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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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鼎足運転の法

鼎足ていそく運転の法


城から戻って乳歯の生え揃ってきた薫をあやしていると、鈴が加藤伊織から使いが来たと知らせに来た。

弁千代が出てみると、使いは一緒に屋敷に来てもらいたいと言った。

何やら只ならぬ雰囲気を感じて、押っ取り刀で駆けつけてみると伊織が血相を変えて待っていた。


「弁千代、御家老が辞任なされた!」

「えっ、吉右衛門様がですか!」弁千代が吃驚びっくりして訊いた。

「違う、立花壱岐様だ!」

立花壱岐は、家老としては新参だが、組頭の家柄で組外家老の吉右衛門より発言力は強い。

「何故?」

「分からぬ。今からその事で殿のところへ参る、同道してくれるか?」

「勿論です」

参勤交代を終えて江戸から戻り、まだそれほど経っていない。壱岐の辞任は弁千代にとっても青天の霹靂には違いなかった。


無門吉右衛門の屋敷で門番におとないを告げると吉右衛門が奥の座敷で待っていた。

「こんな時刻に呼び出してすまねぇな」

相変わらず伝法な口調で吉右衛門が言った。

「何故壱岐様は突然辞任なされたのですか?」

開口一番、納得が行かぬと言った顔で伊織がたずねた。

「いや、突然じゃねぇのだ。これは一年前にすでに決まっていた事なのだ」

「い、一年前ですと、それはどう言う事でござりまするか?」伊織が怪訝な顔をした。

鑑寛あきとも公の直々のご指名で壱岐殿が家老に任命された時、壱岐殿は着任の条件として二十三箇条の藩政改革案を提出した」

「なんと、殿のご指名に条件をつけられるとはまた大胆な!」

「壱岐殿も決死の覚悟であったろうさ。さりとて藩の財政が破綻している今、藩を立て直すにゃあこの条件を呑んで頂くしかないと壱岐殿は言ったのよ。しかし殿はそのうちの三箇条にどうしても首を縦に振られなかった」

「それで、壱岐様はどうなされました?」

「それでは承諾できぬと突っぱねたのさ」

「それはまた、恐れ多い事を・・・」

「だが、殿はどうしても壱岐殿を江戸に連れて行きたかったのだな。現今の江戸の情勢をかんがみるに、壱岐殿の豪胆さと智略は是が非でも必要であったからだ」

「それで壱岐殿は家老職をお引き受けになられた」

「うむ、ただその際一年限りという条件を付けた」

「鑑寛公はそれを承諾なされたのですね?」

「うむ、今回の辞任は、だから予定の行動なんだ」

「それでは、致し方のない事なのだと?」

「そうだ、しかしな・・・」吉右衛門は少し間を置いた。

「これには裏がある」

「裏ですと?」

「実は殿と壱岐殿の間には家老復帰の暗黙の了解があるのさ」

「え・・・」

「藩政を改革するには頭の固い家老どもや改革反対派の矛先をかわす必要がある。江戸行き前に一旦口にした事を、口を拭って知らぬ振りをしたんじゃ奴らに絶好の口実を与えることになろう」

「確かにそうでございますな」

「それに壱岐殿は江戸で開国論の敷衍ふえんに奔走したんだ。反対派の者からすりゃこれは面白く無いはずだ。無駄な争いを避けるために、ここは一旦身を引くべきだと壱岐殿は思ったんだな」

「いかさま・・・」

「それで鑑寛公は一旦壱岐殿の辞任を許されたのだ」

「そういうことでござりましたか」

「では、此度こたびの辞任は反対派の策略という訳ではないのですね?」

弁千代が口を挟んだ。

「そうだ、しかしこの話にゃまだ続きがあるのだ・・・」

「続き・・・と申されますと?」

「今、江戸では井伊大老による攘夷派粛清の嵐が吹き荒れておる」

「その点はご懸念には及びませぬ。我が藩は、壱岐様が方々で開国論を展開しておられました。幕府の心象は悪くない筈です」弁千代が言った。

「いや、それがそうでも無いのだ。壱岐殿は江戸の政治活動に関わり過ぎた。その情報を江戸の留守居役から入手した反対派の者達は、外様である我が藩にいつ幕府の追求の手が及ぶかと危惧しておるのだ。そこで、壱岐殿の家老復帰を阻止しようとする動きがある」

「壱岐様の復帰が遅れれば我が藩はどうなるので御座いましょう?」伊織が訊いた。

「壱岐殿の藩政改革案が実行できなければ我が藩の財政は遠からず破綻する。そうなればそれこそ幕府の思う壺、藩お取潰しの良い口実を与える事になるだろうよ」

「それでは・・・」

「少なくとも一年内には、是が非でも壱岐殿に復帰してもらわにゃならん。それまでに、我々に出来る事を進めておく」

「出来る事とは?」

「壱岐殿の改革案の柱は三つ。一つは能力主義による役人の登用、一つは田畑に賦課ふかされる特別税の廃止及び商人職人に強制的に賦課される運上金の廃止、もう一つは産物運転の法を始める事」

「産物運転の法とは?」

「先ず、藩札の発行だな」

藩札とは藩の信用を後ろ盾とした、藩内だけで通用する紙幣の事である。

「農民達から無償で税として取り上げていた産物を、藩札とはいえ正当な対価で買い上げる。藩は、いわば紙切れ同然の藩札で産物を取得し、商人達が長崎で売却した代金の正貨から藩の利益分を藩庫に収納する事が出来る」

「商人達はそれで納得するでしょうか?」

「売却代金から一定の歩合制で利益を得る事が出来るから損をする事は無ぇよ。藩札による産物の取得、産物の取得による正貨の取得、これを繰り返すことによって利益を拡大する。藩札〜産物〜正貨というかなえの三本の足が繰り返し回転する事から、これを鼎足ていそく運転の法、とも言う」

「う〜む、それはまた一石二鳥いや三鳥、誠によく考えられた方法ですな」伊織は腕を組んで唸った。「して藩の借財はいかほどで?」

「ざっと二十四万両」

「何と・・・」伊織はその額の大きさに息を呑んだ。

「だが、鼎足運転の法が上手く機能すりゃ、三年で借財を返し藩庫にも潤いを持たせる事が出来ると壱岐殿は見ているんだ」

「では、一日も早く実行せねばなりませんな」

「先ずは藩札を一万両分発行する。しかし、それを保証するべき金が無ぇ・・・」

「困りましたな・・・」

「筆頭家老の屋島景之様などは今月晦日みそか日までに金策の目処がつかなけりゃ、一年後の藩札発行は出来ぬと仰られてな。確かに藩札発行にはそれくらいの準備期間が必要だから、鑑寛様も頷くしかなかったんだろうよ」

「無茶なことを・・・」

「無茶だろうがなんだろうが、今月晦日までに一万両を用意できなければ壱岐殿の政策は水泡に帰す」

「柳河の商人達に鼎足運転の法の利を説いて、一時立て替えてもらうことはできませぬか?」弁千代が提案した。

「今は運上金が柳河の商人達を圧迫している。とても一万両は出せまい」

「では、博多の大商人に頼んでは如何ですか。博多にならそれくらい出せる商人はいる筈です」

「なにか伝手つてでもあるってのか?」吉右衛門が訊いた。

「直接の伝手は有りませんが、確か黒田藩の武術指南役がこの柳河出身だと聞きました。その道場を訪ねて博多の商人を紹介してもらう事は出来ましょう」

「おお、それはいい案だ!」伊織が声を上げた。

「弁千代、お前ぇその役を引き受けてくれるか?」

「はい、ご家老の命とあらば喜んで」

「なら、これから書状を書く。近々に出立してくれ」

「御意!」


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