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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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研ぎ


研ぎ



手水を使い、朝食を食べ終って部屋に戻ると女将がやって来た。

手に衣装箱を抱えている。

「中武様の御召し物は、綻が酷く修理が叶いません。本日、呉服屋を呼んで新調致しますので、その間この着物をお召し下さい」

見ると、自分の着ていた物より随分と立派な物だ。

「このように立派な着物、私には似合いません」

「失礼ながら、この着物は亡くなった主人が若い頃に来ていた物に御座います。どうぞお気遣いなくお使い捨て下さいまし」

「そのような大事な物・・・」

「どうぞご遠慮なく、その方が主人も喜びましょう」

弁千代はしばらく考えてから口を開いた。

「ならば、その着物、遠慮なく頂戴致します。その代わり呉服屋を呼んでの新調はお許し下さい、武者修行の身で贅沢な着物は返って修行の妨げになります」

「まあ、武者修行の・・・分かりました、中武様のお気の済むように」

「良かった」弁千代は、ほっと胸を撫で下ろす。

「御刀の研ぎはどう致しましょう?研ぎ師を呼んで構いませんか?」

寺での戦いでは、出来る限り敵の武器との接触は避けたが、已む無く数合打ち合い刃こぼれが出来た、研いで貰えるのならこんな有難いことはない。

「もし、お言葉に甘えさせて頂けるのなら、こちらから出向きます。来て頂くには及びません」

「そうですか、それなら後で場所をお教え致しましょう」

「よろしくお願いします・・・」弁千代は頭を下げた。


女将の持って来た着物は、弁千代の躰にぴったりと合った。

帳場で刀を受け取り玄関に出ると、新しい履物が揃えてあった。

「どうぞお使いください」女将が言った。「話は通してあります、気をつけて行ってらっしゃいまし」

弁千代は女将に見送られて笹野屋を出た。


女将に教えられた場所は宿場の西の端である。そこに一軒の古い家があった。

粗末な家の軒先に”研ぎ”と書かれた札が下がっている。

引き戸を開けて入ると黒い土間だった。正面に神棚があり、奥の部屋との境に注連縄が張ってある。

奥は仕事場なのだろう。

「御免ください」弁千代は奥に向かって声を掛けた。

「はい」

すぐに返事があって、薄汚れた白衣の男が現れた。

研ぎ師というのでもっと年寄りを想像していたが、思いの外若い。三十を少しばかり出たくらいだろう。

「何かご用で?」男が尋ねた。

「あの、笹野屋さんに、行けと言われて・・・」

「ああ、聞いております。貴方でしたか、山賊を退治したお侍というのは」

「いえ、行き掛かり上仕方なく・・・」

弁千代は、ただ胤舜の手伝いをしただけだと思っている。

「私は、研ぎ師の猿阿弥と申します」

「中武弁千代と申します」

「笹野屋の女将さんからは、呉々も宜しくと頼まれております」

「はあ、どうぞ宜しく・・・」

「では、先ず御刀を拝見致しましょうか?」

弁千代は帯から刀を抜いて、猿阿弥に渡した。

「どうぞそこにお座り下さい」猿阿弥は弁千代に框の縁に腰掛けるよう促して、弁千代から受け取った刀を恭しく頭上に捧げた。

拵えを充分に見てから、鞘から刀身を抜き出した。

猿阿弥は一通り刀身を眺めていたが、やがて鞘に納めて言った。

「これを、どの様に研げと?」

「どの様にとは?」

「どの様にとはつまり、斬れる様に研ぐのか、斬れぬ様に研ぐのかと言う事です」

「それは、勿論、斬れる様にでしょう?」

「ならば、この御刀はお返し致します」

「なぜ?」

「私にはこの刀を、これ以上斬れる様には研げません」

「それはどう言う事ですか?」

「刀はただ斬れれば良いと言うものではありません。貴方はまだ、刀の斬れ味に依存なさっておられる」

「依存?」

「そうです、その気持ちがこの様な刃こぼれを作ってしまうのです」

「何を仰っておられるのかわかりません」

「貴方の躰は、刀に依存している分、働かなくなっているのです」

「働かなくなっている?」

「そう、充分に躰が働いていればこの様な刃こぼれは致しません。貴方はこれからも剣の修行をお続けになるおつもりなのでしょう?」

「はい、そのつもりですが・・・」

「ならば、いずれこの刀は痩せ細って折れるでしょう。その時は貴方の命も無くなってしまいます」

「ではどうすれば?」

「それは貴方がお考えになる事です」

「・・・」

「昔、私は、さるお方の刀を拝見する機会に恵まれました。そのお方の剣は天下無双、五十数度の真剣勝負を勝ち抜いて、ただの一度も負けた事が無い。尤も負けた時は死ぬ時ですが。その方の刀には刃こぼれどころか、傷一つついてはおりませんでした」

「相手の剣と触れる事がなかった・・・と」

「しかもその刀は刃引き・・・」

「刃引き・・・ですか?」

刃引きとは、斬れぬ様にわざと刃を潰した刀の事である。

「この事が意味するところを良くお考えくださるのならば、一度だけこの刀を研いで差し上げましょう」

弁千代には、猿阿弥の真意が読めなかった。商売ならばただ黙って刀を研げば良い。

「刀は、武士の魂でありますれば・・・」

最後に猿阿弥はそう言った。


「刀が研げるまで」・・・と猿阿弥が貸してくれた刀を腰に差し、弁千代は外に出た。

猿阿弥の言った事を考えながら歩いていると、後ろから声を掛けられた。

「あらお侍さん、まだこの宿場に居たんですね?随分とこざっぱりした身なりをしてるから、見違えたじゃありませんか」

鈴であった、昨日飯屋で出会った女だ。今日は三味線は持っていない。

「あっ、鈴さん・・・でしたね?」

「まあ嬉しいじゃござんせんか、覚えていてくれたんですねぇ」鈴は伝法に応えて微笑んだ。

「ところで、その御様子じゃ今夜もこの宿場にお泊まりですか?」

「はい、刀が研ぎ上がるまでは出立出来ません」

「どこにお泊まりです?」

「笹野屋に・・・」

鈴はちょっと考えてから弁千代を誘った。

「こんなところで立ち話もなんですから、ちょいとそこの茶店まで付き合ってくださいな」

弁千代も、差し当たってする事も無い。鈴の誘いを受ける事にした。

鈴は茶店の小娘に、お茶と団子を二人分注文してから、なるべく他の客とは離れた床几に腰をかけた。

「どうぞごゆっくり」

小娘がお茶と団子を置いて立ち去ると、鈴が小声で話しだした。

「大きな声じゃ言えませんがね・・・」そう前置きをして鈴が語った内容に、弁千代は驚愕した。今夜、笹野屋に賊が押し入るというのだ。

「本当ですか?」弁千代が訊き返した。

「本当ですとも。私ゃ昨日は大和屋の仲居部屋に泊めてもらったんですよ」

「仲居部屋に?」

「流しの三味線弾きにはよくある事、客が取れない時には布団部屋だって有難いんです」

「客?」

「そんなことはどうでも良いんですよ。それより、その時親しくなった仲居さんが言うには、離れの部屋で大和屋の旦那と、薄気味の悪い浪人がひそひそ話をしているのを偶然聞いてしまったんですって」

「それで?」弁千代は先を促した。

「今夜その浪人と仲間が、笹野屋に押し入って女将さんを拐うんだって言っていたそうです」

「何人で?」

「そこまではちょっと・・・そうしたらいきなり襖が開いて、浪人が出て来たそうなんですよ。その仲居さんはうまく誤魔化して帰って来たらしいんですが、もう生きた心地がしなかったって言っていました」

「それが本当なら、その仲居さんも危ないな」

「そうでしょう」

「取り敢えず、事が済むまでは大丈夫でしょうが・・・」

「お侍さんも、笹野屋に居たらとばっちりを食っちゃいますよ。宿をお変えになったらいかがです?」

「そうは参りません・・・」弁千代は何事か思案していたが、急に立ち上がった。

「鈴さん、有難う・・・団子、ごちそうさま!」

そう言って弁千代は駆け出していた。

「ち、ちょっと待ってくださいよぉ。名前くらい教えてくれても良さそうなもんじゃないか!」

「弁千代、中武弁千代です!」弁千代は早口に言った。

「じゃ、ベンさんでいいね?」

『ベンさん?』・・・「い、いいです。ベンさんでいいです!」

弁千代は、もう振り返らなかった。




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