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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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江戸患い



江戸患い



『近頃、躰の調子が悪いな』弁千代はそう思う。

江戸へ来た当初はそうでも無かったのだが、最近頓にその感じが強くなった。

食欲が無く、全身が気怠い。僅かだが足の浮腫みも気になる。

隣のお梅婆が心配して見に来てくれた。

「あんた、そりゃ江戸患いだよ」

「江戸患い?」

「参勤で江戸に来たお侍が良く罹る病気さ。きっと江戸の遊女の毒気に当てられるんだよ」

「そ、そんなぁ、私は遊女など知りません」

「ははは、冗談だよ。でもね、そのままってぇのも良くないよ。うちの左隣の良哲さんに診てもらっちゃどうだい?」

「お医者様なのですか?」

「ヤブだよ、風の都合であっちへ行ったりこっちへ行ったりしてるからね。でもいないよりゃマシさね」

「そうですか、ではダメ元で行ってみますか」

「そうしな、早い方がいいよ。さっき帰って来てたから居ると思うよ」

「では今から行ってみます・・・」



「脚気だね」向井良哲はあっさりと言った。「そんなものは麦飯と鰻を食っときゃ良くなるよ」

「はあ・・・」医者だと言うから、てっきり老人だとばかり思っていたら案外若い男だった。

「江戸では毎年結構な人数がこの病で死んでいるんだが、誰も決定的な治療法を見つけ出せないでいる」

「でも、今麦飯と鰻で治ると・・・」

「そりゃ私の経験則さ、ちゃんとした理由がなけりゃ誰も信じないよ」

「しかし先生の経験によれば、それで治ると仰るのですね?」

「ああ、根っからの江戸っ子は重症化する事が多いがな」

「重症化するとどうなるのですか?」

「感覚が麻痺して手足に力が入らなくなる、猛烈な痛みに襲われ躰が海老反りになり最後は衝心脚気を起こして心の臓が止まる」

「そ、そんな恐ろしい病気なのですか?」

「だが、参勤で出て来た侍は国元へ帰るとケロッと良くなっちまう、私は田舎に友達が多いからよくその話を聞く」

「それは何故なのですか?」

「きっと食べ物の滋養のせいだよ」

「滋養?だって江戸の人達は三度三度白米が食べられるではありませんか、田舎ではそんな事は出来ません」

「まさに、それだよ!」

「それ・・・とは?」

「江戸では一汁一菜が基本だ、これは日本国中同じだろうが、江戸っ子は白米さえ食べていればこんな贅沢はないと威張っている、それで満足しているんだ」

「あっそうか、白米だから滋養があると言う訳ではないのですね」

「そうだ、白米は精製の過程で米が痩せていく、きっとその時大事な滋養も失っていってるんだろうな、あれだけ糠が出るんだもの」

「なるほど」

「だから田舎に帰れば、嫌でも米麦半々の飯を食うことになる。そうすりゃ菜にちったぁマシなもんをつけるだろうよ、そんで治っちまうんだな」

「菜は鰻が良いのですか?」

「さっきも言ったように、理由は分からないが経験的にはそう言える。深川辺りの鰻好きには脚気の患者は少ない、一串十六文だから誰だって買えるのさ」

「私の国元の柳河でも鰻はよく食します」

「そうかい、脚気はないだろう?」

「はい、聞いた事がありません」

「そうだろうなぁ」そこで良哲は声を落とした。「大きな声じゃ言えないが・・・」

「なんです?」

「家定公も脚気だそうだ」

「えっ!」

「医者仲間では専らの噂だ」

「どこからそのような噂が?」

「御典医あたりだろうよ、お城の情報は皆が思っている以上に広まるのが早い」

「では、家定公にも鰻を差し上げれば・・・」

「馬鹿だなぁ、高貴なお方はそんな下賤な食べ物は召し上がらないよ。それに、今は御典医も蘭方医が幅を効かせるようになったからな」

「蘭方ならもっと良い治療法があるのでは?」

「本道以外ならば多少は真新しい事をやる」

「本道?」

「内科の事だよ、私も長崎で蘭方を学んだからよく分かるが、蘭方は外科はまぁまぁだが内科は漢方の方が上だ。漢方は経験がモノを言うからな、良い医者の治療はそれなりに効く。蘭方医は本で読んだ知識が先行するから経験を蔑ろにする。それに外科手術と言ってもあまり深いものは患者が痛みで死んじまうんだ」

「痛みを抑える薬はないのですか?」

「阿片や西洋酒があるくらいだ、あんなものはなんの役にも立たない」

「そうなのですか・・・」

「それにもう一つ面白い話がある」良哲は更に声を落した、どうやらお喋り好きらしい。

「なんですか?」

「将軍継嗣問題を知っているか?」

「い、いえ・・・あ、そう言えば先日、土佐の侍が声高に話しているのを聞きましたが」

「幕府が推している紀州の慶福公は、ありゃ脚気だよ」

「ええっ!」

「それに対して、水戸の斉昭公や土佐の山内容堂公の推す一橋慶喜公は脚気には縁が無い」

「どうして分かるのです?」

「慶喜公は豚が大好物だからだよ」

「えええっ!豚を食べるのですか?」

「陰で豚一と渾名されている」

「豚一?」

「豚好きの一橋殿だからな、肉を食べてりゃ脚気にはならない、だから西洋には脚気が無い」

「しかし獣の肉はご法度では」

「薬を飲むと称して食っているのだよ。それが証拠に実父の徳川斉昭公は彦根藩から毎年牛肉の味噌漬けを送らせているそうだ、案外美味いものらしい」

「彦根藩といえば井伊大老のお国元ではないですか」

「あそこは唯一牛の殺生が許されている藩だ、幕府に陣太鼓の皮を献上する為にな」

「いろいろな抜け道があるものですね」

「ところが、最近井伊大老が牛肉の味噌漬けを水戸に送らなくなったのだ」

「何故です?」

「表向きは仏教の教えを厳格に守る為、と言う事らしいが実際のところは分からない。斉昭公と井伊大老の仲が険悪になって来ているからだ、との噂もある」

「そんなことが・・・」

「あ、いかん、また喋り過ぎた。いまの話は他言無用だぞ」

「はい、分かりました」

「食餌療法の処方を書いておくから、暫くそれを守って食事をしていれば治るだろうよ」良哲は硯箱を引き寄せ、紙に何かを書きつけ弁千代に渡した。

「有難うございました、診察代はいかほどお支払いすれば宜しいですか?」

「そうさなぁ・・・」良哲は首をひねって考えていたが、「今から深川に鰻を食いに行こう、いい屋台を知っているんだ」と弁千代を誘った。「診察代の代わりに奢ってくれ、近頃話相手がいなくて寂しかったんだ」

「それだけで宜しいので?ならついでに酒も奢りましょう」

「そうか、気を遣わせてすまんな!」


二人は木戸を出て深川に向かって歩き出した。






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