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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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大坂


大坂



「鈴さん、此度は一緒に行く事は出来ません、留守を頼みます」

弁千代は、吉右衛門の命で江戸に赴く事を鈴に告げた。

「もう、ベンさんも私も以前のようには行きませんものね。心置き無く行ってらっしゃいませ」

鈴は最近月のものが遅れている事を弁千代には黙っていた、まだはっきりした事はわからないのだ。

「これから大坂の蔵屋敷、江戸の藩邸に連絡を取り関所手形の発行を藩庁に申請せねばなりません、出発は十日後になるでしょう」弁千代は捨切手で旅をする計画を鈴には黙っていた。

「その間、旅の支度を整えておきましょう」

「帰りはいつになるか分かりませんが、困ったときは加藤伊織様を頼って下さい」

「大丈夫ですよベンさん、私はその辺の武家のお嬢様ではありませんからね」

「有難う、心強く思います」


十日後、弁千代は江戸へ向けて旅立った。

参勤交代の経路と宿場をなぞる事にした。帰藩したらいつかは参勤交代の列に加わらなければならない、その時の為、宿場の様子を知っておく事も必要だろう。

一日目は羽犬塚に泊まった、二日目は筑前の山家、三日目は難所の冷水峠を越えて飯塚に着いた。

四日目、直方を過ぎ黒崎泊、五日目には小倉の大里から船に乗った。

ここから大坂までは普通六日の行程である、しかし天候によってはこの限りでは無い。

船は四、五間ほどの小さなものであった。順風の時は帆で進み凪の時は櫓で進む。

逆風や風待ちもあるので滞船する事もあり全くの風まかせという按配であった。

瀬戸内海は潮汐の干満差が大きく、また、狭い水道や瀬戸などが多く地形が複雑な為、潮流が最も速い海域として知られている。河野愛一郎の祖先は、この海を舞台に活躍していたのだ。

弁千代は上関と下津井で風待ちを余儀無くされ、八日かけて淀川河口に着いた。

中之島常安町の蔵屋敷に着いた時には、日が大きく西に傾いていた。

蔵屋敷の者たちは弁千代を快く迎え入れてくれた。大石進が根回しをしていてくれたからである。

大石進の名は江戸ばかりではなく大阪でも鳴り響いていた。何と言っても江戸の著名な道場を総なめにしたお國の英雄なのである。本当は父の武楽の名声なのだが息子も江戸に出て同じような活躍をしている。

「大石はんのお仲間なら、大歓迎でっせ」

強かな堺の商人たちと交渉する為大坂弁を身につけたのだと、侍が言う。

「侍言葉じゃ調子が出んのですわ。郷に入っては郷に従えでんなぁ、あはははははは」その侍は豪快に笑った。「わて河合辰之進いいます、覚えといてや」

「中武弁千代です、ご迷惑をおかけいたします」

「なんのなんの、ここは見ての通り敷地は広ぉおますが、御屋形の他はほとんどが蔵ばかりでなぁ、住居部分は狭ぉおます、窮屈やけど我慢しておくれやっしゃ」


弁千代は長屋の二階の一室に荷を解いた。

蔵は荷揚げの為土佐堀川に面して多く建てられており、長屋は蔵屋敷の一番奥にあった。

「前は長州の蔵屋敷か・・・」

荷物を解いて川沿いをぶらぶら歩いてみた。川風が心地良い。河合の話では百二十ほどの蔵屋敷が立ち並んでいるらしい。


「失礼だが」

熊本藩の蔵屋敷の陰から声がした。

「あっ!」弁千代は思わず声を上げた。「胤舜様!」

「やはりそうであったか、久しぶりじゃのう中武弁千代」

「お久しぶりでございます」弁千代は深く頭を下げた。

「冷や飯食いの次男坊が、立派になったものよのう。柳河か?」

「は、今は立花鑑寛様の家臣で御座います」

「一緒におった女人はどうした?」

「嫁に致しました」

「ほ、それは祝着じゃ」

「胤舜様は何故ここに?」

「肥後のお殿様が参勤交代の途中、この蔵屋敷の御屋形にお泊まりじゃでご挨拶に参った」

「そうでしたか」

「泊まって行けと申されたが上等な夜具は身に馴染まぬ。丁寧にお断りして今出てきた所じゃ」

「今も雲水で?」

「見れば分かろう。破れ衣に饅頭笠、錫杖を持っておれば立派な雲水に見えんか?」

「はあ、仰る通り・・・」

「ところで弁千代、少し付き合わんか積もる話がしたい」

「喜んで。私がお借りしている長屋がすぐそこです」

「それは良い、この姿で酒は飲めぬでな」

「まさか胤舜様がそのような事を・・・」

「これでも坊主じゃ、人の目は気になるわい。破戒僧を気取るつもりはない」

「いかにも左様で御座いますな。では、参りましょうか」

「うむ、ちょっと待て」

胤舜はいま出てきたばかりの蔵屋敷に入って行った。暫くして戻って来ると手に一升徳利をぶら下げている。

「勝手知ったる他人の台所、ちょっと失敬してきた」

「やはり破戒僧ではありませんか」

「なぁに、今日の説経の手間賃よ。安いもんじゃ」

「あはは、相変わらずですね」

「さ、行こうか」

「はい」弁千代は胤舜の横に立って歩き出した。



「それはな、無常というもんじゃよ」

懐かしい思い出話に花が咲いた後、弁千代が此度の旅の経緯を語った時、胤舜がそう言った。

「全てのものは変わり続けると言う事じゃ」

「武士道も変わりますか?」

「古の武士は、『腹が減っては戦はできぬ』と、言っておった。近頃では『武士は食わねど高楊枝』と言う。どうじゃ、変わっておろう」

「はい」

「武士に二言は無い、と言うけどな、変わらぬものならそんな事わざわざ言う事もあるまい。人の心が変わるものだからこそ、変わらぬように言の葉に閉じ込めて変わらぬようにしておるのじゃ。それでも・・・」言葉の意味は変わる。

「人はなぜ死ぬ?」胤舜が唐突に言った。

「それは・・・病気だとか怪我だとか、義によっても人は死にます」

「それはただの切っ掛けじゃ、人は生きているから死ぬのよ」

「は・・ぃ」

「生きていると言う原因によって死という結果が生じる」

「それはそうですが」

「人は必ず死ぬ、生まれ出た瞬間から死に向かって等速度で進んでおる。これは誰にも止められん」

「・・・」

「世の現象もこれと同じ、一瞬たりともとどまる事は無い。しかし、人は自分は変わらぬと思うている、変わるのが嫌なのじゃ。だから必死で抵抗する。若返りの薬を飲んでみたり、無理な運動をしてみたり、果ては不老長寿の妙薬を大枚叩いて探し回る。愚かな事よ」

「病気は・・・治るではありませんか」

「それも無常よ、病気に罹るのも治るのも変わり続けているからじゃ。人は良い変化なら受け入れ、悪い変化なら拒絶する。しかし人がどう足掻いたところで世のうねりは止められはせぬよ、

。精々がとこ自分を変えてうねりに対処していくしかなかろう」

「それでは今回の黒船騒ぎは・・・」

「儂に政は分からぬよ」胤舜は弁千代を睨みつけた。「義の為に人は死ぬ、と言うたか?」

「はい」

「切腹は武士の作法か?」

「はい」

「誰が決めた?」

「それは・・・」

「大昔の莫迦な侍が、情に任せて自らを害したのであろう。それを見た他の侍が、これこそ武士の死に様じゃと囃し立てたのであろう。何故じゃ?」

「・・・分かり・・・ません」

「自分に出来ぬ事だからじゃないのか?死ぬ覚悟ができている者などおるまい」

「そうかも知れませんが・・・」

「自分に出来なければ、凄いと言うしかないじゃろう。そのうちに、俺も凄いぞと言う奴が出て来て腹を切る。それを忘れぬように作法にしただけじゃないのか?」

弁千代に答える言葉はなかった。

「坊主の荒行もそれと一緒じゃ」

「仏道修行がですか?」

「荒行は修行ではない、人に出来ない事をして褒められて悦に入っているだけの事」

「しかし・・・」

「比叡山に千日回峰業と言うものがある」

「聞いたことがあります」

「七年に渡って行う行じゃ」

「ああ・・・」

「真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と二百六十箇所を礼拝しながら約七里半を三刻かけて巡拝する」

「過酷な行ですね」

「途中で行を続けられなくなったら自害するそうじゃ。その為に短剣と埋葬料を常時携行する」

「自害・・・」

「何故、悟りを得る為に行う修行で自害する?」

「それほどの覚悟を持って悟りに挑戦しろということでは・・・」

「しかも!」胤舜は弁千代の言葉を遮った。「悟りを得る為ではなく悟りに近づく為にやらせて貰っている・・・その事を理解する為の行なんだそうだ。そんな事やらなきゃ理解すら出来ないのか?」

「そうなると、何が何だか・・・」

「即身成仏、又然り。死んでから奉られて何が嬉しい、死ねば終いじゃ。何かを成し遂げようと思うのなら・・・死ぬもんじゃない」

「然りとて・・・」

「悟りとは何だ!」

「わ、分かりません・・・」

「悟った事のない者には語れぬ。悟ってしまえば語る事も出来ぬ。そう言うものよ」

「・・・」

「お釈迦様は、苦行では悟れぬと言った、仕来りに拘るなとも・・・な」

弁千代は、胤舜が何を言いたいのか何となくわかるような気がした。

「目の前の現象を見よ、先を見過ぎて足元の穴に落ちるでない」

「はい・・・」


その夜、遅くに胤舜は帰って行った。

「この近くに懇意にしてる寺がある。宗旨は違うが管主とは馬が合うんだ」と胤舜は言っていた。

又会う事があるのだろうか?








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