玄海屋
玄海屋
「ここか・・・」
弁千代は間口の広い大店の前に立って呟いた。玄海屋と染め抜かれた紺の暖簾の奥に帳場が見える。帳場には眼鏡をかけた番頭らしき男、周りには数人の男女が忙しく立ち働いていた。
「御免・・・」
「はい、いらっしゃ・・・あれ、いつぞやのお侍じゃないか!」
襷を掛けた奉公人らしき女が弁千代を見咎めた。
「ははぁ、さてはあの時の礼金でも無心に来たのかい?」
「い、いえ、そのような・・・」
「お兼、どうしました?」
帳場から番頭が出て来た。
「番頭さん、いつぞやお話ししたお侍ですよ。九絵の弥七を投げ飛ばした」
「それじゃお嬢様の恩人じゃないか・・・」
「いえ、あんな奴私だって追っ払えます。きっと恩を売りに来たんですよ」
「弱ったなぁ、そんなんじゃありません」弁千代は困った顔をして頭を掻いた。
「分かったもんじゃないね!」
お兼には取り付く島も無かった。
「お兼、失礼ですよ!」
「お嬢様・・・」
帳場の奥から祥乃が出て来た。
「お侍様、その節は誠にありがとう御座いました」
「い、いえ、礼には及びません・・・」
「此方から御礼に伺うべき所、お侍様のお住まいも分かりませず困っていたところです。父からもなぜ聞いておかなかったと叱られましたわ」
「いえ、そうでは無いのです。まさかここが貴女の家とは知らずに参ったのです」
祥乃が怪訝な顔をした。
「ではどういうご用件で?」
「申し遅れました、私は柳河藩家臣中武弁千代と申します。黒田藩剣術指南役鎌池検校様の紹介状を持って、波多江九郎兵衛殿にお願いがあって参りました、どうぞお取り次ぎをお願いいたします」
「まぁ、検校様の・・・お兼、父のお客様ですよ、ご無礼をお詫びしなさい」
「ごめんなさい・・・」お兼はしおしおと項垂れた。
「これ、もっと丁寧に・・・」
「いえ、分かって頂ければ十分です、もう気にしないで下さい」
「ほんとにごめんなさい」
「いえ、本当にもう・・・」
その時、店先が急に騒がしくなった。
「な、何ですかあなた達は・・・わっわわわ!」
大きな声がして奉公人の男が転がり込んできた。
「邪魔するぜ!」
のっそりと男が暖簾を掻き分けて入って来た。
「あっ、九絵の弥七、性懲りも無くまた来たのかい!」お兼が元気を取り戻して怒鳴った。
「てめぇらに用はねぇ、九郎兵衛を出しな!」
「お主はあの時の・・・」弁千代が言った。
「おや、誰かと思えばあの時のサンピン。変なところで会うじゃねぇか、ここであったが百年目だ、今日はあの日のようにはいかねぇぜ!」弥七がわざとらしく啖呵を切った。
「待ちなさい」落ち着いた声音がして、奥から恰幅の良い男が出て来た。
「お父様・・・!」
何か言いかけた祥乃を九郎兵衛が手で制した。
「弥七、この前の話ならキッパリと断った筈だが」
「ふふふ、そっちは断ったつもりでもこっちはそうはいかねぇのよ」
「親分はご存知かな?」
「親分は関係ねぇ、ただ、若にせっつかれちまってなぁ。なぁにお嬢さんさえ承知してくれたら親分だって文句はねぇ筈だ」
「絶対に嫌!」祥乃が吐き捨てるように言った
「娘もこう言っている。諦めてお帰り」
「いいのかい、こっちはお前さんが清国と密貿易してるってぇ証拠を掴んでいるんだぜぇ」
「そんなハッタリは通用しませんよ」
「うるせぇ!証拠さえ上がりゃそんな言い訳は通用しねぇんだ。旦那方、お願いしやすぜ!」
弥七が暖簾の外に向かって叫んだ。
応!と答えて人相の悪い浪人者が三人、勿体ぶった態度で入って来た。
「さあ、家探ししておくんなせぇ!」
「承知した!」
浪人の一人が履物のまま上り框に足を掛けた。
「待った!」
弁千代が浪人達の前に飛び出す。
「白昼堂々、そんな狼藉は許せぬ!」
「許せなけりゃどうしようってんだいサンピン!」弥七が怒鳴る。
「刀にかけても阻止する!」
「作戦変更だ、旦那方、まずそいつをやっちゃっておくんない!」
「心得た」大将格の浪人が前に出る。
「若造、我々は幾多の実戦を経験しておる。その辺の道場剣法が敵うものではない、大人しく引っ込んでた方が身の為だぞ」
「そうだ、儂の馬庭念流、冥土の土産に見たいと申すか?」
「腕の一本も落としてやれば、生意気な口も聞けぬであろう」
それぞれに脅し文句を口にする。
「貴公ら、いくら身過ぎ世過ぎの為とは言え、ヤクザの用心棒など恥ずかしいとは思わぬか?」弁千代が言った。
「ふん、聞いた風な口を聞くな。問答無用、刀を抜け!」
浪人達は一斉に抜刀した。
「致し方ない・・・」
「お侍様、あなたには関わりのない事、お逃げください!」
九郎兵衛が止めた。
「残念ながら手遅れのようです・・・」
*******
いきなり右から斬り込んできた。滑るように移動してそいつの左側に出る。
空間を縦に割った刃が、翻って横に走る。
舞うように躱して刀を抜いた。
同じ相手が突いてくる。遅い、下から剣を跳ね上げて胴を抜く。絶叫が上がった。
同時に次の相手を目の端に捉える。大きく踏み込んで真っ向から斬ってきた。
右に転移してやり過ごす。背中に一太刀浴びせた。その時にはもう、躰は三人目の方へ突っ込んでいた。
慌てている。ぎこちない動きでしゃにむに斬ってきた。
見える。右の腋に隙。刃を返して下から掬い上げた。
腕が刀を持ったまま、天井まで跳ね上がった。
弁千代はもう浪人達を見ていない。
あの男・・・いた、柱の陰で固まっている。
ゆっくりと近付いて切っ先を突きつけた。
「あわわわわわわ・・・」
弥七が腰を抜かして土間に尻餅をついた。
「た、助けて・・・」
「何故このような事をする?」
「お、俺は薬屋に頼まれただけだ・・・」
「薬屋?」
「名はしらねぇ、ただおめぇに恨みがあると言っていた」
「恨み・・・」
弁千代に心当たりがあった、仙石山まで追って来た男。
「九郎兵衛殿、この事私に無関係では無いかも知れませぬ」
「それはどういう事で?」
「まず、この者を奉行所に引き渡してからゆっくりとご説明いたしましょう」
弁千代は、使用人に弥七を縛るように言ってから、刀を拭って鞘に納めた。
祥乃とお兼が、呆然と弁千代を見ていた。
弥七と浪人者の骸は奉行所が引き取って行った。弁千代は詮議のためしばらくは博多を離れぬよう言われた。それは仕方のない事だろう。
その後で弁千代は、奥の座敷で玄海屋九郎兵衛と向き合った。




