蛇骨長屋
蛇骨長屋
柳河藩の下屋敷は浅草末にある。周りにはのどかな田園風景が広がり、近くに吉原の花街があるとは思えぬほど静かだった。
弁千代は下屋敷を出て小笠原帯刀の屋敷前を南へ下り門前町に出た。それを更に下って次の角を東へ進むと誓願寺、そのまままっすぐ進むと伝法院に突き当たる。
蛇骨長屋はその伝法院の西の端にあった。
蛇骨とはまたおどろおどろしい名前だが、昔湯屋を建てる為土地を掘ったところ大蛇の骨が出て来たのでその名がある。主人はその湯屋を蛇骨湯と命名し今も健在だ。
蛇骨湯が近い事からその長屋のことをいつの頃からか蛇骨長屋と呼ぶようになったのである。
繁華な表通りに面して二階建ての長屋が建っていた、これを表長屋と云い町人が店を構えて商売を営んでいる。
表長屋に挟まれるようにして木戸があった、これが裏長屋への入り口だ。
裏長屋には下層の町人が住んでいる。江戸の半分は武家地、更にその半分は寺社地、人口の半分にあたる町人達は残りの土地に押し込められていた。
弁千代は木戸の前で立ち止まって木戸を見上げた。何やらベタベタと貼りものがしてある。
「『男女口入・佐平』『山伏・松寿院』『糊屋・お梅』『祈祷・高山源之丞』『船頭・ひで』『灸すえ所・・・』これは表札兼看板か、ずいぶんいろんな人が住んでいる・・・」
「どいたどいた!入んねぇんなら道空けてくんな!」
いきなり怒鳴られて振り向くと股引きに半纏を着た若い棒手振りが立っていた。
「魚は鮮度が命なんだ、そんなところに突っ立っていられちゃ腐っちまわぁ!」
「あ、相済まぬ・・・」弁千代は隅に身を避けて謝った。
「分かりゃいいんだよ、通らせてもらうぜ!」そう言って棒手振りは木戸の中に駆け込んで行った。
「江戸の魚売りは威勢がいいとは聞いていたが・・・」
「お侍さん、この長屋に用かね?」
呆然と棒手振りの背中を見送っていると、また後ろから声を掛けられた。今度は紺の木綿の小袖の裾を短く端折って、脛丸出しの老婆が立っている。
「あなたはこの長屋にお住いの方ですか?」
「そこに書いてあるだろう」老婆は顎をしゃくった。「糊屋の梅たぁ妾のこった」
「失礼しました、あの、大家さんに会いたいのですが」
「大家?ああ、差配の伝兵衛さんならそこの米屋だよ」そう言って梅は木戸の右手の米屋を見遣った。
「あ、有難うございます」
「礼にゃ及ばないよ」梅は大きな木桶を重そうに抱えて木戸の中に消えた。あの中に糊が入っているのだろう。
「御免ください、どなたかおいでですか?」
「は〜い、どなたかな?」
二間間口の店先から声をかけると、奥から米屋の主人が出て来た。
「これはこれはお侍様、米をご所望ですかな?」恰幅の良い四十絡みの男である。
「いえ、そうではありません、長屋を貸して頂きたくて罷り越しました」
「あなた様は御浪人で?」
「はい、訳あって先日浪々の身となりました」
「それは困りましたな、うちの長屋は身元のはっきりせぬ御仁にはお貸し出来ない事になっておるのです」
「ああ、それならば・・・」弁千代は懐から吉村に書いてもらった添え状を取り出して主人に渡した。
「無門・・・弁千代様でございますか?」
「は、はい無門弁千代です」初めて無門を名乗った、許された仮の名とはいえなんだか気恥ずかしい。
「柳河藩の御紹介ならば文句はありません、右の棟割長屋の一番奥が空いてございますのでそこをお貸ししましょう」
「かたじけない」
「ただ、厠が近うございますがそれでも構いませぬか?」
「はい、貸して頂けるのならば何処にても構いませぬ」
「では、家賃は月五百文、門限は暮れ六つ、そのあとは木戸を閉めてしまいますのでご注意下さい」
「はい」
「畳は店子の持ち込み、無門様は畳はお持ちで?」
「いえ、持っていません」
「では、筋向かいの畳職人の清さんに頼むと良いでしょう。古畳の表を張り替えて安く提供してくれます」
「分かりました、そう致します」
「差配は親、店子は子、役所の手続きから夫婦喧嘩の仲裁まで困った事があったらなんでもご相談ください」
「有難うございます」
「なぁに、それが仕事で御座いますよ」
「さあ、ここで御座います」伝兵衛が入り口を開けると中は薄暗かった、窓がないので当たり前である。
「家財道具はボチボチと揃えて行かれると良いでしょう。私は店におりますので、何なりとご相談ください」伝兵衛は軽く会釈をして木戸の方へ戻って行った。
思った以上に狭い。九尺二間と云うけれど手前の一畳半は土間と台所である。
一段上がって畳敷きが四畳半、まだ畳が無いので板張りのままだ。
これに寝具と行燈、火鉢を置いたなら居住空間は更に狭い。
江戸の庶民はこんなところに押し込められているのか、弁千代は暗澹たる気持ちになった。
「おや、お侍さん此処へ越してくるのかえ?」木戸口で出会った糊屋の梅である。左の家から顔を出したところを見るとお隣さんらしい。
「先程は有難う御座いました。今日からお世話になります、中・・・いえ無門弁千代です」
「そうかい、じゃあベンさんで良いね、無門さんじゃ堅っ苦しいよ」
「それで結構です。ずっとそう呼ばれていましたから」
「まだ何も揃っちゃいないみたいだねぇ」梅が中を覗き込んだ。
「はあ、取り敢えず寝る所があれば良いのです」
「それにしても、布団は必要だよ」
「綿屋は何処にありますか?」
「綿屋ねぇ。木戸を出て右側の並びにあるけど・・・高いよ」
「古いもので良いのです」
「だったら、米屋の筋向かいに古着屋と古道具屋があるから行ってみるがいい、大概のものは手に入る」
「はい」
「そうだねぇ、それから細々したものは振売が来るから声をかければいい」
「え、こちらから買いに行かなくても良いのですか?」
「江戸では、生活に必要なものは向こうから巡回して来るようになってるんだよ。貧乏人は必要な分だけしか買わないからその方が便利なんだ」
なかなか考えてある、狭い所に押し込められた庶民の知恵だろう。
「わかんない事があったら何でも聞きな、伊達に年は取っちゃいからね」
「はい、よろしくお願い致します」
弁千代は、こんな老婆でも一人で暮らして行ける江戸という所は不思議なところだと思った。
布団は古着屋で手に入れた。十分に日干ししてあったので黴臭くはない。
ついでに古道具屋で枕屏風と行燈、鍋釜食器類も買った。
振売から行燈の油を買った。菜種油は高価なのでイワシ油にした。少し臭いけれど仕方がない。
塩、味噌、醤油を買ったら手持ちの銭はもういくらも残っていなかった。
取り敢えず生活に必要なものは揃った。
「あとは何か・・・あっ!水」長屋の入り口に井戸があった筈だ。
弁千代は水桶を抱えて外へ出た。
井戸の所へ行くと、長屋のおかみさん達が集まって井戸端会議をしていた。
弁千代を見て一瞬話し声が止んだ。
「お侍さん、ベンさんて云うんだろう、梅さんから聞いたよ。妾は船頭の女房で加代、覚えといておくれ」一番年嵩のおかみさんが言った。
「妾は大工の女房でお豊」
「うちの宿六は青菜の棒手振りだよ。妾はお糸」
「無門弁千代と申します、以後よろしくお願い致します」
「あら、良く見ると田舎っぽいけどいい男だねぇ」
「あんたの亭主なんぞは焼き餅焼くんじゃ無いかえ」
「おや、よく言うよ、うちのは妾にぞっこんさ」
「あらいやだ、凄い自信だよ」あはははは・・・と全員で声をそろえて笑っている。まるで弁千代の存在を忘れたようだ。
「おや、手桶を持ってるね、水を汲みに来たのかい?」今気がついたようにお豊が言った。
「左様です」
「嫌だよぅ、早くお言いな。すっかり待たせちまったじゃないか」
とても切り出せなかったのだが・・・
「さ、手桶を置いて。水汲んであげるから」加代が言った。
「いえ、自分でやります・・・」
「遠慮するんじゃないよ、水臭いねぇ。蛇骨長屋の住人は家族も同然だよ」
加代はさっさと弁千代から手桶を取り上げて下に置いた。その間にお豊が竹釣瓶を井戸に下ろして水を汲み、お糸が釣瓶桶から弁千代の手桶に水を移した。息がぴったりあっている。
「有難うございました。所でこの井戸はどのくらい掘ってあるのですか?」
「掘っちゃいないよ、これは水道井戸だからね」
「水道井戸?」
「そうさね、神田上水の水が水道橋を渡って地下に潜り、地面の下をここまで流れて来てるのさ」
「そんな大掛かりな仕掛けが・・・」
「お陰で妾たちは労せずしてうまい水が飲めるのさ。公方様もど偉い事をしてくれるもんさね」
「知らなかった・・・」
「近頃、倒幕やら何やら騒いでいる気狂い連中がいるみたいだけど、とんでもない奴らだよ。妾らがこうして暮らして行けるのも公方様のお陰だからね」
「そうだよ、奴らに何が出来るっていうんだい。幕府倒したって今より良くなりゃしないよ」
「あんたまさか倒幕派じゃないだろうね?」
「め、滅相もありません!」
「あはははは、冗談だよ。あ、そうだ、あんた今夜の晩飯は?」
「まだ決めておりません」
「だったら、飯だけ炊いて待っているといいよ、里芋の煮っころがしと鰹の刺身を持てってあげるから」
「鰹って、そんな高い魚・・・」
「それがさぁ、近頃馬鹿みたいに獲れるからって値が安くなってるんだ、なんかの前兆かね?さっき来た魚屋から一匹丸ごと買ってみんなで分けようとしてたんだよ、お裾分けだぁね」
「それは願ってもない事ですが・・・」
「あんた、田舎もんみたいだから教えといてあげるけど、江戸で遠慮してちゃ嫌われるよ。ここは京都みたいにしみったれちゃいないからさ、貧乏だって助け合って生きていられるんだよ」
「妾らにとっちゃ、天子様より公方様さね」
「じゃあ、飯炊いて待ってるんだよ」
「はい・・・」
弁千代は江戸庶民の底力に触れた気がした。
俺ぁ船頭だからよ、船には興味があるんだ。
それでよぅ、浦賀まで黒船を見に行ったのさ。
びっくりしたなんてもんじゃねぇ、最初は何が浮いてんのか分からなかったくれぇだ。
だがよぅ、暫く見てると慣れて来ちまってな、なぁんだと思った。
次の日、かかぁと鶴吉連れて弁当持って黒船見物に行ったくれぇだ。他にもたくさん来ていたぜ。
鶴吉ってぇのは俺の息子だよ。去年数えで十になったんで奉公に出しちまったがな。
この狭い家が急に広くなっちまったぜ。
そんなことはどうでもいいって?うるせぇなぁ、おめぇは黙ってろい。ちゃちゃ入れるんじゃねぇやい。
それでなぁお侍ぇさん、俺ぁ思ったのよ。世間じゃ公方様が腰を抜かして夜も眠れねぇって言ってやがる、『泰平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず』ってな。
だが、あんなもの見たくれぇで公方様が腰を抜かすはずはねぇじゃねぇか。
ただなぁ、あんなのと喧嘩おっぱじめちまったら、こっちだって無傷じゃすまねぇもの、そんで頭を悩ませて居られるだけなんだ。
それをよぅ、腰抜けだの弱腰だの悪し様に言いやがる。だったら、てめぇでやってみろってんだ。
俺たちゃよ、江戸っ子だって言ってるが根っからの江戸っ子なんて一握りしかいねぇんだよ。
みんな他所で食い詰めて江戸に吹き溜まった奴らばっかりよ。
それをよぅ、曲がりなりにもこうして暮らして行けるのは誰のおかげだと思っていやがるんでぇ。
どっかの芋侍ぇや田舎侍ぇじゃこうはいかねぇのよ。
最近は地震があったり火事があったり、はしかぁ流行ったりしてよ、公方様には向かい風が吹いてやがる、全く神も仏もねぇもんだ。
昨日もよ、どっかの芋侍ぇが酔って管巻いてたのよ。だから言ってやったのさ、てめえらに何ができるって。
怒ったねぇ、下郎手打ちにしてくれる!って言いやがった。
やれるもんならやってみろ!って、俺ぁ啖呵ぁ切って胡座かいて地べたに座り込んだのさ。
そしたら奴ら急にオロオロしやがって、今度だけは見逃して遣わすってな、さっさと行っちまいやがった。
え、よく無事だったって?あたぼうよ、こちとら何も悪いこたぁしてねぇもの。
ん、近頃ぁよく斬られるだって?藩邸に逃げ込まれたら手が出せねぇってか?
くわばらくわばら、武士道も地に堕ちたもんだ。あっ、おめぇさんも侍ぇだったな。
すまねぇすまねぇ、ま、同じ長屋の住人同士、仲良くやろうや。
え、美味かったって?かかぁの味付けじゃしょっぱかったろぅ?
なぁに、世辞はいいよ。またいつでも遊びに来てくんな。
おっ、おやすみ、またな。
おい加代、近頃珍しい侍ぇじゃねぇか、礼儀正しくってよ。俺ぁ好きだぜ面倒見てやんな。
なに?言われなくったって分かってるって?ふん、勝手にしろい。




