出立
出立
「そうか、もう帰るのか・・・」大将が寂しそうに言った。
「色々とお世話になりました」弁千代が頭を下げる。
「俺の料理も食い納めだな」
「残念だわ、もっと大将の料理食べたかったのに・・・」鈴が名残惜しそうに呟いた。
「機会があったらまた長崎に来てね」
「はい、春菊さんもお元気で」
「愛若の姿が見られないなんて、本当に寂しいわ」
「よしてください!鈴さんに上手く乗せられて・・・今でも後悔しているのですから」
「あら、とっても綺麗だったわよ。あの門番、ずっと若を見てたもの」
「わっ!言わないで下さい!もう聞きたくないっ!」
全員が大笑いした後、何故か無口になった。
「湿っぽいのは性に合わねえや。鈴さん、一曲やってくんな!」
「そうね、何がいい?」
「『槍錆』なんてどう?」春菊が玄人好みの曲を選んだ。
「良いわよ」鈴が三味線を構えた。「〽︎槍は〜錆びてもぉ名は〜錆びぬぅ・・・」それは浪人の心意気を唄ったものだった。
「おいおい、そりゃ侍が職を失った時に唄うものだろ」大将が止めた。「先生の旅立ちに縁起が悪いじゃ無いか!」
「それもそうだわね、じゃあ私の得意なやつで良い?」
「おう、良いぞ、やってくれ!」
「では、ツトテンシャン〽︎梅は〜咲ぁいぃたぁか桜はまだかいな・・ハァ、ツテトテシャンシャン・・・」
「よっ、名調子!」
「先生」愛一郎が改まって言った。「船が出るのは明後日と伺いました」
「そうですが?」
「私は明日、先生方とお別れしようと思います」
「えっ!柳河まで一緒に行くんじゃなかったの?」鈴が驚いたように言った。
「はい、そのつもりでしたが気が変わりました」
「愛一郎殿、それは何故?」
「私は、先生が長崎入りした逆の道を辿って、長崎街道を小倉まで北上してみようと思い立ったのです」
「小倉まで?」
「柳河でお別れしても四国へ帰ることに変わりはありません、それならば先生方の泊まられた宿場宿場で武者修行をしながら小倉まで行こうと思います」
「小倉まで行かれて、その先は?」
「小倉からなら八幡浜までの船は出ているでしょう。私は湯築旅館の跡取り、これ以上親父に心配をかけるわけには参りません。ですがせめて後少し、自分なりの剣を工夫したいのです」
「そうですか、ならば我々がお世話になった旅籠や道場の方達によろしくお伝え下さい」
「はい」
ふと見ると、卓の向こうの大将の顔が涙でクシャクシャに歪んでいた。
一ノ瀬橋を渡って蛍茶屋で別れを惜しんでから、店の前で愛一郎を見送った。
「原田の宿に、俺の先輩がやっている『黒田屋』という料理屋があるんだ。是非寄ってくれ」
「長崎に来たら絶対に丸山見番に声をかけるのよ」
「若のお陰でとっても楽しかったわ。また会えると良いわね」
「愛一郎殿、今度会う時は是非お手合わせ願います。お父上によろしくお伝え下さい」
それぞれに別れの言葉を口にした。
「皆様も、どうぞお達者で」
「この婆も忘れんで下されよ」蛍茶屋の主が言った。
「婆様、本当にお世話になりました。どうぞお元気で長生きして下さい」
「ははは、無理を言うでない・・・」
振り切るように背を向けると、愛一郎は最初の難関、日見峠に向けて西の坂道を登って行った。
「行ってしまったな・・・」感慨深げに大将が言った。「ところで先生、明日の出航は?」
「朝五ツ、辰の刻です」
「明日は見送らねえよ。こんなに淋しい思いをするんじゃ涙がいくらあっても足りやしねえ」
「それで結構です」
「その変わり、今夜は俺が小曽根邸に出張って、腕によりを掛けてみんなに最後の卓袱を作らせて貰うぜ」
「私たちも呼んでくれるの?」
「当たり前だ、見番のお師匠さん達も呼んでおいてくれ」
「分かったわ、今夜は芸妓衆貸切ね!」
「綺麗どころを頼むぜ」
「あら、私じゃ役不足なの!」
「そんなこたぁねえが、座は華やいだ方が良いだろ?」
「及ばずながら、私も手伝うわよ!」
「鈴さん、三味の腕上げましたよね」
「毎日、丸山のお師匠さんとこに通ったもの」
「そうだったわね。じゃあ、今夜は盛大に別れの宴を開きましょう!」
その夜、小曽根邸は遅くまで三味の音が絶えることはなかった。
翌朝、長崎港に一本柱の帆船が浮かんでいた。柳河堀切村の海運業者の安兵衛船である。
この船は、往路では酒・紙・茶・櫨蝋などを載せ、復路では海産物や薩摩黒砂糖・唐棉などを積んで帰る。
「長々とお世話になりました」弁千代と鈴は揃って頭を下げた。
「何ほどの事がありましょう、また長崎に来る事があったら必ず寄ってくだされ」
「はい、必ず」
「加藤伊織様にくれぐれもよろしくお伝え願います」
「承知いたしました。お預かりした書状は、きっとお渡し致します」
「風は順風、天気は快晴、夕刻には柳河に着きましょう。では道中お気をつけて」
「弥平殿もお元気で」
朝五ツ、すっかり明るくなった長崎港を、弥平一人の見送りを受けて、弁千代と鈴は柳河に向けて出航した。
船は野母崎を周り島原半島を左に見て順調に進む。九十九島を過ぎて有明海に入る頃、弁千代が鈴を呼んだ。
「鈴さん」
「なあに、ベンさん?」
「私は何のために柳河に向かっているのでしょう?」
「そりゃあ仕官する為じゃない」
「あの日・・・家を出た日に、たまたま渡し舟に乗り合わせただけの他人を頼って、そのような虫の良いお願いをしに行っても良いものでしょうか?」
「いいんじゃない、向こうだってそのつもりで声を掛けてきたんだし」
「それはそうなのですが・・・」
「それに、会えたからと言って必ず仕官出来るとは限らないんでしょ?」
「まあ・・・」
「なら、駄目元で会ってみるべきだわ。『袖すり合うも他生の縁』て言うじゃない」
「私もいつまでも兄のお荷物でいたくはありません、出来るなら武士としての本分を全うしたいのですが・・・」
「なら、いいじゃない」
「鈴さんはどうするのですか?」
「わたし?私は・・・そうね、また流しで稼ぐわよ。今までずっとそうして来たんだし」
「鈴さん・・・私と夫婦になってはくれませぬか?」思い切ったように弁千代が言った。
「え、そ、そんなの無理よ・・・ベンさんはお侍様、私はしがない三味線弾き、身分が違うわ!」
「身分など・・・関係ありません」
「そっちに無くてもこっちに有るわ!」
「なら、仕官は諦めます」
「馬鹿言ってんじゃないわよ!そんな子供みたいな事・・・」
「方法がない訳ではありません」
「えっ?」
「私の知人に、大工の棟梁の娘を嫁にした者がいます。然るべき武家の養女になるのです」
「そんなの無理よ、私に武家の娘は務まらない・・・」
「もし、仕官が叶ったなら一度国に戻ります。そこで私の剣の師、加州左馬介様にお頼みしてみます」
「な、なんで私なんかの為に・・・」
「この旅で分かったのです、私には鈴さんが必要なのだと」
「ま・・・ぁ・・・」
「了解して頂けますか?」
突然鈴が両手で顔を覆って泣き出した。大声を上げて子供のように泣きじゃくった。
船の人足達が、どうしたんだ?という顔で二人を見ているが、鈴は気にしなかった。
そして、しばらく泣いた後弁千代を見つめてしっかり頷いた。「嬉しいベンさん!」
弁千代はホッとしたように肩の力を抜いた。
「ひとつだけ約束して下さい。絶対に逃げ出さないと」
「はい・・・」
人足達から、「わっ!」と歓声が上がった。
「お侍さん、きっと嫁にしてやんなよ!」
船を降りるとき人足達から声を掛けられ、弁千代は黙って頷いた。
「お姐さん、幸せになりな!」
鈴は大きく袖を振っている。「いい人達ね」
「何事も堅苦しい侍では、こうは行きません」
「なんだか不安になって来たわ・・・」
「暫くの辛抱ですよ」
「ベンさんと夫婦になれるのなら、頑張ります!」
「ははは、よろしくお願い致します」
船を降りた二人は、島堀切の廻船宿に泊まった。
「急ぐ事はありません、明日はゆっくりと柳河の御城下に入りましょう」




