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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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京都巡礼



京都巡礼



「左内殿、将軍継嗣問題には深入りなされぬ方が御身の為と思うが?」壱岐は左内の身を案じ心からそう忠告した。

「私も、できればそうしたいのですが次期将軍に徳川慶喜公を立てる事は、我が殿の悲願でもありますれば」

「然し将軍建儲は徳川家の内輪の問題、差し当たり我が国としては開国する事が差し迫った重要課題だと存ずるが?」

「それもよう心得ております。その為にこの度京都に参って攘夷派の公卿を説諭して回る事を主君から命じられたのです」

「京は攘夷派浪士どもの坩堝だと聞いている、今では浪士が胸を張って都を闊歩し、幕府の役人がこそこそと小さくなって歩いていると言うではないか」

「それ故、私は先ず梁川星巌の老竜庵を訪ねたいと思っております」

「何と老竜庵と申されるか!梅田雲浜、頼三樹三郎などが屯する『王室書生』の巣窟ではないか!」

「虎穴に入らずんば虎子を得ず、ですよ」そう言って左内は笑った。

「決意は固いようですな?」

「君命に御座りますれば」

「う〜む」壱岐は暫く何事か考えていたが、突然「無門弁千代をお連れ為され」と言った。

「し、然しそれでは・・・」

「そのかわり、朝廷に開国論を敷衍して下され、頼みましたぞ」有無を言わせぬ言い方である。

「は、はい、必ずや御期待に沿うてみせまする!」



左内と弁千代が江戸を立ったのは、安政五年一月二十七日である。その五日前、幕府老中首座堀田正睦が、日米通商条約調印の勅許を得る為に上洛している。

雪模様の中、二人は野袴にぶっさき羽織、手甲脚絆、菅笠に防寒用の引き廻し合羽、という出で立ちで出発した。

最低限の荷物を自分で持つため、二つの旅行李を振り分けにして町人のように肩に担ぐ。

雪で濡れないように、刀に柄袋をかけたが紐は結ばなかった。

病弱な左内は雪と風に悩まされ続けたが、道中何事も無く二月七日には二条にある越前邸に着いた。十二日間の旅であった。


その頃老中堀田正睦は、自室で脇息に持たれ呆然としていた。

日米通商条約の勅許が得られなかったのである。賄賂と脅しで何とかなるとタカを括っていた堀田の思惑は外れた。京都の情勢を甘く見ていたのだ。

当時京都には、水戸や土佐の尊攘派浪士達が雲霞の如く集まり、朝廷工作に奔走していた。いくら開国を説いても頑迷な公卿達は首を縦に振らない。

左内の遊説は幕府の開国を側面から支援する筈であったが、機を逸してしまった感がある。


「老竜庵に行きます!」左内が言った。「勅許を妨害しているのは奴らに違いありません」

「今からですか?まだ旅の疲れも癒えてはおりますまい」

「否、私一人でも行きます。嫌なら弁千代殿はここに残って下さい」

「そうは参りません、お供致しましょう」

二人は暮れかけた鴨川の辺りを、丸太町に向けて歩いて行った。


「お頼み致す!」左内が玄関に向けて大声で呼ばわった。

「誰じゃ」奥からのっそりと現れた梅田雲浜が驚いたように左内を見つめた。

「は、橋本君か・・・久し振りじゃのぅ!」

「これはこれは梅田先生、ご無沙汰しておりました。梁川先生はご在宅か?」

「先生はおられるが・・・ちょっと聞いてくる、先生は変人には会われないのでな」雲浜はにやりと笑った。「ところでそちらはどなたかな?」

「無門弁千代と申す、私の弟子にござる」

「左様か・・・」雲浜は奥に引っ込んだ。


「無門殿、咄嗟の嘘、お許し下さい」左内が謝った。

「何の、構う事はありません。この京では弟子で通して頂いて結構です」

「かたじけない」

奥から雲浜が戻って来た。「お上がりなされ、先生がお会いになられるそうじゃ」

「変人には会われぬのではなかったか?」左内が皮肉を返した。

「先生の気紛れであろうよ・・・」雲浜が苦い顔をした。

二人が通された座敷の床の間の前に梁川星巌が座し、左右に七、八人の書生が屯ろしていた。

左内は涼しい顔でツカツカと星巌に歩み寄り膝を折って礼をした。「橋本左内と申す不束者で御座います、本日は先生のご高説を承りたく存じ罷り越しました。どうぞお見知り置きください」

「あはははは、橋本氏、貴殿の令名はこの京都でも響きわたってござる。開国派の貴殿が攘夷派の巣窟であるこの地にようこそおいで下さった。ともあれご身辺にはせいぜいご注意なされよ」星巌は破顔一笑してこう言った。

「ご忠告痛み入ります。然し此処は幕吏言う所の『悪謀の問屋』、いかなる暴徒であれ襲ってくる心配は無いでしょう」

「なにっ、それは皮肉か、返答次第では生きて帰さんぞ!」屯ろしていた所生の中から怒号が飛んだ。

「これは・・・誰かと思えば頼三樹三郎先生ではありませんか、こんな所におられたか」

「こんな所とは何じゃ、お主は開国派の手先、此処に何用があって来た!」

「先ほども申した通り、ご高説を伺いに・・・」

「日本は神国じゃ、穢れた夷狄など打ち払えばよい、開国など無用じゃ!」

「では伺います、どうやって打ち払うのですか?日本の大砲の弾は黒船には届かない、敵は悠々とその神国に弾を撃ち込むことが出来る。しかも、敵は一国では無い、アメリカは勿論、ロシア、イギリス、フランス、ドイツなどが連合して攻めて来たら、この神国は一瞬にして焦土と化しますぞ!」

「だから、日本は神国なのじゃ、神風が吹くわい!」

「笑止、神風が吹くという証拠は?」

「くどい、元寇における神風がその証拠じゃ!」

「ではお尋ね致す」左内はあくまで冷静だ。「元寇の勃発に対し、北条氏は神風が起こる事を知っていたのですか?」

「無論じゃ!」

「北条氏はあらかじめ神風が起こる事を知っていて元の使者を斬ったのですか?」

「無論・・・」

「元が、まさか攻めては来ぬだろうと、タカを括っていたのではありませんか?」

「・・・」

「斬ったから、元が攻めて来たのでは無いですか?」

「う・う・う・・・」

「神風が起こると知って、元使を斬ったわけでは無い!そのような事は断じて無い!」最後は太刀で斬るような左内の舌鋒であった。

「ウォー!」いきなり刀を抜いた三樹三郎が左内に斬り掛かった。が、大上段に振りかぶった剣がピタリと止まった。

「お静かに」弁千代の剣の切っ先が、三樹三郎の喉元にあった。

「ワハハハハハ、頼さんあんたの敵じゃなさそうだ」じっと二人の論戦を聞いていた星巌が口を開いた。

「お待たせしました」その時、隣室から茶と羊羹を盆に乗せ星巌の妻が現れた。「お茶もお出しせず失礼致しました。橋本様、うちの人は甘党なのでいつもこんなものを用意しているので御座いますよ」

「これは・・・恐れ入ります。私も下戸なので羊羹には目がないのですよ」そう言って左内は羊羹を一切れ口に入れた。

「三樹三郎さんもいかがですか?」

「いえ、私は結構です・・・」三樹三郎は憮然として答えた。

「橋本氏」星巌が言った。

「はい」

「よく分かり申した。今後は軽々しく外夷を打ち払おうなどと言わぬようにしよう」

「ありがとう御座います。今後は力を合わせて”神国”の為に尽くしたいと思います」

左内は星巌に、自分を同士として認めさせてしまった。

「ところで、星巌先生」左内は改めて星巌に向き直った。

「なんですかな?」

「ご迷惑ながら、伝奏久我建通様諸大夫春日潜庵先生に紹介状を書いていただけませぬか?」

「なんと」星巌は呆れてしまった。「貴殿は潜庵にまで開国論を説くつもりか?」春日潜庵は攘夷派の大物なのである。

「いえ、久我卿に将軍建儲のお願いを致す所存です」

「食えぬ男だよ・・・貴殿は」

「はっ、恐れ入ります」左内はちゃっかり紹介状も手に入れてしまった。



「全く無茶なお方ですな」弁千代が言った。

「そうでしょうか?」

「貴方が武術家なら、恐ろしい達人になっていたことでしょう」

「お褒め頂き恐縮です」

「それ故・・・命を落とされていたかも知れませぬ」

「武術家でなくて良かった」左内はニッコリと微笑んだ。「あ、無門殿雪が・・・」

「京都は底冷えが厳しい、早く邸に帰って湯に浸かりましょう」

「同感です」

二人は鴨川の辺りを足を早めて歩き出した。




左内が熱を出した。旅の疲れと京の寒さが原因だろう。

行く所がある、と言う左内を無理に布団に寝かせ、弁千代は越前屋敷を出て来た。この機会に一人で京の街を歩いてみたかったからだ。今日は昨日よりも日差しがあって暖かい。

あれからいくつかの公卿邸を訪れたが、公卿は皆一様に偏狭で無知であった。

長い間世間から隔離され純粋培養された公卿たちは、世界情勢にも疎く只々現状が変わらない事だけを望み、夷狄を打ち払いさえすれば現状を維持できると思い込んでいた。

いくら開国を説いてもほとんど興味を示さない。そのくせ将軍建儲に話を振ると、身を乗り出して訊いてくる。他人の家の内情には興味があるのだ。

左内は仕方なく、一橋慶喜公の擁立に的を絞って公卿たちを説得する事にした。

「京都に虎はおらぬ」左内は溜息をついた。

虎を真似る狐だけは沢山いる。狐は虎の振る舞いをよく知っていて、その通りに振舞うことが上手い。しかし狐は虎の心までは真似出来ない、虎ならば話の落とし所は心得ているはずだ。

その事が分からない狐は、相手の話も理解出来ず、ただ、自分の意見だけを通そうとする。

本当の虎になりたければ、虎の真似をやめるべきなのに。

そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか三条大橋に差し掛かった。


「旦那・・・」思わぬ方向から声を掛けられた。

「旦那」もう一度呼ばれて、声のする方に目を落とす。

「お主は・・・」隠し目付の長七であった。長七が老いた乞食に身を変えて弁千代を下から見上げている。

「珍しいところでお会い致します」菰の上に手をついて長七が言った。

「何故このような所に?」

「ここは、東海道の西の端、京の入り口で御座りますれば・・・」

浪士の出入りを見張っているという事か。

「私に銭をお恵みください」

「ああ・・・」弁千代は懐から巾着を出す素振りをして膝を折った。

「お気をつけなせぇ」長七が小声で言った。

「・・・」

「幕府は、消極的とは言え開国論、それを説いて回る分には目を瞑りましょう。然し、将軍建儲に関しては紀州慶福公に傾いている。このまま一橋公を推せば幕府は必ず牙を剥く」

「何故、そのような事を私に?」

「あっしは、旦那が好きなんでしょうや」長七は他人事のように言った。

チャリンと、欠け茶碗に銭の落ちる音がした。

「お有難うございます・・・」




熱が下がった左内は、吟風弄月軒に春日潜庵を訪ねた。潜庵は在京の攘夷論者の中でも最硬派の筋金入りであり、一度の論戦で開国論に転向させる事は到底無理である。左内は最初から論点を将軍継嗣問題に絞った。

「次期将軍に一橋慶喜公を御推挙頂きたく参上仕りました」

潜庵は左内の女のような風貌と柔らかな物腰を見て侮った。

「将軍建儲など幕府内の問題だ、そんな次元の低い問題で議論する暇は無い!」と嘯く。

「今や建儲は日本国の問題でござる!」

「ほほう、それはどういう事かな?」そう言って潜庵は片頬で笑った。

左内は、潜庵の舐めきった態度に議論の無駄を知り策を講じた。

「京で最高の智者と謳われる潜庵先生にしてこの為体、これ以上は時間の無駄、お暇致す!」

左内は立ち上がって呟いた。「それにしても京には人がおらんなぁ・・」

「待て!」潜庵は左内の策に掛かった。「逃げるのか!」

「京に人無しとはなんたる言い草、問いに答えず去るとは卑怯であろう!」

左内は内心ほくそ笑んだ。

「雑言失礼致しました。然らば聞いて頂きましょう」

そう言って左内は座り直した。答えろと言ったからには潜庵は聴くしかない。

「先生はペリーの著した『日本紀行』をお読みになった事がありますか?」

「い、いや無い・・・」

あろうはずが無い、これは幕府の蕃書調所に保管してある対外文献なのである。

左内はこの文書の中で、ペリーが如何に日本を見下し、脅しと嘘で日本を愚弄し、幕府が如何にその術中に陥って右往左往させられていたかを悲憤慷慨してみせた。

「実に心外の至り、痛恨の極み!」

「わ、分かり申した落ち着かれよ・・・」

「これが落ち着いて要られましょうや!」

「し、然しそれは外国奉行に人を得ていなかったからでは無いのか?」

「現在ハリスと交渉しているのは井上清直、岩瀬忠徳のお二人です。彼らは見識と弁舌を兼ね備えた能吏です!」

「ならばもっとうまくやれる筈ではないか?」

「如何に外国奉行が有能であっても、幕閣に定見なくば日本は舐められ操られるだけです」

「う、う〜む、幕閣の意見を統括決定する英邁の将軍が必要だという事か・・・」

「その通りでございます」左内は深く頭を垂れた。

「ようわかった。橋下殿、儂も慶喜公の為死力を尽くしましょうぞ!」

「ありがたき幸せ、橋本左内、今日のことは一生忘れませぬ・・・」



「無門殿、如何で御座った私の役者ぶりは?」帰路、肩を並べて歩きながら左内が笑った。

「見事な駆け引きでした、然し・・・」策に溺れすぎる嫌いがある。

「それは私も重々承知しています。ですが目的を果たさず帰る事は出来ません」

「ご無理をなされぬよう」

「あはははは、心配ご無用です」


左内は今日の成果に満足しているようだったが、弁千代は長七から聞いた話が頭に引っかかって素直に笑う気にはなれなかった。


幕府の目的は、日米通商条約の勅許を得る事にある。

然し、朝廷の空気は攘夷を実行しさえすれば日本は安泰であるという意見に傾いている。

宮廷では勅許反対派の関白・九条尚忠と賛成派の太閤・鷹司政通が熾烈な権力闘争を行なっており議論は紛糾していた。

三月に入って九条尚忠が井伊直弼の側臣長野主膳に説き伏せられ賛成派に転向すると、時を同じくして鷹司政通が諸大夫・小林良典から切諌され反対派に転身、宮廷は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。

結局、反対派公卿の反乱により勅許は事実上拒否された。


将軍建儲の勅諚は、左内の活躍によりほぼ慶喜に固まりつつあったが、長野主膳の賄賂と恐喝で英傑・人望・年長の三条件を省かれ、ほぼ骨抜きにされてしまった。


京都工作は左内の完敗であった。



「無門殿、私はこれから大坂に向かいます」

「何故?」

「京都工作は藩の機密事項、本来の名目は『航海術原書取調べの為出坂を仰付けらる』というものでした」

「では、名目を果たす為に大坂へ?」

「はい、結果は私の完敗でしたが、藩の命令はきちんと果たさねばなりません」

「では、私もお伴します」

「いえ、無門殿のお仕事はここまでです。壱岐殿の話によれば五月には柳河に下向されるとの事、それまでに無門殿を返してくれと頼まれました」

「然し」

「聞けば、貴方にはお子が産まれたとの事、早く柳河に戻り顔を見ておやりなさい」

「橋本殿・・・」

「縁があったらまたお会い致しましょう」

「はい、貴方もお元気で」

「では、これにてお別れ致します」

「御身大切に・・・」


この日が、二人の今生の別れとなった。







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