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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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試衛館


試衛館



賑やかな商店筋である、山田屋権兵衛の所有する蔵の裏手に道場はあった。

「試・・衛・・ですか?」玄関に掛った扁額に、消えかかった文字で二文字が読めた」

「そう読むか?」

「違うのですか?」

「分からぬのだ、あのミミズが這ったような字は”誠”とも読める」

「誠衛・・・意味は?」

「分からぬ。あれが試衛でも誠衛でもな、意味が通らん」

「でもここは貴方の道場では・・・」

「儂がここを借りた時にはすでにあったのじゃ。近所の者はここを試衛館と呼び習わしているからそのままにしておいた」

「そんな・・・」

「名などどうでも良いのじゃよ」

その時、玄関の扉が開いて若いのか年寄りなのか分からない風貌の男が出て来た。「先生、お帰りなさい、話し声が聞こえたものですから」

「源三郎、勝太はいるか?」

「はい、居ります」

「他には?」

「沖田が来て居りますが」

「あの小僧、いったい此処の何処がそんなに気に入ったのやら・・・」周助が嫌な顔をした。

「だが、腕は立ちます」

「それだけだ・・・おっと、客人を連れて来た、入るぞ」


あばら家のような道場だった、練兵館に比べたら相当見劣りがする。広さも三分の一しかない。

「勝太、客だ茶を出せ!」そう奥に呼び掛けながら周助は道場に上がって弁千代を振り返った。「あんたも上がれ」

「はい、失礼致します」弁千代が道場に入ると刺すような視線を感じた。末生りの瓢簞みたいな顔の若者がニヤニヤ笑いながらこっちを見ているが、目が笑ってはいない。

「周助先生、お帰りなさい。そちらは?」

「大事な客人だ、粗相の無いようにな」周助が沖田を一瞥して言った。

「やあ、お帰りなさい。珍しいですね、先生が客人を連れて来るなんて」道場の奥の引き戸が開いて男がのっそりと入って来た。

「練兵館の前で知り合った、お前の良き話し相手になると思うてお連れしたのじゃ」

勝太はぺたりと座ってお辞儀をした、頑丈そうな顎をしている。「宮川勝太です、あなたも勝太と呼んで下さい」

「無門弁千代です。無門でもベンさんでも好きにお呼びください」

勝太がにっと笑った、笑うと愛嬌がある。

「歳はどうした?」

「日野に石田散薬を仕入れに行っております、二、三日は帰って来ません」

「またか、そんなに効くのかあの薬?」

「さあ、私は知りませんが家業ですから仕方がないのでしょう」

「あいつは男前だから女騙くらかして売りつけておるに違いない」

「酷いなぁ先生、歳はそんな奴じゃありませんよ」

「どうだかな・・・それよりも茶だ」

「あっ、失念しておりました。今すぐ用意致します」

勝太は身軽に立って道場の奥へ入って行った。きっと台所がそちらにあるのだろう。



「これは?」弁千代が訊いた。

「茶です」

「しかし、徳利に入っている」

「ああ、うちでは茶といえばコレのことです、お嫌いですか?」勝太が首を捻る。

「い、いえ、嫌いではありませんが・・・」

「勝太さん、その御仁は警戒しているのですよ。こんな所で酔っちゃ身ぐるみ剥がされかねませんからね」沖田が揶揄うように言う。

「お前は黙っていろ」周助が沖田を睨む。「お前の敵う相手ではない」

「そんなにお強いんですかね?」沖田がムッとして言った。

「見て分からぬか?」

「ふ〜ん」それきり沖田は口を噤んでしまった。

「失礼致した、なぁに、江戸は上方からの下り酒が豊富に入ってくる。長屋の住人でさえ水代わりに飲んでおるほどじゃ、遠慮は要らん・・・それとも沖田の言うように我々が信用出来んのかの?」

「はい、誰であろうと簡単には信用は出来ません」弁千代はチラリと沖田を見た。「然し乍ら、少しの酒で身を誤るようでは武士とは申せません、頂きます」

「良い心掛けじゃ。勝太、酒を注いで差し上げろ」

「はい」

勝太は貧乏徳利から冷酒を湯呑みに注いで皆に回した。

「ようこそ試衛館へ、歓迎致す!」勝太が湯呑みを差し上げた。皆同じようにして湯呑みに口を付ける。

「う〜む、美味い。今日の酒は格別じゃ」源三郎が呟いた。

「源さんはいつでも格別ではないですか」勝太が愉快そうに言った。

「違いないわい・・・わははははは!」



「この頃は江戸も物騒になった」

「食い詰め浪人が沢山流れ込んでおるからなぁ」

「この道場にもいるでは無いか、原田も永倉も藤堂もそうだろう」

「あいつらは皆ゴロツキだ、武士かどうかも怪しいものよ」

「俺だって元を正せば百姓だもんな」勝太が言った。

「私は元白河藩士ですよ・・・」不服そうに沖田が口を開く。

「ふん、分かったもんじゃないさ」

「山南さんが少しマシかなぁ、あの人は学がある」

「それに腕も立つ、確か北辰一刀流の免許だ」

「しかしあの人に人は斬れませんよ、道場破りを追い払うくらいの役には立ちますがね」

「総司、この時代にそうそう人を斬ることもあるまい?」

「分かりませんよ、近頃世間が騒がしい。夷狄が攻めてくると言う奴らもいます」

「うむ、ベンさんは人を斬る事についてどう思う?」勝太が尋ねる。

「はい、人を斬らずに済めばそれに越した事はありません」

「武士の面子を潰されてもかい?」

「自分一人ならば・・・しかし、自分が所属する集団の面子に関わる事ならば・・・」

「斬ると言うのか?」

「それを何処まで広げるかは、人によって違うでしょう。だが自分一人なら土下座をしても戦う事は避けるべきでしょう」

「ぬるい!」いきなり沖田が立ち上がった。「あなたは武士ではない!一己の武士の面子こそ大事!」

弁千代は沖田を見上げた。いきなり激昂した、こんな人間に理屈は通じない。

「私と太刀合って頂けませんか?」

それが狙いだったか。

「沖田、よせ!戦う理由が無い」

「そんなものは・・・後からどうとでもつけられます!」

「ならん!」周助が厳しい口調で言った。「お前はこの道場の生え抜きでは無い、太刀合いたくば他所でやれ」

「そうします!」沖田はギリっと歯ぎしりをして道場を飛び出して行った。


「いや、申し訳ない事をしました」勝太が頭を下げた。「奴は単純なのです、明日になったらケロッとしてます。どうか忘れてやって下さい」

弁千代にはそうは見えなかった。激情的に振舞ってはいても何処か醒めている、計算高い蛇のような印象を受けた。

「では、どうも潮時のようなので今日はこれで失礼致します」

「無門殿」周助が改まった調子で言った。「後日暇を見つけてもう一度ここに来て貰えんじゃろか?」

「分かっています、面子などではなく剣の修行者として参ります」

「忝ない」


弁千代は、試衛館を辞し薄暗くなった道を蛇骨長屋に向けて足を運んだ。もちろん周囲の気配には十分気を配っている。人の気配は無かった。

「暮れ六つには間に合わないなぁ。伝兵衛さんに頼んで木戸を開けて貰わなくっちゃ」

弁千代は空を見上げて呟いた。



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