帰郷
帰郷
四月二十三日、彦根藩主・井伊直弼が突然大老に任じられた。世に言う安政の大獄の始まりである。
翌日、堀田正睦はハリスとの交渉で、日米通商条約の調印を三ヶ月延期することに成功した。
五月一日には将軍家定が井伊大老以下閣老一同を招き、次期将軍に紀州慶福を決意した旨を申し渡した。
藩邸は下向の準備で大わらわとなった。弁千代も身辺の整理をしなければならない。と云っても殆ど身一つなのだが。
蛇骨長屋の人達に別れの挨拶をした。すぐに藩邸に移ることになるからだ。
皆、別れを惜しんでくれた。糊屋のお梅婆さんなどは声を上げて泣いた。
鍋、釜、布団などは、欲しいと言う人に譲った。
こうしてみると、世間で生きるなんて簡単な事だと思えてくる。規則で縛られた武家の社会より数段自由なのだ。
さて、帰郷にあたり一番大切な事は、まだ見ぬ我が子に土産を買う事である。
弁千代はふらりと六阿弥陀の参道に出かけた。
木陰の石灯籠の傍に腰掛けて、一服やっている老人が目に付いた。
前に広げた筵には色とりどりのおもちゃが並んでいる。
老人は弁千代を見てもまるで興味を示さない、本当に売っているのだろうか?
「あの・・・」
「なんだね?」
「このおもちゃは売り物ですか?」
「なんに見えるね?」
「いえ、その、なんと言うか・・・」
「道楽だよ」
「えっ?」
「隠居の道楽でやっているんだ、欲しい者が買えばいい」そう言って老人は煙管を吸い付けた。
「その赤蜻蛉は今にも飛び出しそうに見えます」弁千代が筵の上を指差した。
「そうかい」老人は嬉しそうに笑った。「どうだ、本物に見えるだろう?」
「はい」
胴体は土、脚は針金で出来ているのだが、巧妙な彩色が施されており一見実物のように拵えてある。
「この脚の張り具合が趣向なんだよ。障子の桟などへ留まらせると、本当に赤蜻蛉が陽気の加減で出てきているように見えるんだ」
弁千代が興味を示すと、老人は饒舌になった。
「その羽は何で出来ているのですか?」
「寒冷紗さ」
「寒冷紗?」
「蚊帳を作る布だよ」
「ああ・・・」
虫の種類は、蜂、蝉、鈴虫、キリギリス、蝶々、バッタと多彩である。
「これ、みんなご老人が作ったのですか?」
「そうだよ」
「凄い、名人芸だ!」
「ほう、分かるかね?」
「当たり前です、私はこんな精巧な物は見た事がない」
「うむうむ」褒められて老人は満更でもなさそうだった。
「そちらのおもちゃは?」
「これか?」
それは、薄い板を台にして、それに小さな梯子が掛かり、梯子の上で人形の火消しが鳶口などを振り上げたり、火の見をしていたりするおもちゃだった。
「これはからくり人形さ」
「カラクリ?」
老人が火消し人形をポンと押すと、人形は梯子を伝ってスルスルと降りてくる。
「これだ!」思わず弁千代は叫んだ。
「なんだ、びっくりするじゃねえか!」突然老人は江戸弁になった。
「ご老人、これを売って下さい!」弁千代は大声で言った。
「待て待て、そう慌てずともなくなるもんじゃねぇや」
「国で子供が産まれたのです、私の子供なのです!」弁千代は初めて父になった実感が湧いた。
「そ、そうかい、そりゃめでてぇ話だが、おめぇさん国はどこだい?」
「はい、筑後柳河ですもうすぐ帰れるのです、早くこれを渡してやりたい。きっと喜ぶと思うのです」
「分かったよ、あんたに売るよ」
「お、おいくらですか?」
「そうさなぁ、八文も貰っとくか」
「えっ!安い、安すぎます!」
「いいって事よ、おめぇさんがそんなに喜んでくれるのなら、こっちだって作った甲斐があるってもんだ。そうだ、この赤蜻蛉もつけてやろう」
「いえ、それではあまりにも恐縮、お代は払います」
「馬鹿にすんねぇ、こちとら江戸っ子でぇ、一度出した物を引っ込められるかよ!」
「そ、それでは・・・本当に良いのですか?」
「あたぼうよ」
「あ、有難うございます」
「その代わり、子供が壊しても叱るんじゃねぇぜ、子供は壊して物の大切さを覚えて行くもんだ」
「はい、その言葉、胸に刻みます」
「そんな大げさなもんじゃねぇよ」
老人は筵の上から火消し人形を取り上げて、赤蜻蛉と一緒に弁千代に渡した。
「また江戸に来る事があったら寄ってくんな、生きていたならまた会えるさ」
「はい、必ず・・・その時は子供も一緒に」
「楽しみにしてるぜ」
弁千代は一刻も早く柳河に帰りたくなった。
領地から江戸に上ることを参勤(参覲)と云い、江戸から国許へ下向する事を交代と呼ぶ。
交代は江戸到着日を厳格に決められている参勤に比べれば気楽ではあったが、道中の苦労は変わらない。
軍事上、河川には橋が架けられていない事が多く、その為一旦川が増水すれば何日も足止めを食うことになる。
予め宿所を決めておいても、格上の藩や幕府役人の公用の為、涙を呑んで宿を譲らなければならぬ事もある。どんなに緻密に計画を立てていても、計画通りに行くとは限らない。
また、当然のことながら参勤交代には金が掛かる。藩によっては年間収入の五割から八割に達するという。
柳河藩も御多分に洩れず、下向に際して金が無い。その為江戸留守居役が八方手を尽くして、ようやく千両の金を掻き集めた。
「この制度が文化や経済の交流に果たした役割は計り知れない。然し、藩の財政を圧迫し軍備の弱体化を招いたことは本末転倒であろう」と、留守居役の吉弘嘉兵衛は嘆息した。
「幕府の所為ばかりではあるまい。各藩も自藩の威厳を示すために行列が華美に流れるという愚を犯した。幕府は自粛するよう何度も布令を出しておる」壱岐が言った。
「見栄と面子の競い合い、武士も難儀なもので御座るな」
「儂は柳河に戻ったら、早速藩財政の立て直しに着手する、軍備を増強して異国の脅威に備えるつもりじゃ。江戸の留守居、宜しく頼む」
「お任せくだされ、旅のご無事をお祈りしており申す」
柳河藩の一行が江戸を出発したのは、五月二十一日であった。
四百名ほどの供揃えだったが、江戸を出ればその日雇いの奴達は消える。
途中、大坂の蔵屋敷で久し振りに河合辰之進に会った。辰之進は弁千代の元気な姿を見て喜んでくれた。
弁千代が単身江戸に上った時、小倉から大坂までは船だったが、行列は日程の安定する陸路を取った。
一行が柳河に着いたのは、一月後の六月下旬である。
沿道には百姓町人が藩主の帰りを待ちかねて大勢集まっており、その中に薫を抱いた鈴の姿があった。
早く子供を抱きたかったが、そういう訳にも行かず、弁千代は一旦お城へ入った。
藩主の鑑寛から労いの言葉を賜り、家老の無門吉右衛門、用人の加藤伊織に挨拶に赴く。
吉右衛門は、報告は後日で良いから早く家へ帰れと言った。伊織の話では鈴と薫は、既に自宅へ戻っているという。
門の前に、鈴と薫が待っていた。
「鈴さん、ただいま戻りました。長い間ご苦労をおかけしました」
「お務め、ご苦労様にございます」
「薫を・・・」
「はい」鈴は薫を弁千代に抱かせた。薫は弁千代を不思議そうに見ていたが泣きはしなかった。
「薫、父だぞ、よう待っていてくれた・・・」声をかけると薫は紅葉のような手で弁千代の頬に触れた。
「おお、よしよし。明日からはたくさん遊んでやるからな」
「さ、ベンさん家に入りましょう。これからは三人の生活が始まるのですね」
「もう、寂しい思いはさせません」
「嬉しい・・・」鈴の頬に涙が零れた。
弁千代が薫を抱いて家に入ると懐かしい匂いがした。
江戸で買った火消し人形と赤蜻蛉が背中の道中袋の中にあった。




