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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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師走


師走



脚気の症状が治まった頃、江戸は師走の『事始め』を迎えた。事始めとは正月の準備を始める十二月十三日の事である。

「そろそろすす払いしなくちゃな」弁千代は軽くなった躰を確かめるように活動を開始した。



「ごめんなさいよ、門松は要らんかね」戸が開いて中年の女が顔を覗かせた。

「あ、お照さん、門松ですか?」

お照は弁千代の向かいに住む市子だ。市子とは、霊を呼び出して自分に乗り移らせ霊の言葉を伝える、口寄せや巫女の事である。

「市子だけじゃ食べていけないからね、年末だけの季節仕事さ。年神様をお迎えするのに必要だろう?」

「そうですね、それじゃあ一揃え戴きますか」

「そうこなくっちゃ、毎度ありぃ!」お照は山で採ってきた松の枝を二本畳の上に置いた。

「ところで、この辺じゃ元日の初詣はどこに行くのですか、やはり浅草寺?」弁千代は代金を支払いながら訊いた。

「おや、おかしなことを聞くねぇ。江戸じゃ元旦は家に居るのが普通だよ、だって年神様をお迎えしなくちゃならないじゃないか、家にいなくてどうするんだい?」

「でもみんな今年の恵方はどっちだとか、その方角にある神社仏閣はどこだとか言ってますけどねぇ」

「最近は神様をお迎えする前に、自分から押し掛けて行ってお願い事をするんだから品の無いこったよ」

ありゃ?と、お照は暗い室内を透かすように見てから言った。「お客さんかえ。どうして言わないんだよ、失礼しちゃったじゃないか」

「え、客なんていませんよ?」

「じゃあ、そこの立派なお武家様はどなただい?こっちを見てニコニコと笑っておられるよ」

弁千代は後ろを振り向いたがやはり誰もいない。「誰もおりませんが?」

「ははぁ、あんた最近身内を亡くしたかえ?」

「最近ではありませんが、亡くしたといえば父ですかねぇ?」

「ちょっと入ってもいいかえ?」お照は土間に足を踏み入れた。「ああ、やっぱりそうだ、あんたの父上のようだよ。どれ、このままじゃ喋れないからちょっと私の躰をお貸ししようかね」

お照は部屋に上がって誰かと向かい合うように座ると、低い声で般若心経を唱え始めた。

次第にお照の躰は左右にゆらゆらと揺れだし、部屋に緊張感が走った。

動きはだんだんと大きくなりしまいには座ったままぴょんぴょんと跳ね出した。

お経が終わると、お照は全く別の人格に変わっていた。

「弁千代、久し振りよのう、儂じゃ父の義左衛門じゃ」

「ち、父上!」弁千代は驚愕した、口調が生きていた時の父のものなのである。それに、お照が父の名を知る筈が無い。

「元気そうでなによりじゃ」

「ち、父上こそお元気そうで・・・」

「そんなわけは無いであろう、儂はもうこの世のものでは無い、相変わらず慌て者じゃの」優しい口調も昔と変わらない。

「そ、そうでした、しかし今日はまた何故?」

「二つばかりお前に知らせておきたい事があってな」お照、否、義左衛門は難しい顔をした。

「何か良くない事でも・・・」

「うむ、一つは良い事ではない」

「どのような事ですか、勿体振らずに早く仰って下さい!」弁千代が義左衛門を急かした。

「そう慌てるでない、実は来年お前が巻き込まれるであろう出来事についてなのだが・・・」

「は、はい!」

「将軍継嗣問題に柳河藩は深入りしてはならぬ」

「と、申されますと?」

「深入りすれば、必ずや藩に禍を齎すであろう」

「し、しかしそのような事、私の力ではどうする事も出来ません」

「そうではない、その事は来年上府される御家老殿は先刻ご承知の事だ。お前はその御家老殿の影になり力を尽くせば良い、ただ、土佐の刺客には気をつけるのじゃぞ」

「そのような事ならばいかようにも力を尽くします」

「そうか、ならば良い」義左衛門はホッとしたように一息吐いた。「それからもう一つ・・・」

「はい」

「来年の四月、元気な男子が授かるであろうよ」義左衛門はニッコリと笑った。

「お、男の子で御座いますか?」

「そうじゃ、良い名を考えておけ。それからその子の為にも躰を大切にするのじゃぞ」

「はい、父上!」

「これで、儂の肩の荷が下りた。もう会う事もなかろうが達者で暮らせ」

「ち、父上お待ち下さい、もう暫くお話をしとう御座います!」

「無理を言うでない、そろそろ面会も時間切れじゃ。では、さらば!」

お照がばたりと畳の上に倒れ伏した。

「父上っ!」弁千代がお照を抱き起す。

「う〜ん」お照が呻いた、かなり体力を消耗したらしい。

「お照さん、大丈夫ですか?」

「あ、ベンさん、お父上とは話ができたかえ?」

「はい、お陰様で懐かしい父上とお会いする事が出来ました。本当にありがとう御座いました」

「なぁに、門松を買って貰ったお礼だよ。じゃ、良い正月を迎えるんだよ」

お照は、売り物の門松を抱えて出て行った。


「父上、ありがとう御座います。必ずや立派にお役目を果たしてご覧に入れます」

弁千代は、さっきまでお照が座っていた辺りに向かって手を合わせた。





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