人斬り
人斬り
安政四年の年明けは静かだった。弁千代は家に居て鈴に手紙を認めた。
一緒に新年を迎えられなかったのがどうにも残念である。
父のことは伏せておいた。父を知らぬ人間が聞いてもとても信じられるものでは無い。
ただ、幾つか男子の名を考えて手紙に添えた。
大晦日に、吉村がおせちの重を届けてくれたのでそれを食べた。藩邸は、奥方様への年始のご挨拶などで大忙しに違いない。
蛇骨長屋の住人達はひっそりと年神様をお迎えしている、と言えば聞こえは良いがちゃっかりと寝正月を決め込んでいるのだろう。
二日、弁千代は外に出た。商人達の初売りで町は賑わっている。
筋違八ツ小路の火除け地に行くと無数の凧が揚がっていた。江戸の庶民は大人から子供まで皆凧揚げが大好きだ。
幕府は何度も凧揚げを禁止したが、その度に無視されている。しかも、その凧を作るのが武士の内職だというのだから平和なものである。
初登城の行列が忙しく行き交っているが、庶民達は立ち話をしながら見物している。
江戸城では、鎖国か開国かで議論が紛糾しているのが嘘のようだ。
筋違御門の石垣に沿って設えられた茶店で、茶を喫しながら凧揚げの様子を見ていると、肌に視線を感じた。
弁千代が辺りを見回すと視軸の先に三人の侍がこちらを伺っているのが見えた。
茶代を払ってゆっくりと床几から腰をあげる。櫓門を潜り石積みの枡形に入ると侍達が付いて来るのが分かった。
左手の高麗門を出て神田川に掛かった筋違橋を渡る。右に曲がり川沿いを東に向けて歩いた。このまま行けば大川に出る、柳橋を渡り切った所で後ろから声が掛かった。
「どこまで行くぜよ、この辺でよかろう」
徐に弁千代が振り向く。「新年早々、お城の近くを騒がせたくはないですからね」
「まっこと良い心掛けじゃが、すでに人通りも絶えたきに」がっしりした躰つきの男が言った。
「間違いない、あの料理屋におった若造ぜよ!」きちんとした身なりの侍だった、顔に見覚えがある、確か土佐の家中だと言っていた。
「あの時は、ようも恥を掻かせてくれたぜよ、ここで会うたがおんしの不運じゃきぃ!」もう一人の侍が言う。
「ちゃんと謝った筈ですが?」
「ほたえな!あん程度じゃ許せんが!」
「ではどうするおつもりですか?」
「土下座をして貰うぜよ!」
「それで気が済むのならば幾らでも。但し、そちらの方はそう思ってはおられぬようですが?」弁千代が最初に声を掛けて来た男を見た。
「ふん、こんお人はおまんの叶うような相手では無いがぜよ、さっさと土下座した方が身の為ぜよ」
「待て中川」男が前に出た。「ちぃと気が変わったき、少し楽しませて貰う」
「やめてくれ岡田さん、儂はこいつに土下座させればそれで良いんじゃき、ここで斬り合いをしちゃ藩に迷惑がかかるきに!」
「知った事か、俺はこいつを斬りたくなったんじゃ」
「む、無茶ぜよ!」
「関わりたく無かったら、おまんらは去ね!」
中川と呼ばれた侍はあからさまに嫌な顔をした。
「勝手にせえ、山田帰るぜよ!」
「お、おう・・・然しそれでええんか?」
「おまんらを恨みはせんきに、安心して去ね」男は二人の方を見もしなかった。
「まっことそう言う事なら・・・俺たちは本当に関係無いきな!」中川と山田はそそくさと来た道を引き返し、姿を消した。
「儂は人斬りじゃで、本来なら不意打ち闇討ちが専門じゃ。じゃがおまんとは真っ向勝負がしたくなったきに」二人の姿が見えなくなるのを見届けてから、男が弁千代を見据えて言った。
「迷惑ですね」弁千代が左手で鯉口を切りながら応えた。この相手との戦いは避けられない。
「儂の名は岡田以蔵、おまんの名を聞いておこう」
「無門弁千代」
「参る・・・」岡田が抜刀して右八双に構えた。
同時に弁千代も刀を抜き合わせ、青眼に構えを取った。
岡田は右へ移動しながら剣を青眼に下ろした。
それに呼応するように弁千代の構えは脇構えに変化する。
次に岡田の構えが下段に変わった。すると弁千代は剣を頭上に引き上げた。
「ふむ、的確じゃ」岡田が呟く。
岡田の剣は、一流をきちんと納めた剣だ。従って変化の予測が可能である。
「なら、こいならどげんじゃ?」
岡田は構えを解いて無構えになった。
これで予測は無意味になった。ただの我流の剣なら、理が拙いだけに運剣が遅く適時に対処する事が出来る。然し岡田の剣は流派を乗り越えて、自分だけの境地に達している。
弁千代は予測を諦め思考を停止した。
「後は、運任せじゃな」岡田は右の口角を上げて笑った。
その時、川を一艘の猪牙舟が下って来た。
「ベンさんじゃねぇか、一体こんなところで何やってんだい!」
船頭は蛇骨長屋の秀である。
「チッ!邪魔が入ったき。続きはまた今度ぜよ」岡田は刀を鞘に納め、悠然と両国橋の方へ歩いて行った。
「やあ、秀さん助かりました、ありがとう」弁千代が秀に礼を言った。
「なんだか気味の悪い野郎じゃねぇか、絡まれてたのかい?」
「そんなところです」
「そうかい、偶然通りかかって良かったよ。まぁ乗りな、浅草まで送ってやらぁ」
秀は舟を岸に寄せた。
弁千代が刀を納めた時、対岸の建物の陰に男が姿を隠したのが見えた。事の次第をずっと見ていたのに違いない、身のこなしが侍のものだ。
「正月早々仕事ですか?」弁千代が秀に訊いた。
「ああ、やんごとなきお方に頼まれてな、一橋様のお屋敷までお送りして来たところよ」
「ご苦労様です。そうだ、お礼と言っちゃなんですが浅草で一杯やりませんか?」
「奢ってくれるのかい?そいつぁありがてぇ、汗かいて喉がカラカラだったんだ」
弁千代が乗り込むと、秀はゆっくりと櫓を漕いで、舟を大川の流れに乗せた。
「どなたです?」
戸口の向こうに人の気配が立ったのを感じて、弁千代は訝しんだ。
もうとっくに木戸の閉まっている刻限である、どこから入って来たのだろう?
「夜分恐れ入ります、酒屋の手代長七と云う者でございます。こちらは無門弁千代様のお住いでございましょうか?」
「如何にも、無門弁千代は私ですが」
「折り入ってお願いがあって参りました。ここではなんでございます、入っても宜しゅうござりますか?」
「どうぞ」
戸が静かに開いて商人風の男が入って来たが、行灯の幽かな灯では顔の造作までは分からなかった。
「どこから入って来たのですか、もう木戸は閉まっている筈です?」弁千代は油断なく長七の動きに気を配った、動きに隙がなく町人のものとは思えない。
「このような長屋であれば何処からでも」
「どこかでお会いしましたか?例えば・・・柳橋辺りで」
「御察しの通りでございます」長七は頭を下げて言った。「詳しい事は申せませんが、私はお上のご用を務めている者でございます、以後お見知りおきを」
「つまり、密偵という事ですか?」
「まあ、そのような者で」
「その密偵殿が私に何用があって参られたのです」
「今日の昼間、あなたと太刀合った者についての事でございます」
「あの岡田という侍の事ですね?」
「如何にも」
「あの侍が、何か?」
「あの侍は土佐の攘夷派、武市瑞山という者の弟子で岡田以蔵という者です」
「武市瑞山・・・?」
「ご存知ありませんか?」
「一向に」
「ご存知無ければ良いのです、ただ一言ご忠告に上がりました」
「それはどういう事ですか?」
「あの岡田以蔵とは、お関わり合いにならぬ方が良いかと存じます」
「私に関わるつもりはありません」
「それなら良いのです・・・しかし貴方はお強い、あのまま斬り合っておれば、もしかすると岡田は今頃、この世の者では無くなっていたかも知れない。そうなっておれば私のお役目も暗礁に乗り上げていた事でしょう」
「それは私のあずかり知らぬ事」
「御尤もでございます・・・では今宵はこれにて、貴方とはまたお会いする日も御座いましょう」
「そのような日が、来ぬ事を願っております」
「ははははは、嫌われたものですな・・・では御免」
長七は音もなく戸を閉めて消えた。弁千代は外の気配を伺っていたが、どのようにして消えたのか知る事は出来なかった。
「ふ〜ん、そんな事があったのですか。しかし武市瑞山とは又穏やかでは無いですね」吉村は弁千代に酒を勧めながら言った。
「武市瑞山とは何者ですか?」
「通称半平太、去年土佐から出て来て、江戸の三大道場の一つ鏡心明智流士学館の塾頭になった人物です。ペリー来航以来、過激な攘夷思想を持った危険人物だと目されております」
「その弟子が岡田以蔵だと」
「はい、武市は土佐で道場を開いておりました。岡田は武市を崇拝しており剣の腕は武市以上ですが、武市が命ずれば人殺しも辞さぬとか」
「自分で人斬りだと言っておりました」
「何はともあれ、関わらぬ方が良さそうですね」
「あの長七とは何者でしょう?」
「おそらく幕府の隠し目付あたりでは無いでしょうか、土佐藩の動きを探索しているのでしょう、目を付けられると厄介です」
「分かりました、十分に注意致しましょう」
「六月には江戸に殿様が到着なさる。我が藩も安穏としてはおられません、壱岐殿も直ぐに行動を起こされるでしょうから」
「町の平穏さとは裏腹なのですね」
「政は庶民の生活を守る為に行われるものです。今、町が平穏だという事は悪い事ではありません、少しでもこの平穏が続くように我々が力を尽くすべきでしょう」
「私が武者修行をのほほんとやって来られたのも、この平和があったお蔭なのですね」
「仕官した以上は、我々も政と無関係では要られません。心しておきましょう」
「吉村さん、大人になりましたね」弁千代がしみじみと言った。
「冗談言っちゃ困ります、まだまだヒヨッコですよ」
「どうです、気を張ってばかりではいざという時に働けません。何時ぞやの料理屋に新年の挨拶に行きませんか?」
「おお、『よし田』ですね、それは良い賛成です!」
「おはるちゃん居ると良いですね」
「な、何を馬鹿なことを・・・」
「ははは、やはり吉村さんは正直です。そこがあなたの良い所ですが」
「もう・・・」
吉村は顔を赤くしながら、それでもいそいそと身支度を整え始めた。




