無門弁千代物語 第三部
無門弁千代物語 第三部
「ベンさん!」
家に入ると、途端に鈴の細い腕が弁千代の首に絡みついた。
「寂しかったぁ!」
弁千代は鈴を強く抱きしめる。
「苦労を掛けました」
「ううん、苦労なんかじゃない。でも、昔の私なら江戸へ飛んで行ったでしょうね」
「ははは、間違いない」
「武家の女って不自由だわね。それが今回の事で良っく分かったわ」
「どうです、これからも我慢できますか?」
「わからないけど頑張るわ、もしダメだったらその時考える」
「そうですね、宜しくお願いします」
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「江戸の暮らしはどうだった?」
薫を寝かしつけてから、鈴が訊いた。膳の上にはお銚子と帰國祝いの柳川屋の鰻が乗っている。
「この鰻のお陰で助かりました・・・」弁千代が箸で鰻を一切れ摘み上げて言った。
「鰻・・・が?」鈴が怪訝な顔で聞き返す。
「実は江戸患いに罹ったのですよ」
「江戸患い?」
「脚気の事です」
「あらまぁ・・・ベンさんお年寄りみたい」
「脚気ってお年寄りがかかるものなんですか?」
「さぁ、よくは知らないけど」鈴は口を押さえてクックと笑った。
「幸い同じ長屋に住む医者の良哲先生が脚気に詳しくて、鰻と麦飯を食っていれば治ると言ってくれたので事なきを得ました。心配するといけないので手紙には書きませんでしたが・・・」
「それは大変でしたねぇ、でも、ご無事で何よりでした」
「しかし、江戸も騒がしくなって来ました」
「黒船の騒ぎは収まったの?」
「いえ、それもこれからの事でしょう。我々はすんでのところで江戸を離れられましたが、もう少し遅ければ政変に巻き込まれていたかも知れません」
「危ないところだったんですねぇ」
「壱岐様の機転のお陰です」
「壱岐様と言うのは、参勤前にご家老に就任なされた立花壱岐様の事ですね?」
「そうです、あのお方はこれからの柳河藩の運命を担っておられる、吉右衛門様も壱岐様を強く後押ししておられます」
「それじゃあベンさんのお仕事も忙しくなりますね」
「又ご迷惑をかけるかも知れません・・・」
「何を仰います、私も武士の妻となったからには覚悟は出来ております。心置き無くお勤めに精を出されませ」鈴が急に武士の妻を気取って見せた。
「かたじけない」
「嫌ですよぅ、ベンさんったら他人行儀なんだからぁ!」
鈴が元の調子に戻って言った。
「ははは・・・薫はよく眠っているようですね」
弁千代は照れ隠しに薫に目を遣った。
薫の枕辺には、江戸土産の蜻蛉の玩具があった。




