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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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唐人屋敷


唐人屋敷


翌日、弁千代は弥平に誘われて長崎見物に出て行った。二日酔いで頭がガンガンしていたのだが、世話になっている手前断れなかったのである。

愛一郎は鈴の護衛に付いて行くと言って断った。唐人屋敷が見て見たかったからだ。

弥平が添え状を書いてくれたが、それでも入れるのはニノ門までという事だった。

鈴が準備を整えて待っていると駕籠が迎えに来た。唐人屋敷へは駕籠で行く。

途中、長崎芸妓衆、丸山遊女連と合流し行列を組んで唐人屋敷に向かう。今日は昨日と違って二十人の大所帯である。愛一郎は護衛らしく徒歩で駕籠に付いて行った。

出島町の東、中島川につながる堀割を超えて東南に行くと、新地町、本籠町にかけて繁華な街並みが続く。その中の狭い坂道を右に上がると唐人屋敷のある館内だ。

波止場に面した広馬場屋と呼ばれる広場の奥に、最初の門『大門』がある。

門を入ると乙名(おとな・唐人屋敷の管理者)と番人の詰所があった。その奥がニノ門なのだが入れるのはここまでだ。愛一郎は詰所で鈴の帰りを待つ事にした。

「若、ここで待っててね、暮れ六つまでには戻って来るから」駕籠を降りた鈴と芸妓衆と丸山遊女連は、徒歩でニノ門を潜って唐人屋敷の中へと入って行った。


ニノ門を潜って鈴の見たものは、三千四百坪余りの広大な敷地の筈なのだが、二階建ての建物に遮られて殆ど見通しは効かなかった。

そのうちの一つの建物に案内され、中に入ると一階は船乗りたちの雑居部屋だった。

船乗りたちは皆好色な目を鈴達に向けた。

二階に上がると、広い板張りの間で既に宴会が始まっている。唐人たちはあらゆる理由をつけて、毎日のように宴会を行っているらしい。

彼らの服装は皆良く似ていた、筒状の長い袴の上に唐服を羽織り、辮髪の上に竹で編んだ三角の帽子を被り、髭を生やしている。鈴には皆同じ顔に見えた。

足の長い卓を囲んで椅子に座り、見た事のない料理を食べている。後で春菊に聞くとあれが卓袱しっぽく料理だと教えてくれた。

丸山の遊女達が到着すると、皆歓声を上げて出迎えた。遊女達も心得たもので早速それぞれの卓に散らばる。酔った唐人達は、さっそく遊女と戯れた。

長崎芸妓衆の鳴り物や踊りが始まっても誰も見向きもしない。皆遊女の尻を追っかけ回すのに夢中だ。唐人屋敷という限られた空間に閉じ込められた唐人達の、せめてもの息抜きなのであろう。

たまに遊女と間違えて、芸妓衆にちょっかいを出す唐人がいたが、春菊に一喝されすごすごと席に戻って行った。

ここまで乱れきった宴会を、鈴は見た事が無かった。

「こりゃ酷いわねぇ!」春菊に言うと、「これが現実よ、よく見ておくのね」と、返された。

「せめて、日本の芸事で中和しなくちゃ目も当てられないわ!」と、春菊は言っていたけれど、これでは焼け石に水であろう。

漸く暮れ六つの鐘が鳴り、長崎芸妓衆は建物から出てニノ門に向かう。その様子を、建物の陰からジッと見ている人影があった。



「若、お待たせしました!」ニノ門から出てきた鈴が言った。

「鈴さん、いかがでした、唐人の宴会は?」

「胸糞が悪くて反吐がでるわ!」つい語気が荒くなる。「でも、卓袱料理は美味しそうだったけどね」

待たせていた五挺の駕籠に乗り、芸妓衆は大門を出て細い坂道を下って行った。

鈴が一番最後の駕籠に乗ったので、愛一郎は自然とその横に付く。先棒を担ぐ駕籠かきは、既に提灯に火を入れていた。



陳は、青龍刀を背中に括り付け練塀の上に立った。坂の上から提灯に火を灯した駕籠が降りて来るのが見えた。

最初の駕籠が目の前に来た時、陳は練塀の平瓦を蹴った。



「ギャー!」駕籠の先頭から断末魔の悲鳴が聞こえた。駕籠の動きがピタリと止まる。

後棒の人足が叫び声を上げて走り戻ると、駕籠かきは一斉に駕籠を捨てて逃げ出した。

芸妓たちは投げ出された駕籠から転げ落ちて呻いている。

「鈴さん、ここを動かないで下さい!」愛一郎は刀の鯉口を切りながら先頭の駕籠に向かって全力で駆け出した。


「あんた、王さん所の陳だね!」先頭の駕籠に乗っていた春菊が、気丈に男の前に立ち塞がって睨みつけた。

陳は青龍刀を構え直した。

「春菊さん危ない!」愛一郎は抜刀しながら春菊の前に出る。途端に青龍刀が唸りを上げて振り下ろされた。

抜刀の勢いそのままに青龍刀を跳ね上げた。右手が痺れる、よく刀が折れなかったものだ。

陳が腰を落として青龍刀を頭上に構えた。切っ先は正確に愛一郎を捉えている。

『どうする愛一郎!』愛一郎は自分に問うた。初めての真剣勝負が異国の剣術とは・・・

地の利を生かせ!頭の中で声がした。狭い坂道の高所、足場は悪い。

愛一郎は刀を鞘に納めた。陳が一瞬怯んだ。愛一郎の意図が読めないのだ。

次の瞬間、意を決したように青龍刀が陳の頭上で回転した。左足を強く踏み切り右足から袈裟懸けに斬り込んで来る。

愛一郎は斜めに落ちて来る青龍刀と擦れ違うように前に出る、と同時に左半身を開いて鞘を送った。陳の首が胴斬りの位置にあった。

血飛沫が上がった。ドゥ!と倒れた陳の躰は、釣り上げられた鰹のように狭い坂道の上でピクピクと痙攣した。


「若、大丈夫ですか!」鈴が駆け寄る。

「見ての通りです」

「もう駄目かと思った」

「何故です?」

「だって、刀を鞘に納めちゃったでしょう?」

「ああ、あれですか」愛一郎は少し笑った。「清国には居合が無いからです」

唐人には、刀を鞘に納めたまま相手と戦うという発想が無い。

「それに、左足を踏み切ってから右足が出て来るまでに間があった」

「どういう事?」

「こちらは、左右の足を同時に入れ替えるから動作が一つ少なくて済みます」

「ふ〜ん、良く分からないけど凄いのね!」

「鈴さん、頼りになる護衛ね」春菊が後ろから声を掛けて来た。

「若には何かお礼をしなくっちゃ!」

「それなら、私が美味しい卓袱料理の店を教えてあげる」

「わぁ、本当!食べたかったのよ、私!」

「でも、その前にここの始末をつけなくちゃね」

春菊は坂道を大門の方に戻って中に消えた。



調べは、日清の関係者を呼んで夜を徹して行われた。

清国側の王鵬が全ての非を認め、愛一郎にはお咎めなしの沙汰が下された。

死んだ駕籠かきには、それ相応の見舞金が支払われた筈だが、弥平の尽力が大きかった事は言うまでも無い。


「御無事で何よりでした」部屋に愛一郎を迎えて弁千代が言った。

「いえ、只々必死でした」

「居合を使われたとか?」

「足場が悪うございました、あまり動き回るのは得策ではないと感じましたので」

「それが功を奏したのでしょう」

「唐人は居合を知りません」

「あのような発想は、他のどの国にもないと思います。鞘の内が勝負だとは誰も思いますまい。ただ、それを実現させる体捌きが、常識を追っているだけでは発見できない所に難しさがありますが」

「今度の戦いで、そのことを嫌という程知らされました」

「うむ、しかし、お咎めがなくて本当に良かった」

「当然よねぇ、一方的な陳の逆恨みだもの!」鈴が言った。

「そうでしょうか?」

「なぁに、ベンさん。陳の肩を持つの?」

「そうではありません。唐人達は、皆同じように命を賭して海を渡って日本に来ます。しかし、その後の境遇には天地の隔たりがある」

「その不満が爆発したのでしょうか?」愛一郎が尋ねた。

「それも要因の一つである事は間違いない」

「そうね、唐人屋敷で見た船主と船員の待遇の違いには、正直驚いたもの」

「この世から欲が消えぬ限り、この状況は変わらぬでしょう」

その時、廊下に足音が聞こえた。

「あの」奥向きの女中の声だ。「春菊さんがお見えです」

「あっ、忘れてた!美味しい卓袱料理の店を教えて貰う約束だったの。ね、難しい話は後にして皆で行きませんか?若にお礼もしなくっちゃ!」

「それは賛成ですね、気分転換には丁度良いでしょう」

「春菊さんに、すぐに行くと伝えてください」鈴が女中に声をかけた。

「はい、畏まりました」

廊下を足音が遠ざかって行く。

「さ、支度をして玄関前に集合よ」

「了解!」



「今博多町の編笠橋付近よ」鈴に場所を尋ねられて春菊が答えた。「諏訪神社の近く」

「博多町?」

「そ、昔博多の商人が移り住んで開いた町。そこの遊女高尾と音羽が、神前に『小舞』を奉納したのが『長崎くんち』の始まりと伝えられているの」

「へ〜知らなかった」

「そこの大将も博多から移ってきたのよ」

「なんていう店?」

「らいじん」


眼鏡橋を諏訪神社方面に暫く行くと石橋が見えてきた。

「あれが編笠橋、店はあの橋を渡った所」

「あ、見えた!あの大きな白い提灯に、鰻がのたくったような字が書いてあるわ、あれ、ら・い・じ・んって読むんじゃない?」

「そうですね、確かにそう読める」

「私は鰻と泥鰌が大嫌いなんです!」愛一郎が顔を顰めた。


「こんにちわ、大将いる?」縄暖簾を潜って店に入ると、春菊が奥に向かって声を掛けた。

「うお〜い!」野太く良く響く声がして巨漢が現れた。「しゅんぎく、久し振りだなぁ!なんだ昼間っから」

「は・る・ぎ・く、一体いつになったら覚えてくれるのよ!私、夜はお座敷だから昼間しか来れないの」

「そうか、そうだったな。お、珍しいな、今日は連れがいるのか?」

「何よ、いつも一人みたいに言わないで。今日はこの三人が、美味しい卓袱料理が食べたいっていうから連れて来たんじゃない」

「俺のは我流だよ、それで良ければそこの円卓に座ってくれ」

「良いわよ、私、まだ大将のより美味しい卓袱食べたことないもの」

「お、嬉しいこと言うじゃないか。腕によりをかけて作らなくちゃな」

「お願いね!」


朱の円卓に乗り切れないほどの皿が並ぶ。海の幸、山の幸は勿論、獣肉、お菓子、果物など、およそ食べ物と呼べるものは全て揃っているのではないかと思われる程の量だ。見た事のあるものもあれば、初めて見る珍しいものもある。


「皿は一人二枚、箸は直箸で自由に大皿の料理を取ってくれ」

身分制度の厳しい、他の地域では考えられない事である。

「俺は、堅っ苦しい事が大嫌いなんだ。ここの風土は俺に合ってるよ」


「では、頂きます!」

皆、初めて食べる料理に声も無い、珍しい料理を次々と頬張っていった。

「お・い・し・い〜!」鈴が至福の表情で溜息をつく。

「本当に旨い!うちの旅館でも出せないものか?」愛一郎が真剣な顔で言った。

「これは西洋の料理ではないかな?確かパ〜イと言ったと思うが・・・」

「良かった、喜んで貰えて」春菊が嬉しそうに言った。「大将、こっち来て料理の説明してよ!」

「うお〜い!」再び野太い声がして大将が現れた。「なんだ、しゅんぎく、呼んだか?」

「は・る・ぎ・く」

「いいじゃないか、呼びやすいんだから。ところで何の用だ?」

「大将、美味い料理に先ほどから感心しているのですが、そもそも卓袱とはどういう料理なのですか?」弁千代が訊いた。

「わからん!」

「えっ!」

「ちょっと大将、真面目に答えてよ。私の大切なお客様なんだから!」

「だから、わからんと言っている」

「なんだ、知らないの!」

「そうじゃない。『わ』は『和』つまり和食の事だ。しかして『か』は『華』中華料理だな、そして『らん』は・・・」

「はい!」鈴が手を挙げた。「阿蘭陀の『蘭』ね!」

「ご名答、人呼んで『わからん料理』」

「つまり、和洋中の折衷料理という事ですか?」

「そうですな、しかし長崎はそれだけじゃない。当地発祥で各地の名物料理になっているものが沢山あるんだよ」

「例えば?」

「ちょっと座っていいかな?立ったままだと疲れるんだ」

「これは・・気が回らず失礼しました、どうぞこちらに!」弁千代と愛一郎が間を空けて椅子を置く。

「折角なら美人の間が良かったんだが・・・ま、いっか・・・思いつく所では、博多の水だき、すき焼き、フグ料理。珍しい所ではコーヒーやハム、煙草もそうだ」

「コーヒーまでは許せるけど、煙草は食べ物じゃないじゃない!」春菊が突っ込んだ。

「あ、そうか、長崎自慢が過ぎたかな!」ワハハハハと大将は豪快に笑った。

「所で大将、この料理の作り方、教えてもらうわけには参りませんか?」愛一郎が阿蘭陀系の料理を指差して言った。

「駄目だ!」大将が愛一郎を見据えた。「な〜んてこた言わねえよ。あとで作り方を書いてやるから持って帰るといい」

「有難うございます!」

「お〜い、酒だ酒だ、酒持ってこ〜い!」大将が奥に向かって声を張り上げると、は〜い、という返事が聞こえた。

「俺の嫁だ・・・今日は気分が良い。時間の許す限りゆっくり呑んで行ってくれ」

その夜三人は、春菊が帰ってからも店の終わるまで卓袱料理を楽しんだ。


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