立花壱岐
立花壱岐
若いが、戦国武将を思わせる風貌の男であった。
肌は浅黒く眉は濃く太い、目はギラギラと輝き背丈は弁千代より頭一つ分高い。
立花壱岐はしかし、柳河藩立花家累代の名門の子であった。
「お主が中武弁千代か?」
「はい」
「今は、無門弁千代を名乗っておるそうじゃな?」
「組外家老無門吉右衛門様には、市井に紛れて庶民の暮らしを見て参れとの仰せでした。その為には本名では何かと不都合であろうと、この変名を許されたのです」
「しかし自分の名を与えるとは、無門殿のお主に対する信頼は並々ならぬものがある」
「はっ、有難き事で御座います」
壱岐は暫く弁千代を見据えていたが、ややあってこう尋ねた。「して、市井の者はこの日本をどう見ておる?」
「市井の者には攘夷も開国も何処吹く風、政治向きの事はお上のやる事と割り切って、日々の暮らしを精一杯に送っております」
「不満は無いと?」
「まったく無いわけではありませんが、概ね満足しているのでは無いかと察せられます」
「それは江戸だけのことでは無いのか?」
「そうとも申せません、勿論藩によっても多少の違いはあるでしょうが」
「その根拠は?」
「先日、全国を六年かけて乞食行脚した山伏に話を聞く事が出来ました。私の住んでいる長屋の住人で松寿院と申す者でございます」
「ほう、山伏が」
「精緻な日記を記しておりました」
それは、こういう事であった。
先日、長い事留守にしていた家に明かりが灯っていたので訪ねてみたのである。
障子格子の入り口には『山伏、松寿院』と大書してあった。
「今晩は、私は昨年この長屋に引っ越して参りました無門弁千代という者です。まだご挨拶が済んでおりませんでしたが、本日灯りが見えましたので不躾とは思いましたがご挨拶に参上致しました」弁千代は入り口の外から声をかけた。
「どうぞお入りくだされ、同じ長屋の住人同士、遠慮には及びませぬ」
「では、失礼致します」
戸を開けると、剃髪した僧形の老人が文机の前にきちんと座って、なにやら書物を読んでいた。
真っ黒に日焼けして、見るからに健康そうである。
「ご浪人様・・・ですかな?」僧が訊いた。
「はい、故あって只今は浪々の身でございます」
「まず、狭い所ですが上がられよ」
弁千代は、刀を外し畳に上がると手をついて挨拶をした。
「夜分、突然の訪問をお許しください、私は柳河藩浪人無門弁千代と申します」
「ご丁寧に痛み入る、私は河口智亮、修験者としての院号は松寿院と申す。この一年九州を回国修行して昨日戻って来たばかり、柳河にも参りましたぞ」
「私も武者修行をしながら、二年ばかり旅をして回った事があります。失礼ながらご高齢の身でさぞ大変で御座いましたでしょう」
「なんの、儂は間道の裏の裏までこの足で踏破しましたが、どんな山の中でも必ず泊めてくれる家がありましたぞ、従って野宿などした事がない」
「それは九州でのことで御座いますか?」
「とんでもない、儂は足掛け六年を費やして北は秋田から南は宮崎鹿児島まで全国を托鉢行脚して回ったのじゃが、これはどこへ行っても同じ事でござった。寧ろ貧しい農村ほど親切にして貰いましたのじゃ」
「怖い思いや危ない目にお会いなされたことは?」
「唯の一度もござらぬ」
「私は武者修行に出ました頃、山賊に襲われた事があります」
「失礼じゃが、それは貴方が戦いを求めておられたからであろう。戦いを欲する者は戦いを引き寄せるものですからな」
「そうかも知れません・・・」
「儂には異国の事情は分からぬが、物の本などを読んで察するに、今の世にこの日本ほど平和な国は何処にもありますまい」
「誠にそう思われますか?」
「お疑いになられるか?」
「いえ、ただ昨今世情が騒がしくなっておるようで御座いますので」
「それは黒船の事を言っておられるのかな?」
「は、それも含めてで御座います」
松寿院は暫く考えを巡らしていたが、文机の上にある書物を閉じて言った。
「ここに、儂の書いた日記がある。これを貴殿にお貸ししよう。これを読まれれば今の日本の下々の暮らしや考え方がよく分かるであろう」
「お借りしてもよろしいので?」
「どうぞお好きなだけ時間をかけてお読みくだされ。これは誰に見せようと思って書いた物ではありませんので嘘や誇張はありません。時には批判めいたことも書いておりますが年寄りの繰言と思ってお笑い下さい」
「もし、必要があれば、人に見せても良う御座いますか?」
「どうぞご随意に」
「では、有り難くお借り致します・・・」
「という次第でございます」弁千代は壱岐に、千寿院から日記を預かった経緯を語った。
「お主は読んだのか?」
「はい、三日程掛けてようやく読み終わりました」
「柳河の事はどのように書いてあった?」
「城下の山伏はつまらない男であったと。細工町の商人宿に泊まったが同宿の客が大騒ぎをするやら博打を打つやらで一睡も出来ず、『放埓な城下なり』と怒っておりました」
「わははははは、面白い、その日記儂にも読ませてくれぬか?」
「そう言われるであろうと思い、ここに持参してまいりました」
弁千代は松寿院の日記を壱岐の前に差し出した。
「おお、それは気が効くな。早速今夜から読み始めるとしよう」
「では、読み終わりましたら私をお呼びください、取りに参ります」
「あい分かった、ご苦労であった、下がって良いぞ」
「ははっ、ではこれにて失礼を致します」
弁千代は頭を下げて、壱岐が部屋から出ていくのを待って退出した。
松寿院の日記が、壱岐にどのような影響を与えるか分からない。しかし、生まれてからずっと侍だった人間には気付かぬ事も多く書いてあった。
『後は壱岐殿の見識に期待をいたそう』
弁千代は下屋敷を出て、蛇骨長屋に向かって歩き出した。
翌日から、立花壱岐は積極的に活動を開始した。傍らにはいつも大石進がいる。
まず訪ねたのは野に下った攘夷派の大物、羽倉簡堂であった。
簡堂は幕命を帯びて伊豆七島を巡検し海防意見書などを提出したが、政治的対立により家督を弟に譲り、江戸に出て『海防私策』などを著した。その門には各藩の若者が大勢訪れている。
齢六十八歳の簡堂は、各釈として床の間に背を向け書き物をしていた。
「筑後柳河藩家老、立花壱岐で御座います」壱岐は恭しく拝礼したが簡堂は顔を上げようともしない。壱岐は黙って待った。
書き物を終えた簡堂は弟子を呼んでそれを渡し、初めて壱岐に声をかけた。
「先日、阿部閣老が亡くなった」
壱岐は勿論知っていたが黙っていた。死因は癌である。
「若い妾などを持つから房事過多に相違あるまい。そこもとなどもまだ若い故、酒色には余程注意が必要じゃな」と言って笑ったが、まだ筆は握ったままだった。
老中阿部正弘は、協調・調和を旨とし過激な水戸の御老公とも常に通じ、朝廷との関係も維持しつつ幕府内の対立も丸く収めた。八方美人で節操がないとの批判もあったが、時として見せる豪胆さはまさに賞賛すべきものがあった。
「そういえば、貴公は柳河藩の家老とか申しておったが、この老人に何用あってのお訪ねか?」
壱岐の目が怪しく光った。
「そこな老人、よく聞かれよ!」間髪を入れず壱岐が言った。「まず宇内の体勢を論ずる!」
簡堂は一瞬にして気を呑まれた形となった。
「まず一つ、天地に従う事!」
「天地は万物の父母であり、人は其の心を理解しそれを実行しなければならぬ」
「我が国が小国とはいえ長い間世界の中で独立し得た理由は、超える事の出来ない万里の海に囲まれていたからであり、鎖国はこの天地の理に従っていたものである」
「この海が、蒸気船の発明によって役に立たなくなったからには国を開くしかない」
「国を開くも或いは鎖ざすも、其の形は異なれど天地の理に従うことに於いては一つのものである」
簡堂は驚愕の表情を浮かべ手に持った筆を置いた。
「二つ、万国と交わる事!」
「交易、攘夷いずれにも偏ってはならぬ」
「何故ならば、交易は国を治める始めであって、攘夷は平和な国の終わりだからである」
「徒に鎖国政策を維持しようとすれば、世界の中で孤立し外国から攻められ忽ち国は滅びてしまう」
「然し乍ら、通商交易を行って攘夷を知らない場合も国は滅びる」
「通商交易交渉が決裂し、大義名分を明らかにする為にやむを得ず夷狄を討つ、これが真の攘夷である」
「これは万国公法に照らして見ても、何ら疚しい事では無い」
簡堂は席を立ち、壱岐の方へ膝を進めた。
「三つ、攘夷とはどういう事か?」
「攘夷を行う場合は、日本の大義名分について諸外国の同調を得、連合して戦うべきである」
「何故なら西洋の大国はその兵制を統一し、幾多の実戦を経て富国強兵である」
「日本は元々が小国であり、それを六十余州に分け更に三百諸侯に藩主をおき、兵制も法令も軍備もバラバラで、こんな状態で攘夷を行っても負けるのは火を見るよりも明らか」
「速やかに挙国一致の体制を築き、自前の武器を鋳造して日本の兵制を統一し、苦難を共にし強弱を等しくして攘夷の機会を待たなければならない」
「その間はよく自制して各国と付き合うことが肝要である」
「更に・・・」
「誰かある!」壱岐の長い話が終わった時、簡堂が叫ぶように言うと一人の弟子が次の間に手をついた。
「酒じゃ、酒を持って参れ!今宵は珍客を得た!」
簡堂の態度は来た時とはガラッと変わっていた。
簡堂と盃を交わし今後の交誼を約束した壱岐は、意気揚々と簡堂の邸を後にした。
「進、どう思う?」駕籠の中から壱岐が訊いた。
「どう、と申されますと?」
「あの百年を経たような狸爺いが、本当に儂の説に心服したと思うか?」
「それはありますまい。簡堂が御家老の見識に驚いた事は間違いありませんが、筋金入りの攘夷論者がそうやすやすと自説を覆すとは思えませぬ」
「そうであろうな」
「然し乍ら攘夷派の情報源を手に入れた事は間違いありません」
「それだけでも来た甲斐があったというもの」
「明日は藤森弘庵の邸ですな」
弘庵は隠居して土浦藩の客分となったが、嘉永二年に江戸に出て、ペリー来航時に『海防備論』を著した。
この説論が水戸の徳川斉昭の目に止まり名声が一気に高まったが、諸藩の招聘には頑として応じなかった。
「弘庵のところには、腕の立つ攘夷論者がいると聞く」
「心配ご無用、論では御家老に敵いませぬが、剣の事なら拙者にお任せくだされ」
「ははははは、心強いぞ進、しっかり頼む!」
「ははっ!」
柳河藩家老立花壱岐の江戸での活動は、こうして始まった。




