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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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出島


出島


「中武殿に、折り入ってお願いが御座います」弁千代を自室に招いて弥平が唐突に言った。

「何でしょう、改まって。私に出来る事なら何なりと仰ってください」

「私と一緒に出島に行って頂きたいのです」

「それは構いませんが、私のような者が入れるのでしょうか?」

「入れます。但し、非合法的にでは御座いますが」

「非合法的?」

「はい、通常の手続きを経ずに入るのです」

「それは分かりますが何の為に?」

「ある剣士と戦って頂きたいのです」

「それは穏やかではありませんね。何か事情がおありならちゃんと説明していただけませんか?」

「それでは単刀直入に申し上げます。カピタンの護衛長と試合をして頂きたい」

「何と!」

「出島の地下倉庫に、秘密の闘技場があるのです。そこで月に一度、和人、唐人、阿蘭陀人の武術家を戦わせます」

「何故!」

「各国の大商人や有力者が集まって、日頃の無聊を慰める為の賭けをするのです」

「賭け?」

「勝った選手には、金百両が渡されます」

「百両!」

「だが、問題はそんなはした金ではないのです。観客の商人たちの間では、何千両、いや何万両という金が動くのです」

「・・・」弁千代は絶句した。

「もし、唐人や阿蘭陀人に負ける事があれば、日本にとっては大きな損害です。彼らはその金を即刻本国に送ります。下手な密輸をやるより安全で確実な方法なのです」

「しかしこの日本にも強い武術家はたくさんいるはずです」

「残念ながらこの長崎にはまともな武士はおりません。皆、金で商人に操られる腰抜けばかりです。中武様は、南蛮人の道場破りの噂を聞いた事がありませんか?」

「それは道中幾たびか聞き及びましたが・・・」

「それがカピタンの護衛長ヨハネスなのです。彼は黒い仮面で顔を隠して夜な夜な剣術の道場に乗り込み、師と言わず弟子と言わず、立ち向かう者全てを完膚なきまでに叩きのめすのです」

「なぜそのような事を?」

「実戦の勘を鈍らせない為の”とれ〜にんぐ”なのだそうです」

「とれ〜にんぐ?」

「鍛練ですな」

「私にそのヨハネスと戦えと?」

「はい、唐人の代表は、先日愛一郎殿が倒した陳だったのです。その陳を倒した者の師である中武殿ならば相手にとって不足は無いと、ヨハネスが申しております」

「断れば?」

「ヨハネスは愛一郎殿に白羽の矢を立てましょうな」

「ううむ・・・」弁千代は逡巡した、愛一郎をそのような危険な場所に立たせる訳にはいかない。

「私とて、金の話ばかりしている訳ではありません。日本の武術の名誉の為に言っているのです」

「日本武術の名誉?」

「今年に入って闇試合は、既に六度行われていますがまだ日本人の勝者はおりません。ヨハネスなどは公然と日本武術を馬鹿にしております」

自分が出場しなければ愛一郎が危ない、しかし、自分に日本武術の名誉を守ることなど出来るだろうか。弁千代は再び逡巡した。

「異国の剣術と戦う機会など、この先そうそうありますまい。中武殿にとって、千載一遇の好機と捉えられては如何ですかな?」

確かにこの機会を逃したら、二度と出会う事はあるまい。そうなれば一生後悔する事は目に見えている。

「分かりました、お引き受け致しましょう」

「おお、引き受けて下さいますか!」弥平は安堵の笑みを浮かべた。

「但し、他言無用に願います。特に愛一郎殿と鈴さんには知られたく無い」

「勿論です、お約束致します」

「して、日時は?」

「明後日、子の刻」

「心得ました」



翌日、弁千代が所用で出かけた後、鈴が愛一郎の部屋を訪ねて来た。

「ねえ、若。ベンさんの様子がおかしいと思わない?」

「先生の?」

「昨日から妙に口数が少ないし、何を訊いても上の空で、とんちんかんな返事しか返って来ないのよ」

「ああ、そう言えば。剣術の話を振っても『昨日の料理は美味かったな・・・』とか言って、てんで乗ってこられませんでした」

「弥平さんの部屋に呼ばれてからよ。きっと何かあったんだわ」

「鈴さん、心当たりはありませんか?」

「そうねぇ、強いて言えば、出島の事くらいかな?」

「出島?」

「明日の夜、カピタン(商館長)に呼ばれて出島に行くって、帰りが遅くなっても心配するなってベンさんが言ってた」

「出島で何かあるのですか?」

「さあ、知らない。でも弥平さんと一緒だとしたら・・・」

「商売の話か宴会か?」

「何でベンさんが商売に絡むのよ」鈴は、唐人屋敷の乱れた宴会を思い出した。「きっと女郎の居る宴会に誘われたのよ!」

「まさか先生がそんなことする筈が無い!」

「そんな事わからない、男はみんな狼なのよ!」鈴は無性に腹が立って来た。弁千代を疑っている訳では無い。しかし、そう考えると弁千代の態度の説明がつくのである。

「では、確かめてみますか?」

「どうやって?」

「出島に潜入するのです」

「だから、どうやって?」

「出島に出入り自由なのは遊女だけです」

「あ、遊女に化けて潜入するのね?」

「そうです」

「若はどうするの?」

「それは・・・」

「あっ、若も女に化ければいいのよ!」

「嫌です!」愛一郎はきっぱり断った。

「若は、ベンさんが心配じゃ無いの?」

「そりゃあ心配ですけど・・・」

「それとも、女なんかには化けられないって言う事!」

「い、いえ、そんな事は言っていません・・・」

「結局、若も女を馬鹿にしているのね!」鈴は両手で顔を覆った。

「そうじゃありません!」

つい、強く否定してしまった。ここで愛一郎は、鈴の策略にまんまと引っ掛かった事になる。

「じゃあ、良いじゃありませんか!」

「え・・・」

「若、絶対似合うわよ、撫で肩だし!」鈴はさっきの怒りもすっかり忘れてしまったように言った。

「じゃ、じゃあ、女装するとして衣装や髪はどうするのですか?」

「春菊さんに相談するのよ、幸い、まだ月代を剃っていないから髪は付け髪で誤魔化せるわ!」

「ああ・・・」

「じゃあ善は急げ、今から春菊さんの所に行来ましょう!」

「わ、私も?」

「当然でしょ!」



「わあ、可愛い。これなら絶対に男と見破られないわよ!」

丸山東見番の二階で、出来上がった愛一郎の艶姿を見て春菊が驚嘆の声を上げた。

鈴に相談を受けて、春菊は一も二もなく乗って来た。出島には何度も行った事はあるけれどこんな冒険をした事はない。

「か、揶揄わないで下さい!」

「いえ、本当の話よ!」

「私、何だか複雑な気分・・・」

「鈴さんも綺麗だわ。今すぐにでも太夫になれる!」

「そお!」鈴も満更ではなさそうだ。

「お次は源氏名を決めなくちゃね」

「若は愛一郎さんだから、『愛若』でどう?」鈴が言った。

「わ、私はなんでも・・・」

「良いと思うわ。鈴さんは弁千代さんの千代をとって『鈴千代』が良いんじゃ無い?」

「あら、それ素敵、気に入った!」

「じゃあ決まりね、私も一緒に行くから・・・良いでしょ?」

「もちろん!」



「丸山東見番の春菊、それに鈴千代に愛若です」

春菊が顔見知りの門番に名前を告げると、門番は怪訝そうな顔で訊いた。

「そっちの二人は初めて見る顔だが?」

鈴は三味線、愛一郎は刀を仕込んだ琴袋を抱いている。

「新入りなの、どうぞよろしくお願い致します」春菊が門番にそっと袖の下を渡す。

「うむ、宜しい。通れ!」

「有難うございます」三人が、急ぐ事無く堂々と門を潜って行くのを、門番がずっと見ていた。


その夜、出島はいつもと全く違った姿を見せていた。

暮六つ時、日本人の使用人が帰った後一旦門が閉められ、その後再び開いた時には乙名も門番も

別人になっていた。

赤い提灯を提げた四つ手駕籠が次々に到着すると、門番は一々手形を検めた。

赤い提灯が何かの符丁らしい。

門番の許しが出ると、駕籠の客たちは橋を渡って門の中へと吸い込まれて行った。


春菊たち三人は、出島の南側(扇の長辺)にある出島海岸に建つ土蔵の二階に潜んでいた。

外は茹だる様な暑さだったが、土蔵の中は適度に湿度が保たれており涼しく感じられる。

「カピタン部屋はあの建物の中にあるの」明り取りの窓から見える白い洋館を指差して春菊が言った。「あの西洋箱庭のある”てら〜す”という所で、遊女を侍らせ酒を呑むのよ」

「じゃあ、ここを見張っていたらベンさんが来るのね」

「我々の推測が当たっていたらね」

「春菊さん鈴さん、もうこの衣装脱いでも良いですか?」愛一郎が訊く。

「まだ駄目よ。何事も無ければそのままここを出て行くんだから」

「ちぇっ、窮屈だなぁ」

「文句言わないの!」


弁千代は弥平と共にカピタンの従者に伴われて、カピタン部屋の前に立った。

従者がドアをノックする。

「ドウゾ!」中から声がした。

従者がドアを開けると、前に紅毛碧眼の西洋人が立っていた。

「今宵はお招きいただき有難うございます。日本側の代表をお連れしました」弥平が言った。

「ヨウコソ、イラッシャイマシタ」カピタンは流暢な日本語で答える。

「中武弁千代です」弁千代が頭を下げる。

「ワタシハ、ヤン・ドンケル・クルティウス。ヤン、トヨンデクダサイ」

ヤンは弁千代に右手を差し出した。

弁千代がヤンの手を握るとヤンは強く握り返してきた。反射的に全身の力を抜くとヤンは慌てて手を引っ込める。何か得体の知れない恐怖を感じたようだった。

「サ、サア、オクニハイッテクダサイ。ジカンガクルマデ、テラ〜スデクツロギマショウ」ヤンは戸惑いを隠す様に二人をテラスに誘った。

「今夜こそヨハネスに勝たせて貰いますよ」テラスに向かいながら弥平がヤンに言った。

「ソレハタノシミデス、セイゼイヨイシアイヲキタイシテイマスヨ」ヤンは顔に余裕の表情を浮かべた。



どれくらい経っただろう?ずいぶん長い時間が過ぎた様な気がした。

外はもう十分に暗い。先ほどカピタンの部屋にランプの明かりが灯された。

「まだですかねぇ、なんだか眠くなってきました」愛一郎が呟いた。

「なんだか様子が変よ?」窓から外を見ていた鈴がこちらを振り向いた。「さっきからあそこの小屋に人がどんどん入って行くの」

「荷物の点検でもしているんじゃない?」春菊が窓に寄りながら言った。

「皆、着飾った女の人を連れているわ。商人や役人が多いみたい、唐人や阿蘭陀人もいる」

「あ、ホントだ!あんなに沢山ぞろぞろと。あの小屋には入りきれないんじゃないの?」

鈴が小屋から目を移し、白い洋館を見た。

「あら、カピタン部屋に人が来たわ。あっ、ベンさんだ!」



弁千代は、勧められるままにテラスの椅子に座った。

「オサケ、ノミマスカ?」

「いえ、結構です」

「ファイトガ、ワキマスヨ!」

「酒の力を借りるのは、公平ではありません」

「ニホンジン、タタカイノマエ、オトナシイネ。ダカラカテナイノヨ」

「日本では、冷静な態度こそ尊ばれます」

ヤンは掌を上に向けて肩を竦めた。

「デハ、ワレワレハ、ワインヲイタダクコトニシマショウ」

ヤンが黒人の使用人にワインを二つ持ってくるように命じた。

「ヨハネスハ、スデニトウギジョウニハイッテイマス」

「前座試合を観て闘志を掻き立てているのですな」弥平が言った。

「カンキャクモ、イマゴロハコウフンノルツボデスヨ」

「人の命が賭かっていますからな」

「カレラハ、タイガイノアソビニハアキテイルノデス。モウ、コロシアイヲミルコトデシカマンゾクデキマセン」

「そうしたのは何方でしょうな?」

「ワハハハハハ、ワタシダケデハアリマセンヨ、アナタモドウザイデス」

「うむむむむ・・・」




「あら、ベンさん出て来たわよ!」

「カピタンと弥平さんも一緒だわ、一体どこに行くのかしら?」

西洋箱庭の裏門から、カピタンを先頭に弥平、弁千代が続いて出て来た。弁千代の表情が暗い。

「何かあったようね」

「あの小屋の方に向かっているわ」

「私達も行きましょう!」

「あのぉ、もう、この衣装脱いでも良いですか?」愛一郎が再び訊いた。

「そうね、なんだか危ない雰囲気だから・・・良いわよ、脱いで!」

「助かった!」




小屋の入り口には棒を持った日本人の見張りが二人立っていた。怪しい者が入らないように見張っているのだろう。

弁千代は、ヤンについて階段を降りて行った。弥平が後ろからついて来る。

階段の下から興奮した人間の獣のような咆哮と罵声が聞こえて来た。

「セミファイナルガハジマッタヨウデス」ヤンが振り返って笑った。

階下に着いてまず目に入ったのは円形の闘技場だった。その周りを客席が擂鉢すりばち状に囲んでいる。無数の西洋ランプが灯され、闘技場は昼間のような明るさだった。

その中央で日本の剣客と西洋の剣士が対峙している。

剣客は刀を正眼に構えて動かない。剣士は右手一本に細い剣を持ち、小刻みに移動している。

前後に跳ねていた剣士が、信じられないような距離を跳躍して突きを放った。

剣客はやっとの思いでその突きを防いだが腰が引けている。

剣士がさらに踏み込んで来る。

剣客は反射的に後ろに下がった。

「下がっては駄目だ!」思わず弁千代が叫んだ。が、怒号と歓声で声が届く筈も無い。

次の瞬間剣士の剣が剣客の胸を貫いていた。




「待て、何者だ!」見張りに誰何すいかされた。

「あら、怪しいもんじゃありませんよ、春風楼の春菊です」春菊は慣れた調子で挨拶をした。

「何をしている!」

「ちょっと風にあたりにお散歩に・・・」

「そっちは?」

「鈴千代という新入りです、どうぞお見知りおきを」

「もう一人は男じゃないか・・・おや、化粧をしているな、女形か?」

愛一郎は化粧を落とす暇が無かったので、仕方なく女物の小袖に袴だけをつけて来たのである。

「そ、そうなんです。最近はその手の趣味の伴天連が多くて・・・」

「ここはその方等でも入れる訳にはいかん、特別な場所なのだ!」

「何をやっているんです?」

「その方等の知った事じゃない、帰れ帰れ!」もう一人の見張りがそう言って二人を押し戻した。

「無駄なようです、奥の手を使いましょう」愛一郎が囁いた。

「そうね、仕方ないわね」鈴と春菊が左右に開いて場所を空けた。そこに愛一郎がスッと割り込む。阿吽の呼吸だ。

「御免!」抜打ちに、右の見張りの二の腕を浅く斬った。

「わっ!」驚いて後退さったところを、刀の峰を返して頸動脈を打つ。

「こいつ!」慌ててもう一人が後ろから突いて来た棒を、小脇に挟み込んで思い切り振り回す。

「あわわわわわわ・・・」よろめいて倒れたところを、奪った棒で鳩尾を突いた。

「む〜ん・・・」

一瞬の早業だった。

「お見事!」鈴が手を叩いて喜んでいる。

「さ、行くわよ!」

「ちょ、ちょっと待ってください私が先に!」愛一郎が止める間もなく、春菊が小屋の戸を開けて中に足を踏み入れた。



日本の剣客が担架で運び出される所だった。西洋の剣士が手を上げて闘技場を回っている。沢山のおひねりや薔薇の花が闘技場に投げ込まれ、黒人と東洋人の使用人がそれを拾い集めていた。ヤンと弥平はいつの間にか消えていた。

担架が目の前を通る時、剣客が弁千代を見た。「た、頼む・・・」

あの剣客は助からない。彼は何を弁千代に託したのか・・・

闘技場に新しい砂が撒かれ、血の跡を覆い隠すと一人の西洋人が現れた。

「レディース、アンド、ジェントルメン、ツギハ、イヨイヨメインエベントデス!サア、セイダイニ、マネーヲカケテクダサイ!」

使用人が客席を巡って、賭け金を書いた札を集めている。

弁千代は、通路で呆然とその様子を見詰めていた。



「誰も居ないわよ・・・」春菊が呟いた。

「そこに階段があります」遅れて入って来た愛一郎が言った。「皆、そこから下へ降りて行ったのでしょう」

「私たちも行きましょうよ」鈴が言った時、階下から大歓声が上がった。

「一体何があってるの?」

「とにかく降りてみましょう」



「・・・タケベンチヨ!」

大歓声が沸き起こった。弁千代がハッと我に帰ると、既に全身黒ずくめの剣士が闘技場に立ってこちらを睨んでいた。腰に赤いスカーフを巻いている。弁千代は知らないが、後世のアメリカンヒーロー『快傑ゾロ』を彷彿とさせる出で立ちである。

弁千代はわざとゆっくり刀の下げ緒を解き襷に掛けた。

履物を脱ぎ帯から鞘ごと刀を抜き取り右手に下げる。

闘技場の入り口で礼をして、左足から闘技場に降り立つ。まるで道場に入るときのように・・・

三人が暗い階段を降りると、目の眩むような光が溢れていた。

「あっ!先生!」

「ベンさん!」




弁千代は十分に間合いを取って、右手に刀を下げたままカピタンの護衛長ヨハネスに礼をした。

ヨハネスは明らかに苛立っていた。

「ニホンジン、ヨワイネ!」サッと剣を抜き弁千代に切先を向けて構える。

弁千代は左手で刀を抜いた。

ヨハネスは怪訝な顔をした、今までの相手は皆右手で抜いていた筈だ。

弁千代は右手の鞘を返して、こじりをヨハネスに向けた。

そしてゆっくりと、左手の刀を大上段に振り被った。




「なに、あの構え!」鈴が言った。

「逆二刀の構え。剣術においても変則的な構えです」

「あれで勝てるの?」

「分かりません。しかし、右手の鞘は突きに対する備えと見ました」

「あっ、毛唐が動く!」



遠間から継足で一気に間合いを詰めて、ヨハネスが突いて来た。

弁千代が右手の鞘で出鼻を押さえると、最短距離で剣を返して首を狙って斬って来る。

弁千代は、右手の鞘を垂直に立て、そのまま前に踏み込んでヨハネスと交錯するが、斬撃の機会を見出す事は出来ない。互いに間合いを切る。

しばらく睨み合った後、今度は弁千代が動いた。鞘で下からヨハネスの剣を擦り上げ、左手の刀で胴を狙う。

パッ!と赤い色が散った。が、それはヨハネスの腰のスカーフが斬れただけだった。

逆襲の斬突が凄まじい勢いで弁千代を襲う。小袖も袴もささらの様に斬り刻まれた。

額の傷から血が流れて目が霞む。そろそろ俺の命運も尽きるな。そう思った時、目の端に見覚えのある顔が飛び込んで来た。鈴さん、春菊さん、愛一郎殿、ん、なんだ、愛一郎殿は女武道のような格好をしているぞ。

フッと笑みが漏れた。

弁千代は諦めたように両手を下ろすと、ダラリと躰の前に垂らした。




「どうしたのベンさん、諦めちゃったの!」鈴が悲痛な声で叫んだ。

「そうではありません。きっと先生は最後の賭けに出たのです」

「最後の賭け?」

「そう、次の一撃に全てを賭ける」

「失敗したら?」

「死」

「嫌ぁぁぁ!」




ヨハネスはほくそ笑んだ。どう見ても自分の方が優勢である。

敵は血まみれになって、ボロ雑巾のように佇んでいる。

十分に間合いを詰めて、背中まで貫くような突きを出せば良い。

ヨハネスは左足に力を込めた、これが最後の踏込みだ!


弁千代は、ヨハネスの左足が居着いたのを見逃さなかった。

その瞬間全身の力を抜いて浮身を掛けた。躰が重力に従って落ちて行く。

右手の鞘を腕ごと跳ね上げ、左手の刀を前に突き出した。



鈴は、両手で顔を覆って目を閉じた。とても見ていられなかった。

一瞬場内が水を打ったように静かになる。

次の瞬間、割れんばかりの拍手と怒号が闘技場を包んだ。

「鈴さん、終わりましたよ」愛一郎が優しく言った。

「どうなった?」

「勝ちました、先生の勝ちです!」

鈴はそっと目を開いた。

弁千代の刀が、ヨハネスの躰を深々と刺し貫いていた。

ヨハネスの剣は、弁千代の頭上で虚空を突いた形で止まっている。

弁千代の左膝は、地面に着くまで落ちていた。



進行役の西洋人が、闘技場に飛び込んで来た。

「オメデト、コレ、ショウキンノヒャクリョウネ!」

切餅が四つ、合わせて百両の小判を弁千代の手に握らせる。弁千代は虚ろな目でそれを見た。

進行役が、弁千代の右手を高く掲げようとしたが、弁千代が強くそれを拒んだ。

担架に乗せられたヨハネスの躰が、目の前を通り過ぎて行く。

弁千代は担架に歩み寄り、ヨハネスの胸の上に百両を置いた。

担架を担いでいた使用人が、怪訝な顔で弁千代を見た。

弁千代は黙って頷き、闘技場を出て行った。








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