鈴
鈴
弁千代は石段を降り、宿の老婆の教えてくれた道を次の宿場に向け登って行った。
道はやがて下りになり、平坦になった。
「腹が減ったな・・・」寺を出たのは、もうだいぶ陽が西に傾いた頃だった。
考えてみれば、昨日の昼過ぎに握り飯を食って以来、何も腹に入れていない。
次男坊とはいえ、貧しい家柄ではなかった弁千代は、ひもじい思いなどした事は無い。初めての飢餓感に戸惑った。
途中の沢で、水を飲み空腹を誤魔化した。
「次の宿場に着いたらまず飯を食おう」弁千代は空きっ腹を抱えて先を急いだ。
次の宿場に着いたのは、陽もとっぷり暮れた黄昏時だった。
前の宿場より大きく賑やかだった。飯の食えるような店を探した。
馬喰の屯する厩の先に、”めし”と書かれた提灯の下がる店を見つけた。
迷わずに飛び込む。「ごめん、飯を食わせてください!」
いきなり言ったので、襷をかけた店の娘が目を丸くして驚いていた。
「い、いや失礼した。何か食べる物はありますか?」弁千代は言い直した。
「はい、うちは飯屋ですから・・・ですがお侍さんのお口に合うものがあるかどうか・・・」
「何でも良いのです、腹が満たせれば」
「簡単な山菜の煮物と、焼き魚ならありますが・・・あと、うどんも出来ます」
「全部ください!」
「はい、承知致しました」娘は笑いを噛み殺しながら、奥に注文を伝えに行った。
「お侍さん、よほどお腹が空いていなさるんですねぇ」奥の席に座って一人で酒を呑んでいた女が声をかけてきた。三味線が壁に立てかけてあった。
「はあ、昨日の昼から何も食べていません・・・」
「まあ、どうしてでござんす?」
「それが・・・まあ、いろいろありまして・・・」
「いいんですよぉ、そんなに困らなくても。ご飯が来るまで一杯いかがです?」
女は、銚子と猪口を持って弁千代の席にきた。
「いえ、私は酒は飲みませんから」
「あら、お堅い事。いいじゃありませんか、お近づきの印ですよ」
女は弁千代よりいくらか年上に見える、しかし、白粉の白さと紅の赤さで本当のところは分からない。
「女に恥をかかせるなんて、男のする事じゃありませんよ」
そう言われて、弁千代はムッとした。
「では、一杯だけ頂きます」
「そう来なくっちゃ!」女は懐紙で猪口を拭い、両手で銚子を差し出した。
弁千代は猪口を受け取り、女の酌を受けた。酒を一気に飲み干す。
美味くは無い、空きっ腹に酒が沁みた、躰が不思議なくらい熱くなる。
「まあ、いい呑みっぷり、もう一杯いかがです?」
「いえ、もうほんとに・・・結構です」初めての酒であった。
そこに、注文していた料理が届く。弁千代は救われた気がした。
「では、私は飯を食いますので」そう言って弁千代はうどんに箸をつけた。
温かい汁が喉を伝って胃の腑に落ちていく。さっきの酒を洗い流してくれた。
「美味い!」
「よっぽどお腹が空いていらしたんですね」女が呆れた顔で弁千代を見詰めている。
その時、店の縄のれんを潜って男が現れた。男は女を見つけて近づいて来る。
「お鈴さん、お座敷にお呼びがかかったよ。急いで来ておくれ」
「あら、番頭さん案外早かったのね」
「大店の旦那衆の集まりだ、粗相のないように頼むよ」
そう言って男はそそくさと店を出て言った。
「お侍さん、聞いての通りです。あたしゃ行きますけれど・・・今夜はどこの宿にお泊まりです?」
弁千代は飯を頬張りながら女を見た。「まだ決めていません」
「そうですか・・・私は鈴、覚えておいてくださいよ」
女は勘定を払い、三味線を抱え出て行った。




