門は弁千代の手を取ってそう言った。
加藤伊織がすぐにやって来て、立花壱岐に事の次第を報告してくると言って出て行った。
「家へ帰って暫く休むが良い」
吉右衛門の言葉に頷いて、弁千代は下級武士の家が立ち並ぶ南長柄小路の自宅へ戻った。
*******
「ただいま戻りました」
弁千代は玄関から奥へ呼び掛けた。
パタパタと足音がして鈴がすぐに飛び出して来た。胸に薫を抱いている。
「すぐに風呂に行きます。手拭を出して下さい」
鈴は弁千代の袴や袖口にこびりついた血を見て眉を曇らせた。
「お帰りなさいまし」
それも一瞬の事で、すぐに笑顔を作ると一度奥へ戻って手拭いと新しい下帯、それに洗い立ての着物を風呂敷に包んで持って来た。
「どうぞ、さっぱりしていらっしゃいませ」
「すぐに戻ります」
「いいえ、気になさらずゆっくりとお湯に浸かってらして」
薫が弁千代に手を伸ばそうとするのを優しく止めて、弁千代に目配せした。
「ありがとう鈴さん・・・薫、戻ったらゆっくり遊んでやるからな」
弁千代は包を受け取ると、鈴と薫に手を振って、急いでまた家を出た。
湯屋は空いていた。掛かり湯をして柘榴口を潜り薄暗い湯殿に入る。
浴槽の湯はまだ熱かった。桶に湯を汲んで手にこびりついた血を擦り落とす。
浴槽に浸かると左の腕に湯が沁みた。
笠原庄吉との戦いを思い出す。
人の生き死には紙一重、こんな世の中がいつまで続くのか。
いや、武士ならばいつ死んでも文句はない。笠原だって死力を尽くして戦ったのだ。悔いは無い筈だ。
弁千代は頭を振って妄想を追いやり、肩まで湯に沈めた。




