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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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ハリス謁見


ハリス謁見



「弁千代、松寿院の日記を返す」壱岐は借り上げ屋敷の一室に弁千代を呼んだ。

「はっ、如何でございましたか?」

「面白く読ませてもろうた」

「どの辺が面白うございましたか?」

「まず、城下に三つ子が産まれた時の久留米藩有馬公の粋な計らいかのぅ」

「はい、周囲の者が三つ子は不吉だから殺してしまえ、と騒いでいるのを聞き知った殿様が、調査の上養育費と赤い産着を三枚下された事でございますね」

「うむ、殺されかけた赤子が一転祝福されたのだから心地よいのぅ」

「他には?」

「山口萩での盲女の寄り合いの話じゃ」

「萩領内では目の不自由な女子に、二十人につき一人扶持を下されるという事でしたが」

「大した額ではないが、障害のある領民に藩が生活の補助をしている事は見習わねばならぬ」

「御意」

「それから、国境の関所の取調べの杜撰さには驚いた。殆ど素通りではないか」

「薩摩などいくつかの藩では厳しいところもあったようですが、それでも通れぬという事はありません」

「松寿院はあの厳格な箱根の関所も、訳の分からぬ屁理屈を捏ねて見事に通り抜けている」

「私もあれには笑ってしまいました」

「それから、女子の旅人が多いのも意外であった」

「それだけ安全だという事でしょう」弁千代は笑顔で言った。

「こうして見ると、日本は平和な国よのぅ」

そこで、弁千代は表情を引き締めた。

「然し、それも昨今変わりつつあるように思われます」

「左内殿が狙われた件であるな」

「国の為を思って奔走している者を狙うとは、許せません」

「弁千代、正義は一つではないぞ、自分を不義だと思って行動している者はおるまい、だからこそ厄介なのだ」

「正義に区別があるのですか?」

「うむ。例えば武士の正義は主君に義を立てる事であるな?」

「はい」

「主君の正義は大樹公に義を立てる事だ」

「はい」

「大樹公の正義は帝に義を立てる事」

「はい」

「では、大樹公が帝に不義を働いたらどうなる?主君が大樹公に同様のことをしたら?」

「我々は誰に義を立てれば良いのか分からなくなります」

「であろう、今がまさにその状態なのじゃ」

「ではどうすれば?」

「それは自分で考えるしかなかろう」

「・・・」

「弁千代、転がり始めた大岩は簡単には止まらぬ、心して行動せよ」

「御意!」


安政四年十月二十一日、タウンゼント・ハリスは宿舎である九段坂の蕃書調所を出て江戸城に登城した。

『自分は日本の首都である江戸に初めて迎えられる外交代表者だ。交渉の如何に拘らずこの歴史的事実は厳然として後世に残るのだ』ハリスの高揚と緊張は最高潮に達した。

ハリスは下田奉行井上信濃守に先導され身を屈めて謁見の間に入り、将軍家定に向かい礼をする。

「ヘイカ、ワタシハ、アメリカダイトウリョウカラノシンニンジョウヲジョウテイスルニアタリ、ヘイカノケンコウトコウフクヲ、マタ、ニホンノリョウドノハンエイヲ、ダイトウリョウガセツニネンガンシテイルコトヲノベルヨウメイジラレマシタ。ワタシハヘイカノキュウテイニオイテ、アメリカガッシュウコクノゼンケンタイシトシテ、タカク、カツオモイチイニエラバレタコトヲオオキナコウエイトカンガエテオリマス。ソシテ、ワタシノココロヨリノネガイハ、リョウコクノエイゾクテキナユウジョウノキズナニヨッテ、ヨリキンミツニリョウコクヲムスビツケルコトニアリマス。ソノコウフクナモクテキノタッセイノタメ、ワタシハフダンノドリョクヲソソグコトヲチカイマス」ハリスはそう言って頭を下げた。


次は、将軍徳川家定の答礼の番である。家定は言葉を発する前に、神経麻痺患者特有の異常な挙動を示した。首を後ろに倒し、足をドン・ドン・ドンと三回踏み鳴らしたのである。

居並ぶ諸侯たちの顔が引き攣った。

然し、ハリスはこれを、日本の高貴な人が行う作法であると誤解した。

「遠境の処、使節を以って書簡差越し、口上の趣、満足せしめ候。猶幾久しく申し通ずべし。此段大統領へ宜しく申し述ぶべし」と将軍は答えた。

ハリスにはその声が、良く通る気持ちの良い、しっかりした声に聞こえた。

斯くして、将軍拝謁の儀は滞りなく終わり、家定を愚昧の将軍と決めつけた諸侯の心配は杞憂となった。








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