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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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橋本左内



橋本左内



「弁千代、実は折り入ってお主に頼みたい事があるのだが」開口一番、壱岐が言った。

「は、何なりと」壱岐に呼ばれて藩邸を訪れた弁千代は、てっきり松寿院の日記を返されるものと思っていた。

「ある御仁の警護をして欲しい」

「その御仁とは?」

「越前の橋本左内殿」


越前福井藩は天下の賢公と誉れの高い松平慶永(春嶽)を藩主とする譜代の大藩である。

立花壱岐は、建前としては攘夷を主張している越前を開国論に転身させ水戸を巻き込み、ハリス応接に関し、日本側の主体的な開国論によって国論の統一を図ることを狙っていた。

その為、肥後熊本で不遇を囲っている横井小楠を越前に招聘させようと活動を開始したのである。

壱岐が簡堂の邸で披露した説論は、小楠譲りのものと言って良い。

横井小楠は後年勝海舟に、『俺は今まで天下で恐ろしいものを二人見た、それは横井小楠と西郷南洲だ。横井の思想を西郷の手でやられたら、もはやそれまでだと心配していたのに、果たして西郷は出て来たわい』と言わしめた人物である。

然し肥後がなかなか色よい返事をしない、そこで壱岐が白羽の矢を立てたのが越前の若き天才橋本左内であった。

左内は、元々は攘夷派だったが、蘭方医として原書に接することで西洋の息吹に触れ、緒方洪庵の適塾で徹底した合理主義の洗礼を受けた事により、この時期開国論に傾倒しようとしていた。

壱岐との書簡のやり取り、また直接に会って丁々発止の議論をした事で完全に開国派に転向し、横井小楠招聘に尽力する事、雄藩連合を実現する為に君公を説得する事などを約束した。


「開国論を軟弱な腰抜け外交だと罵倒する過激な攘夷派の連中が、左内殿の転身を面白く思っていない事は明らか、暫くの間氏の身辺警護を頼みたいのだ」

「敵は攘夷派の連中だけでありましょうや?」

「なぜそう思う?」

「いつぞや、土佐藩の侍が将軍継嗣問題について議論していたのを聞きました故」弁千代は、父の言霊の事は言わなかった。言っても到底信じてはもらえまい。

「将軍継嗣問題は、ハリスの登城問題をきっかけに火が着いたのだ。身心健全でない現将軍家定公にこの未曾有の難題を処理できる筈がない、と言うのが彼らの論理だな」

「水戸の御老公が実子の一橋慶喜公を推していると聞きました」

「越前公も然りだ。彦根の井伊直弼殿が推しているのが紀州の慶福公、これは幕閣内の権力闘争であり、攘夷開国問題とは関係が無い、この事に首を突っ込んではならぬ」

「しかし、敵を見極める事は困難」

「今は左内殿の身が大事、だから浪人であるお主に頼んでおる」

「なるほど」

「承知してくれるか?」

「承知致しました」

「では早速左内殿を越前藩邸まで送ってくれ」

「御意!」



橋本左内は、立花壱岐とは好対照をなす人物だった。

小柄で肌の色は白く、柔和な感じのする男だ。とても、十五の時に武士道の退廃や商人の台頭を嘆く『啓発録』を著した人物とは思えない。ただ、その弁舌は刀を持って斬られるようだと評されている。

弁千代は提灯を持って出たが、路傍の柳の木立がはっきりと認識できる程、月が明るい宵だった。

左内は弁千代の少し後を黙って歩いている。とても強そうに見えない弁千代に、不安を隠しきれないでいる。

どのくらい歩いただろう、武家屋敷の塀に挟まれた狭い通りに出た。

白いなまこ塀が途切れたところに、何か蠢くものが見えた。

「私が提灯を消したら全力で引き返してください」弁千代が左内に囁く。

三歩目に弁千代が提灯の火を吹き消した。

左内は向きを変えダッ!と走り出した。前方の人影が動いた、抜刀して無言でこちらに駆けて来る。

弁千代もその人影に向かって走り出す。

先頭を駆けてきた敵を、抜き打ちに斬り上げた。左手の指が、二、三本飛んだ。

返す刀で右前方の敵の右手首を斬り落とし、身を沈め左からきた敵の脛を片手斬りにする。

一瞬の出来事であった。

後ろを見ると、遠くに左内が呆然と立ち竦んでいる。

「終わりました、さ、参りましょう」

地に伏して呻いている三人の横を、恐々と通り抜け左内が弁千代の横に来た。

「私は夢でも見ているのでしょうか?」

「これが現実です」

「・・・」

「今夜はもう襲っては来ないでしょう、ゆるりと参りましょうか」

「は、はい・・・」



暫くの間、左内は弁千代と肩を並べ歩いた。

ややあって、左内が弁千代に尋ねた。

「無門殿・・・」

「はい」

「無門殿は、今の日本をどう思いますか?」唐突な質問であった。

「どう、とは?・・・私に政治向きの事はわかりませんが」

「いえ、思ったままで良いのです、今の日本は住みやすいですか?」

「そうですね、市井に身を置いていると毎日が平和だなぁと感じます。この平和がずっと続けば良いなとも。勿論 満ち足りている訳ではありません、かと言って不足がある訳でもありません、過不足の無い事が平和なのだと思います」

「少し話をしても良いですか?」

「私で良ければ」

「ご迷惑では?」

「まだ越前屋敷は遠ぅ御座います」

「では、屋敷に着くまでの座興に・・・」左内はポツポツと語り始めた。

「日本は辺境の国なのです」

「辺境とは?」

「そのままの意味です、世界の端っこ」

「何故、そう思われるのですか?」

「日本という国名が如実にそれを表しております」

「わかりません」

「日の本とは東という意味です、なんの東か分かりますか?」

「さあ?」

「それは華夏(中国)に他なりません」

「華夏の東?」

「はい、古来世界の中心は華夏でありました。日本というのは大陸の天子から見て東にある国という意味なのです」

「・・・」

「然し乍ら、日本は永く独立を保って参りました。それは日本が万里の波濤を隔てた辺境にある国だからです」

「日本人はそれを意識していたのでしょうか?」

「していたと思います。知っていながら知らないフリをして勝手な事をやっていたのです、だから鎖国も出来たのです」

「それがもう出来なくなった?」

「蒸気船の登場は日本を辺境の地のままではいられなくしてしまいました。アメリカから日本まで僅か二十日ほどで来る事が出来るのです、しかも体力の消耗も少なく大勢が移動出来る」

「我々が江戸から柳河まで帰るのに同じ日数が掛かります。途中船を使ったとしても兵は自分で歩かねばなりません」

「だから、今戦争をすることは無謀なのです、攘夷派の連中はそれを分かっておりません」

「・・・」

「いや、こんな話がしたかったのではありませんね・・・」左内は姿勢を正した。「先ほどの技は居合でしょう?」

「はい」

「私は体が弱かったので、十二の頃父に勧められて久野猪兵衛先生に柔術を学びました。先生は拍子流居合の上手で度々教えてくれましたが、私には難しくてあまり物にはなりませんでした」

「そうだったのですか」

「居合とは、日本独特の武術なのでしょう?」

「そう思います、大陸や西洋にはあのような武術はありません」

「私は、日本が辺境の国だからこそ居合が生まれたのでは無いかと思っています」

「それはどうしてですか?」

「華夏や西洋の列強は、自分たちが世界の中心であると思っています。そのような”考え方”では、場の主導権は自分が握っている、と”考える”のが普通です。とても居合という”考え方”には行き着きません」

「居合という”考え方”ですか?」

「はい、居合はすでに相手が抜刀して構えている、こちらはまだ柄に手さえ掛けていない、そのような絶体絶命の状況を想定していますよね?」

「はい、仰る通りです」

「つまり、相手が場の主導権を握っている状態で、どうやったらその状況をひっくり返せるか?という”考え方”から発生した技術が居合なのだと言えます」

「それが辺境の”考え方”だと仰るのですか?」

「はい、これはもうどうしようもなく長い年月をかけて、日本人の胎内に染み付いた考え方なのです、だから普段は意識する事さえありません」

「確かに、そのように考えた事はありませんでした」

「私が並居る論客を議論で説き伏せる時、見識や雄弁よりも、幼い頃居合で学んだ”考え方”が役に立ったのだと思います」 

「・・・」

「そして、先ほどあなたが実戦で見せた静かな気魄、この気魄が何よりも大事なのだと悟りました」

「・・・」

「日本は今、絶体絶命の危機的状況に陥っています」

「危機的状況とは?」

「簡単に言えば、勝手に規則を決められた双六に、規則を知らないまま無理矢理参加させられたという状況に近いかと思います」

「双六・・・ですか?」弁千代には良く分からなかった。

「あっ、藩邸が見えてきました、ここからは私一人で大丈夫です」

「そうですか」

「日本をこれからどうすれば良いか、もう一度考えてみたいと思います」

「貴方ならきっと良い案をお考えになるでしょう」

「期待していて下さい」


左内は胸を張って藩邸の門に向かって歩き出した。








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