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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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坂本龍馬



坂本龍馬



神道無念流、斎藤弥九郎の道場練兵館を訪ねた時、近藤周助老と知り合った。

鏡心明智流、桃井春蔵の士学館は、先般の岡田以蔵が居るので今は行く事が出来ない。

後は、北辰一刀流、千葉周作の玄武館だが、周作は昨今体調が優れないと聞く。

弁千代は、江戸に出て来てからまだ三大道場の門を叩いていない。どうしても江戸の大道場の実力を肌で感じてみたかった。

桶町八重洲に、周作の弟定吉の道場がある。俗に玄武館を大千葉と呼ぶのに対し小千葉と称されているが、達人が多いと評判である。

試衛館で出会った山南敬介も、この道場で稽古をしたと云う。

弁千代は、ふらふらと誘われるように桶町千葉道場の門を潜った。


「お頼み申す」玄関で呼ばわったが返事が無い。竹刀の激しく打ち合う音が聞こえる。

もう一度、さっきより声を張り上げて訪いを告げた。「お頼み申す!どなたかおいでになりませんか!」

「誰じゃ!」割れ鐘のような濁声がして髭面の男が現れた。

「稽古中じゃ、何の用だ!」

「無門弁千代と申します。千葉定吉先生に是非とも一手御指南頂きたく参上致しました」

「無門?・・・聞かぬ名じゃのぅ。先生は留守じゃ、帰れ帰れ!」

「御門弟衆でも構いませぬ、曲げて一手御指南のほどを」

「何処の芋侍じゃ、田舎剣法など江戸の剣術には通用せぬわ!」

「それは、やってみなければ分からぬのでは?」

「なに!当道場の稽古は頗る荒い、お主のためを思うて言うてやっとるのに、なんじゃその言い草は!」

「相手の技量も確かめずに、ただ頭から相手を見下すのがこの道場の流儀で御座いますか?」

「なんだと!」男の目が吊り上がった。「よし上がれ、その代わり命の保証はせん!」

「もとより覚悟の上で御座います」

「ふん、後で後悔しても遅いぞ」男は先に立って道場へ入って行った。


「皆、稽古やめ!」男が言うと、二十人ほどの門弟の動きが止まった。「命知らずの道場破りじゃ、目録でよかろう、一瀬!相手をしてやれ」

「鴨川さん、手加減抜きで宜しいので?」

「打ち殺しても構わんわい!」

「相変わらず無茶を言う・・・ふふふ」

「おい、誰か防具を貸してやれ!」鴨川が門弟に怒鳴った。

「それには及びませぬ」弁千代が言った。「木剣を貸して頂ければ」

「な、なに!木剣で勝負すると言うのか?」

「はい、そちらは防具をつけたままで構いませぬ、私は素面素籠手でお相手いたします」

「むむぅ、生意気な!」

「鴨川さん!此奴は少し思い上がっているようです、一つ思い知らせてやりましょう」

「よし!やれっ、一瀬!」



四半時後、道場が水を打ったように静かになった。もう五人床に転がっているのだ。

「次はどなたでしょうか?」弁千代が鴨川に訊いた。

「ま、待たれい・・・儂が出ても良いのじゃが、ちと体調不良でな・・・」

「では、これにてお終いで御座るか?」

「いや・・おお、そうじゃ!誰か塾頭を呼んで来い!今日は藩邸におるはずじゃ!」

一人の門弟が、慌ただしく道場を出て行った。

「し、暫く休憩をお願いしたい、このまま帰られたのでは道場の面目が・・・」

「では、暫し道場の隅をお借り致す」弁千代が道場の隅に移動すると、門弟たちが場所を空けた。

弁千代は壁を背にして胡座をかき、木剣を肩に抱くと静かに目を閉じた。

門弟達は皆、遠巻きに弁千代を見ている。


どれほどの時間が経っただろう、玄関が急に騒がしくなった。

「なんじゃい人が折角昼寝を決め込んじょったに、しょうもない相手じゃったら承知せんぜよ」

弁千代は薄く眼を開けた、最近よく聞く土佐弁である。

「どいつじゃ、道場破り言うんは?」ドスドスと足音を響かせ、ヨレヨレの単衣の胸をはだけた背の高い男が入ってきた。

「おお、坂本さん、遅かったじゃないか」鴨川がホッとした顔で言った。

「言うたじゃろ、儂ゃ寝起きが悪いんじゃきに」

坂本と呼ばれた男が弁千代に目を止めた。「おまんかい?・・・大した余裕じゃのぅ」

弁千代も坂本を見返す。「私に汗をかかせてくれますか?」

「気に入ったぜよ、望み通りにたんと冷や汗をかかせてやるきぃ」

「防具をお付け下さい」

「そがいなもんはいらん・・・おい鴨川、木剣じゃ、木剣を持ってけぇ!」

「は、はい!」鴨川は道場の刀掛けから木剣を取って坂本に差し出した。

坂本はそれに素振りを一つ呉れてから弁千代を振り向いた。「始めるぜよ!」

弁千代が立ち上がった。「手加減はいりません」

「当たり前じゃ!」坂本がスルスルと摺足で間合いを詰めたかと思うと、いきなり真っ向から剣を打ち下ろしてきた。

大きな動きに見えたが、運剣に無駄が無い。弁千代は体捌きが僅かに遅れて、思わず剣でそれを受け止めた。

「喧嘩は先手必勝ぜよ」鍔迫り合いに入った時、坂本が嘯いた。

「楽しくなって来ました」弁千代が言い終わらぬうちに、坂本がスッと身を沈め足を斬りにきた。

弁千代は自ら坂本の上を飛んだ。受身を取って立ち上がると、坂本は既に態勢を整えこちらに迫っていた。

鋭い突きが連続で弁千代を襲う、弁千代はわざと真っ直ぐに後退した。

「もらった!」弁千代が後退したのを見た坂本の動きが伸びた。弁千代の躰の中心を必殺の胴突きが貫いたかに見えた。

「やった!」思わず鴨川が叫んだ。

しかし次の瞬間、床に倒れて呻いていたのは坂本の方だった。

弁千代は坂本の突きと同時に、自らも突きを返したのである。竹刀同士なら相討ちであっただろう、然し木剣の湾曲を利用した弁千代の突きは、僅かに坂本の突きの狙いを外したのであった。

皆、一瞬何が起こったのか分からなかったようだ。

「い、入り口を固めよ!奴を逃すで無い!」鴨川が叫ぶと、門弟たちは弾かれたように入り口を固め弁千代を囲んだ。「こうなったら全員で掛かる!」

「ま、またんかい鴨川・・・お、おんしゃ・・この上・・恥の上塗りを・・すっ気か」坂本が苦しい息の下から切れ切れに言った。

「し、しかし坂本さん、あんたがやられた以上このままでは・・・」

「儂ゃ・・こ、此の儘では済まさんきぃ・・・屹度、この屈辱をば晴らしてみせるきに」

「坂本さん・・・」

「お、おい・・そこの道場破り・・・はよ出て行かんかい・・そ、そして首を洗ってまっちょけ・・・必ずお・・おんしと・・決着をつけに行くきに」

坂本は弁千代を見て微かに微笑んだようだった。

「お待ち致しております、では今日はこれにて、御免!」弁千代はサッと踵を返すと、門弟たちが呆気に取られている中を、足早に道場を出た。


『坂本という塾頭は、私を逃がしてくれたのだろう・・・』弁千代は桶町千葉道場に背を向けて歩きながらそう思った。




「男の名は坂本龍馬、土佐藩士です」長七は框に腰掛けたまま弁千代に語った。「士学館の武市とは遠縁に当たり、藩の臨時御用で剣術修行の名目で一緒に江戸へ出て来ているのです。同じ攘夷派ですが武市ほど過激では無い、何を考えているのか分からぬ一風変わった男です」

弁千代は竹ひごを削る手を止めて長七を見た。「何故、そのような事を私に?」

「さあ、単なる個人的な興味でしょうか・・・」

この前会った時には分からなかったが、長七は端正な顔付の優男である。

「私を見張っておいでですか?」

「いや、今回は偶然、たまたまで御座いますよ」

「どこまでご存知か?」

「あなたが柳河藩の下屋敷に出入りしている所までは」

弁千代がそっと刀を引き寄せた。

「おっと!早まってもらっちゃ困ります、柳河藩は私の管轄ではありません」

「しからば、何故?」

「さっきも言った通り、あなたに興味があるのです。今の所柳河藩は幕府と同じ開国論です、しかも、将軍継嗣問題とは微妙に距離を取っておられる。きっとかなり頭の回る策士がおられるのでしょう、我々としても数少ない開国派を敵にまわしたくはありません」

弁千代は、この男をどこまで信じて良いか判断に迷った、然し何れにしても隠し目付けであれば疑ってかかるにしくはない。

「私を見知っておいて損は無いと思いますがね」長七が言った。

「あなたにはどんな得があるのですか?」

「まあ色々と。あなたにその気はなくても、あなたの周りには面白い連中が集まって来る、私はその連中を調べさせて貰えば十分です」

「嫌だと言っても無駄なようですね」

「分かって頂ければ有難い・・・では、また参ります」

長七はスッと立ち上がると、霞が消えるように出て行った。


『いずれ一筋縄ではゆかぬ男だ、暫く様子を見てみるか・・・』







拝啓 弁千代様


謹んで新年のご挨拶を申し上げます。

とは言っても、この手紙があなた様の元に届く頃には、弥生の声を聞く時節でございましょう。

お手紙に書いてありました江戸の暮らしのご様子、メジロ籠をお作りの事、長屋の皆様の事、吉村さんの事、皆面白く読ませて頂きました。


柳河のお城は今年の参勤の準備で大忙しの様子でございます。

無門様も加藤様もお正月から毎日お城に詰めておられます。

何でも若くして御家老になられた立花壱岐様が、藩論を開国に纏めようと奔走なされているご様子。

無門様も加藤様もそれを後押しなされておられるようです。

私の様な女子の身で言うのも憚られますが、攘夷というのは外国と戦争をする事なので御座いましょう。

人が大勢亡くなるのは嫌で御座います。

生まれて来るややの為にもどうかそうならぬ様あなた様の働きに期待をしております。


私は加藤様のお屋敷で何不自由なく暮らしておりますのでご安心下さい。

お腹のやや子は最近良く動きます、お腹もとんがってきたようでお富士様はきっと男の子だろうと仰っています。

千鶴ちゃんは毎日私のお腹に耳を当ててややに話し掛けてくれます。

出て来るのを本当に楽しみにしてくれているようです。


あなたの考えてくれたややの名前のうち、私は『薫』が良いと思います。

この名ならば男の子でも女の子でもおかしくはありません、きっと春風のように颯爽とした人間になってくれると思います。


毎日あなた様のことを思わぬ日はございません。

いつまで書いても名残は尽きませんのでこの辺で筆を置きます。

きっと立派にお役目を果たされて、お戻りになる日を楽しみにしております。

また、無事やや子が産まれましたらお手紙を書こうと思います。

それまでどうかお身体を大切に、風邪など召されませぬようにお過ごし下さいませ。



 一月二十五日


                                  鈴


弁千代様





鈴の手紙を読み終わった頃、長屋のドブ板を下駄で鳴らして足音が近づいて来た。

「捜したぜよ、おまん、こがいな所に居ったがか?」

いきなり引き戸が開いて、見覚えのある顔が覗いた。

「坂本さん・・・でしたか?私は隠れて居た訳ではありませんが」

「いや、気ぃを悪うせんで欲しいがじゃ、二ヶ月も探し回ったけについ・・・な」

「何のご用でしょう?まさかもう一度太刀合えと?」

「いや、そうじゃなか、どうしてもおんしに聞きたい事があったがじゃき」

「どういう事でしょう?」

「おまんの剣は、儂が今まで経験したどの剣とも違うぜよ、その理由を教えて欲しいんじゃ」

「あなたにお教えできる事などありません」

「そう固い事を言うたらいかんちゃ、それを教えて貰わな嫌でももう一度太刀合いを所望する事になるきぃ」

「それも迷惑です」

「では教えてくれ」

「仕方がありません、あくまで私の個人的な意見ですが・・・」

「そいで、かまわんきに」

「そうですか・・・まず、昨今の剣術は、全てが相手との比較でなり立っています。強いとか弱いとか、上手いとか下手だとか、勝ったとか負けたとか」

「それじゃいかんがかよ?」

「それではいくら目の前の敵を倒したところで、その相手を踏み越えて平行移動しただけです、本当の成長とは昨日の自分より少しでも上に伸びる事ではありませんか?」

「そうじゃが・・・そのためにはどがいしたらええんじゃ?」

「形による稽古が不可欠です」

「形?あがいなもんは時代遅れの遺物じゃろう」

「形は本邦の優れた”学び”の体系です」

「形にも相手がおっじゃなかか」

「形は、相手をどうこうしようというものではありません。形をやる時には打太刀も仕太刀も自分を消す事を要求されます、つまり敵もいない自分もいない状態になるのです」

「自分を消す?そがいなことができるがかや?」

「出来る出来ないではありません、やらなければならないのです」

「やったらその後はどうなるんじゃ?」

「ただ、形の要求通りに動くのです、そうすれば昨日やった形と今日やった形との違いが分かります」

「それも比較じゃ無いんか?」

「相手との比較は相対的なもの、これは絶対的なものです」

「自分を消したら自分との比較も出来んじゃろう」

「本当は、自分が居ると言う事も幻想なのです、あるのは認識の流れのみ。その認識の変化に気付くことが稽古なのです」

「う〜む、なんや禅問答のようじゃのぉ」

「人は、感じると直ぐに意味を付けたがるものなのです。例えば、『焦げ臭い、すわ、火事だ!』と、その過程で隙が出来る。宮本武蔵の言った石火打ちとは、その隙を無くすことなのです」

「つまり、匂いを感じたら意味を考える前に動けちゅうこつか?」

「そう言う事になります」

「なんとなく分かるような気もすっがじゃ・・・」

「剣に置き換えましょう。白刃が上から降って来る。『危ない!』と感じる、危ないのは誰か?『私』です、『私』が危ない。この『私』が隙なのです、つまり私の事を考えると隙が出来る。

だから『私』を消せば良い。

これは矛盾ですが、日本人にはこの矛盾を超越する能力が潜在的に備わっています、あとはその能力に蓋をしているものを取り払うだけです」

「取り払ったらどうなる?」

「敵が居なくなります」

「そいは、やはり敵を倒すと云う事にはなりゃせんかのぅ?」

「言い方を変えましょう、『私』を消せば敵を作る必要がない。敵も無く私も無い、敵を作らないと云う事と隙を作らないと云うことは同義、それが本当の天下無敵と云う事です」

「天下とは敵を武力で打ち破って奪うもんじゃと思うとったが・・・」

「敵を倒せば、また新たな敵が現れるだけです」

「堂々巡りじゃのぅ、攘夷もまた同じちゅうこつか・・・」龍馬は腕を組んで考えていた。

「坂本さん、もう此処には来ない方がいい」弁千代は龍馬を見据えた。「此処は幕府の犬に見張られている」

「おんしも危険人物ちゅうわけか?」

「いや、そう言うことではありませんが・・・」

「分かった、礼を言うぜよ!」龍馬は出て行きかけてふと立ち止まった。「儂からも一つ」

「何でしょう?」

「岡田がおんしを狙っちょるで、くれぐれも用心してな。儂はこん場所を絶対に教えんきに」

「岡田以蔵・・・」

「縁があったらまた会うぜよ」


龍馬は来た時と同じく、ドブ板を蹴立てて帰って行った。


『偉そうな事を言ったけれど、結局私は敵を作り続けて居る・・・』






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