笹野屋
笹野屋
料理を全部平らげてから、弁千代は店の娘に訊いた。
「この辺に宿はありますか?」
「ええ、店を出て左に行くと大和屋さんという大きな宿があります」
「いえ、大きな宿でなくて良いのです」
「では、その大和屋さんの前を真っ直ぐに一町ほど行くと、左側に笹野屋さんがあります。小さいけど良いお宿ですよ」
「わかりました、ありがとう」
弁千代は勘定を払って店を出た。
少し行くと古代杉の一枚板に”大和屋”と書かれた立派な看板が見えた。
宿の前を通り過ぎる時、微かに三味線の音色がした。さっき出会った鈴という女が弾いているのだろうか?
暫く歩くと、店の娘が言ったように左手に”笹野屋”があった。小綺麗な二階屋の宿だった。
「今晩は、どなたかおられませんか?」玄関に入って声をかけた。
「はーい」すぐに奥から仲居が出てきた。紺の絣に臙脂の前掛けを掛けている。
「今夜、泊まりたいのですが?」
仲居は少しの間弁千代を見詰めていたが、「暫くお待ち下さい」と言って奥に引っ込んだ。
代わりに出て来たのは中年の品の良い女だった。
「いらっしゃいませ。私は、この笹野屋の女将で加代と申します、お侍様はお一人でございますか?」
「はい、一人です連れはありません」
女将はちょっと考えてから、「お部屋は空いてございます、お食事はどういたしますか?」と言った。
「いえ、そこで済ませて来ました」
「そうですか、それではお風呂をご用意いたしましょう」
弁千代はそこで初めて自分の身なりに気が付いた。昨夜の戦いで衣服には泥と血がこびりついていた。
刀を帳場に預け、中居が用意してくれた木桶のお湯で足を洗うと、二階の部屋に通された。
旅装を解くと早速風呂場に案内された。
肌にこびりついた泥と血を洗い流し、湯船に肩まで浸かると生き返った気がした。
「ふ〜、風呂がこんなに気持ちの良いものだとは知らなかった」
体の芯まで温まってから上がると、衣服が無かった。
代わりに清潔な浴衣が置いてあり、手紙が添えられている。
『御召し物は洗っておきます、暫くこの浴衣でご辛抱ください』
流麗な女文字である、加代という女将が書いたものだろう。
浴衣を着て部屋に戻ると、仲居が灯りを灯しに来た。
「女将がご挨拶に伺いたいと申しておりますが、よろしいでしょうか?」
「わざわざご挨拶いただくほどの者ではありません・・・」
「でも、女将が是非にと申しておりますので・・・」
「そうですか、では私は構いません」
仲居と入れ替わりに女将が部屋に入って来た。
「お風呂はいかがでしたか?」
「はい、結構な湯加減でした。生き返ったような気が致します」
ほほほ、と笑って女将は話を継いだ。
「お侍様は、山から降りてこられたのでしょう?昨夜はどこにお泊りに?」
「はあ、山の破寺に・・・」
「やっぱり!」
「・・・と申しますと?」
「人の噂は早う御座います。寺で山賊が退治されたと、宿場の者が言うておりました」
「・・・」
「退治したのは、御坊様と若いお侍様であったとか。あの汚れた衣服を見て間違い無いと思ったので御座いますよ」
「・・・左様でしたか」
「誠に差し出がましい事では御座いますが、新しいお召し物をご用意させて頂きとう存じます。御刀も研ぎに出させて頂きたいのですが?」
「そんな・・・なぜそのようにご親切に?」
「それは、この宿場と亡き夫の念願であったからです」
「念願?」
「山賊のお陰で、旅の方達の不便は大変なものでした。山越えの道を整備すれば、宿場どうしの行き来も楽になり、宿場の発展にも繋がります。でも山賊のためにそれができなかったので御座いますよ」
「しかし私はただ、行き掛かり上仕方なく・・・」
「それでも、あなた様のなさった事は、この宿場の者にとって、どれほど感謝しても足りない程の事なので御座います」
「はあ・・・」
「先ほどの件、お許しいただけますか?」
「そういう事でしたら・・・」
「では暫くこの笹野屋に御逗留下さいませ、刀の研ぎには時間もかかりましょうほどに」
そう言って女将は部屋を出て行った。
弁千代は寝転がって考えている
「なんだか変なことになって来たぞ、旅に出てまだ三日しか経っていないのに、十年分の経験をしたみたいだ」
躰はそれなりに疲れている。仲居が布団を敷きに来たので、今日は早々に寝る事にした。




