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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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江戸入り前夜



江戸入り前夜



「弁千代居るか!」大音声が響いていきなり入り口の引き戸が開いた。

「お、大石さん・・・」

「久し振りじゃのぅ、藩邸の吉村に聞いて来た」進は朱塗りの長刀を腰から外し框に腰掛けた。

「到着は明日の筈ではなかったのですか?」

「殿の到着は予定通り明日じゃ、今頃は品川宿の本陣でお身体を休めて居られる。俺は一日も早くお主にこの手紙を届けたくて、御家老にお願いして先に江戸入りさせてもろうたのじゃ」そう言いながら大石進は懐から一通の手紙を取り出し弁千代に渡した。

「これは・・・」

「出発の前日、加藤様のお屋敷より使いが来て、江戸に着いたらお主に渡してくれと言われた。きっとやや子の事が書いてある、はよう開けて読んでみぃ」

「わ、わかりました!」弁千代が逸る気持ちを抑えながら封を切ると、加藤伊織の筆跡が目に飛び込んで来た。

じっと手紙に目を落としているうちに、弁千代の目が潤んで来た。「良かった・・・」

「なんと書いてあるのじゃ?」

「無事、男子が産まれたと・・・思いの外の安産で母子供に元気だと・・・」

「それは良かった、他には?」

「名は鈴の希望で『薫』にしたと・・・」

「薫か、良い名じゃ、めでたいのぅ!」

「あ、ありがとうございます」弁千代は進に頭を下げた。

「やっと肩の荷が下りた気分じゃ」

「お疲れの所、誠に申し訳ありませんでした」

「なぁに、剣術で鍛えた躰、これくらいの事ではビクともせんわい」

「相変わらずですね」

「したが、明日からは御家老に従って動かねばならん。攘夷派の動きも気になるでのぅ」

「この辺りにも、幕府の密偵がうろついております」

「なに、もう動いておるのか?」

「いかさま」

「ならのんびり出来るのも今日だけじゃな。どうじゃ、吉村も誘って飲みに行かんか?お主の出産祝いをしようぞ」

「有難う御座います。私に依存はありません、今後の方針も決めておく必要もありますれば」

「うむ、どこか良い店を知らんか?」

「吉村さんの行きつけがあります、そこならば心置き無く話が出来ます、二階の座敷を借りる事に致しましょう」

「それは良い、早速参ろう。支度は良いのか?」

「気ままな浪人の身、支度と言ってなにほどの事もありません、ただ腰に刀を帯びるのみ」

「あはははは、羨ましいのぅ」


弁千代と進は並んで長屋の木戸を出て行った。



柳河藩下屋敷のある浅草田圃は、背後に吉原の不夜城を控えて居るとは思えぬほどの、静かな田園地帯だった。ただ、遠くに富士の絶景が望まれるのが、唯一ここが江戸である事を思い出させてくれる。

まだ吉原へ行くには刻限が早いのか、水茶屋は何軒か開いてはいるものの、大門に続く田圃の畦道に人影は無かった。

三人は吉原とは逆方向に歩いて行った。


「吉村、お主吉原には行った事はあるか?」進が訊いた。

「め、滅相もありません私のような若輩が・・・」

「弁千代はどうじゃ?」

「そんな事をしたら、鈴殿に絞め殺されます」

「あはははは、違いない・・・」

「大石さんはあるのですか?」吉村が尋ねた。

「うむ、以前武者修行で江戸に出てきた時、鍵屋という大楼の吉里という遊女と良い仲になってな、今夜にでも行ってみるつもりだ」

「進さんも隅におけませんね」

「英雄色を好むというではないか」

「父上が聞いたらお嘆きになりますよ」

「ふん、親父殿は俺より上手だ」

「へえ、そうだったのか、初耳だなぁ」


「随分と楽しそうじゃのぉ」

左手の水茶屋の中から声が掛かった。見ると旅装束の侍が、緋毛氈を敷いた縁台に腰掛けて茶を喫している。

「誰じゃお主は?」真っ先に反応したのは大石進だった。

「おまんこそ誰じゃ、儂の用事があるのはそっちの無門とかいう若造ぜよ」

「岡田・・・」

「ほう、覚えておったがか、最も一度白刃を交えた相手は忘れようにも忘れられんきな」

「弁千代、誰じゃこいつは?」

「土佐の岡田以蔵・・・」

「なにっ、近頃売り出しの人斬りかい」

「ほ、知っておるのか、巷では天誅名人と呼ばれておるがじゃ」

「同じ事だ」

「おまんはなにもんじゃ?」

「柳河の大石進」

「ほう、あの長竹刀の。それにしてはちと若いようじゃが?」

「それは父じゃ、今は武楽と号している」

「そうか、しかしおまんら二人じゃちと儂の分が悪いの」

「私もいる!」吉村が抗議したが無視されてしまった。

「儂は今からさるお方の命で土佐へ帰る所じゃ、最後におんしと決着をつけたい所じゃったが、今日は止めじゃ」

「それは願ってもない事」

「代わりに儂が相手になっても良いぞ」進が柄に手を掛けた。

「おまんともいつかやる時がくるぜよ。必ず戻って来るきに楽しみにまっちょけ」以蔵は茶代を毛氈の上に置いて立ち上がった。「今夜は仲に泊まって、明日の朝出発じゃき」

「儂も後で戻って来る、精々鉢合わせせんように祈っておけ」

「ふん、そんな暇があるかじゃ、儂ゃ吉里と名残を惜しまにゃならんき」

「なにっ!」

「ふはははは、冗談じゃ、さっき名が聞こえたきな。そんな野暮はせんきに」

以蔵は網代笠を深めに被って、見返り柳の方に去って行った。

「気に食わん奴じゃ」進が呟いた。

「私のことを無視しました」吉村が言った時、三軒先の水茶屋から町人風の旅人が出て来た。

旅人はこちらを振り向いて軽く頭を下げると、以蔵の後を距離を取りながら付いて行った。

畦道にはポツポツと吉原通いの客が出始めている。

「どうやら尾行がついたようですね」

「取り敢えずこちらは後回しという事だな」

「それでは安心して『よし田』に参りましょう」

「おはるちゃんに会うのは久し振りだなぁ」

「吉村さん、張り切ってますね」

「はい、頑張ります」

「あはははは、もう隠さないのですか?」

「吉村、江戸の女は怖いぞぉ」

「嫌だなぁ大石さん、脅さないで下さいよぅ」

「わはははは・・・・・」


三人は、再び肩を並べて歩き始めた。








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