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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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長崎


長崎


三人は老婆に手を振って蛍茶屋を後にした。

「この辺りは蛍の名所です、初夏には蛍が乱舞するのだと婆様が言っていました」

「蛍の季節にまた来たいものだ」

「きっと綺麗でしょうねぇ」鈴がうっとりと目を閉じた。

「鈴さんあぶない!」

「きゃっ!」

鈴は、一の瀬橋の湾曲した石畳に足を取られて転びそうになった。

「ちゃんと目を開けててくださいね、ここで転けたら大怪我しますよ」愛一郎が言った。

「べ〜だ、いいですよ。そうなったらベンさんにおぶって行ってもらうから」

「さて、どうしたものか・・・」

「意地悪!」

長崎が近いという高揚感からか、つい口が軽くなる三人であった。


新中川町、新大工町を通り過ぎて暫く行くと諏訪神社の青銅の大鳥居が見えて来た。

「お諏訪さんは長崎の総鎮守だ、敬意を評してお参りして行こう」

弁千代が提案して諏訪神社に詣でる事になった。

神社の正面に来るとなだらかな階段になっており、鳥居がいくつも並んだ先に本殿が見えた。

「ベンさん、参道の敷石に丸い形をした石があったら絶対に踏んで行ってね!」

「何故です?」

「いいから!私は六角形の石を探すわ」

「はあ・・・」

鈴は目を皿のようにして探したが、結局見つからないまま本殿の前に来てしまった。

「ありませんでしたねぇ」

「う〜ん、どうしたのかしら?」

「何故探さねばならなかったのですか?」

「あのね、男が丸い石、女が六角形の石を踏んで本殿前の陰陽石の上でお参りをすると、縁結びの願い事が叶うんだって」

「あはははは、迷信ですよ。どこでそんな情報を仕入れたのですか?」

「最初の鳥居の脇に書いてあったのよ」

「神様に頼らなくても、鈴さんと先生はお似合いですよ」愛一郎が慰めるように言った。

「あら、嬉しいことを言ってくれるわねぇ。今夜は美味しいものをいっぱい奢ってあげるからね」

「ほんとですか?楽しみにしていますよ!」


諏訪神社を出て坂道を下って行くと長崎の港が見えて来た。

「わぁ、黒船がいっぱい!」鈴が歓声を上げた。「でも、おかしいわね、どれも煙なんか吐いていないじゃない?」

「黒船がみんな蒸気船だという訳ではありません。ペリーが浦賀に率いて来た黒船の内、蒸気船は四隻だけです。後は皆帆船ですよ」

「じゃあ、あれも帆船なんだ、つまんない!」

「蒸気船と言っても、ずっとそれで航海する訳ではありません。蒸気を使うのは湾内だけ、基本は帆走です」

「そうなんだ・・・じゃあ、あの色付きの船は?」

「あれは唐船です、貿易の質量ともに黒船などよりずっと多い」

「長崎には唐人がたくさん住んでいると聞いた事があるわ」

「親父殿に聞いたことがあります」愛一郎が口を開いた。「長崎の大商人の多くは倭寇の流れを汲む者達で、昔はマニラ、アンナン、シャムなどに日本人町を作り交易をしたそうです」

「船を持つ者ならではの事だな」

「唐人や阿蘭陀人商人とて例外ではありません。彼らは皆、武装的海寇の性格を持っていたようです」

「それでは、随分と手荒な出来事もあったのだろうな?」

「台湾をめぐっての阿蘭陀との抗争は有名です。アンナン王族の王女を妻として日本に連れて来たり、シャム王の娘婿になったりした者もいたようです」

「今の長崎は、そのような歴史の流れの上に成り立っているのだな」

「私の先祖も水軍です、そのような話を聞くとワクワクします」

「若も何処かから姫を攫ってくるの?」

「わ、私はそんな事はしません!」

「あ、赤くなった。冗談ですよぅ!」

「鈴さんも人が悪いなぁ!」

中島川沿いに下って行くと眼鏡橋が見えてきた。

「寛永十一年、唐から来日した僧黙子如定によって架けられた日本最古の石橋です」

「驚いた、若は博学なのね!」

「親父殿に『これからは長崎が日本を変える』と教えられたものですから」

「その通りだな、街の様子が今までのどの町とも全く違う、自由な雰囲気が溢れている」

「日蘭和親条約によって、阿蘭陀人の出島からの出入りが自由になって益々その傾向が強まったようです」

「それに比べて唐人は少ないようだが?」

「唐人はまだ唐人屋敷に閉じ込められています。しかし、それも長くは続かないでしょう」

「そうか、やはり日本は変わるのか・・・」弁千代は複雑な表情になった。「武術も変わって行くのだな」

「良いではないですか、諸行無常です。先生は先生の剣を極めて下さい、私もそう致します」

「背負うた子に教えられるとはこの事か」

「それよりベンさん、もう直ぐ出島に着くわ。今夜の宿を探さなくっちゃ」

「そうだな」

「私に考えがあります」愛一郎が言った。「『長崎に行く事があれば、小曽根弥平の邸に行け』と親父殿に言われた事があります。駄目元で行ってみませんか?」

「しかし私達まで・・・」

「長崎の大商人にとっては一人も三人も同じ事ですよ」

「では、そう致そうか。駄目なら旅籠を探せば良い」

「若、よろしくお願いします」鈴がしおらしく頭を下げた。

「唐船に乗ったつもりで任せて下さい!」

「あら、ベンさんより洒落が利いてるわ!」

「・・・」


小曽根弥平の邸は、長崎六町の一つ島原町(後の万才町)にあった。周囲を練塀で囲まれた私邸は、弁千代が見たどの商人のものより広大である。

「これはこれは、伊兵衛殿のご子息か!」訪いを告げると、直ぐに出て来た弥平は気さくな調子でそう言った。「懐かしいなぁ、親父殿は息災か?」

「はい、お蔭をもちまして息災にございます。この度はこのように突然・・・」

「そのような堅苦しい挨拶は長崎の気風に合いません」弥平が愛一郎の言葉を遮った。「どうぞ気楽になさって下さい」

「はい、有難うございます。それからこちらのお二人は・・・」

またもや弥平が手を上げる。「みなまで申されるな、中武弁千代殿と鈴殿ですな?」

「え、なぜそれを?」

「長崎街道で起こった事は、すべて町年寄の私の耳に届きます。宿場宿場でのご活躍はとうに承知しておりますよ」

「は、お恥ずかしい限りです」弁千代が頭を下げた。

「何をおっしゃいます、あなた様ほどの剣の達人をお泊め出来るとは、これに勝る名誉は有りません、どうぞごゆっくりご逗留ください」

自分程度の者が剣の達人として認識されている。弁千代は複雑な思いだった。

「そちらの鈴殿は三味線の上手とか、この長崎にも芸達者は大勢ございます、心行くまで腕を磨いて行かれるが宜しかろう」

「有難うございます、そうさせてもらいますよぅ」

「そうだ、今夜清国の客商を招いて小宴を催します。芸妓衆も呼びますので是非その宴にご出席為されては如何です?」

「芸妓衆とは、丸山の遊女連とは違うのですか?」弁千代が聞いた。

「はい、芸妓衆は芸が売り物です、三弦をはじめ唄や踊り、客を飽きさせぬ接待ぶりで勝負します、特に三弦のお師匠さんなどは大坂(阪)で磨きをかけた一流のお師匠さんですよ」

「わぁ、それは是非聞いて見たいですぅ!」

「では皆さん御出席ください、席を用意させますので」

「我々が同席してもよろしいのでしょうか?」

「勿論です、いつも代わり映えのせぬ顔ぶれでは先方も飽きてしまいましょう」

「では、お言葉に甘えて」

「それでは、お部屋をご用意致しますのでしばらくお待ち下さい」

そう言い置いて弥平は席を立った。

「まさか、こんなにすんなり受け入れて貰えるとは思ってもいませんでした」

「伊兵衛殿のご人徳です」

「昔の稼業が役に立ったのでしょう」

「矢上の脇本陣といい此処といい、一生のうちにこんな立派なところに二度も泊まれるなんて夢のようですよぅ」

「愛一郎殿のお蔭です」

「い、いえ、そんな・・・」

「あの」奥向きの女中らしき女性が出て来た。「お部屋は二つで宜しかったでしょうか?」

「いえ、三つでお願い致します」弁千代が即答した。

「あら、ベンさん早いわね、失礼しちゃうわ!」

「では、ご案内いたします」女中が先に立って歩き出す。「どうぞこちらへ」

三人は女中について奥に向かった。


清国の大商人、王鵬を主座に迎えて弥平が挨拶した。

「今宵は日頃の感謝を込めて、ささやかながら宴を催しました。皆様心行くまで芸妓衆の歌と踊りを楽しんで下さい。また、本日は珍しいお客様をお迎えしております。剣の達人中武弁千代殿と私の古い知り合いで村上水軍の末裔、河野伊兵衛殿の御子息愛一郎殿です」

「ほう、剣の達人あるか・・・」王は胡乱うろんな表情で弁千代を見た。

「村上水軍とは昔大いに競い合った仲ある、昨日の敵は今日の友、よろしくお願いするあるね」

王は愛一郎に向けて笑顔を作った。「そちらの女性は?」

「弁千代殿の許嫁・・・ですかな」伊兵衛が弁千代を見た。

「い、いえ、それは・・・」

「それは羨ましいね、こんな美人そうそう居ないあるよ」

「まあ、お上手です事」鈴が澄まして答える。

王と一緒に来た医者と画家が鈴を値踏みするように見ていた。



陳は、下僕の控えの間で悶々としていた。彼は拳法の達人で青龍刀の使い手である。

今日は王一行の護衛として付いて来たのであった。

清国では、武人の地位は低い。唐人屋敷でも、商人や医者、画家などが一人で何部屋も使っているのに対し、彼は水夫や使用人と一緒に大部屋に押し込められていた。

『日本の武人は優遇されているのに』そう思っている。

日頃彼等は、遊女たちとの接触も禁じられている。触れる事は勿論言葉を交わす事も出来ない。

『国に帰ったら、いつでも遊女屋に駆けこめるのに』そういう不満も抱えていた。

先ほど、この部屋の前を通って行った女達は、皆美しく着飾っていた。そういう女達を見る度に陳の不満は昂まって行った。



立ち方が三人、金屏風の前に座り手をついて頭を下げた。奥に地方が二人、太鼓と三味線の鳴り物を持って控えている。

地方が三味線を弾くと太鼓がそれに合わせ拍子を取る。語りが始まると三人の立ち方が優雅に舞い始めた。

鈴や愛一郎にとっては見慣れた風景であったろうが、弁千代にとっては初めて見る芸妓の姿だった。

「あのお師匠さん上手い、聞いていた通りね!」鈴が真剣に聞き惚れている。

最初の舞台が終わると芸妓達は座へ散らばり客達に酌をする。

鈴が三味線のお師匠さんの所へ行って何か話し込んでいた。

座が徐々に打ち解けて行く。二度目の舞台は客を交えてのソーラン節踊り。

鈴が三味線を持ってお師匠さんの横に座った。「踊りに飛び入りがあるなら鳴り物にもあっていいじゃない」鈴はお師匠さんの後を追うように三味線を弾く。

弥平も王鵬も手を叩いて喜んでいる。清国人の客達は、芸妓の振りを真似て一所懸命に艪を漕ぐ動作を繰り返した。

「そちらのお武家様も一緒に踊って下さいな」艶っぽい年増の芸妓が弁千代に声を掛けた。

春菊はるぎく、そちらのお武家は剣の達人だそうだがどうにも堅物のようだ。少し花柳界のしきたりを教えてさし上げろ」弥平が言った。

「い、いえ、私は・・・」弁千代は慌てた。

「お武家様、いつも張り詰めてばかりいては三味線の糸も切れましょう。時には緩める事も大事ですよ」

「そうよベンさん、相手に合わせるのが武術だって、いつも言ってるじゃない」済ました顔で鈴が言う。

「先生、踊りましょう、多勢に無勢このままじゃ分が悪いです」

「お、おう、そうだな・・・」意を決して、ようやく弁千代が立ち上がる。

「そうでなくちゃ嘘ですよ」春菊は弁千代を金屏風の前へと誘った。

「だんだんお囃子が早くなりますよ、みなさん頑張って艪を漕いで下さい」

愛一郎も混じって、皆で一斉に艪を漕ぐ。酒が全身に巡った。


踊りの後は『拳令』と言う遊びをした。酒を注いだ盃の上で、向き合った二人が数字を言いながら拳を出す。相手の出した指の数を当てた方が勝ちで負けた方は盃の酒を飲み干すのだ。

三回続けて勝つと、今度は皆からの祝杯を受けなければならない。ひたすら酒を飲むための遊びだった。

途中、酔った清国人医師が、芸妓の胸に手を入れようとしてピシャッ!と手を叩かれる場面があった。

「芸を売るのが芸妓の仕事、媚びを売るのは遊女の仕事、稼業違いでございます」と、春菊が啖呵を切った。

「儂はお前のそんなところが気に入っているのだ」と弥平が言って皆を笑わせた。

王鵬と弁千代は、『拳令』で一進一退の攻防を繰り広げ、勝負がついた時には二人共したたかに酔っていた。

「私は武人嫌いある、だけどあなたは別ね。また一緒に呑みたいあるね」

「そ、それはかたじけのう御座る・・ヒック・・こ、こちらこそ、よろしくで御座る・・・」

普段は使わぬ侍言葉が出た。


「ちょっと厠へ・・・」小声で言って鈴はそっと座敷を出た。

広い邸である。鈴は方向を見失って玄関の方へ出てしまった。玄関脇の小部屋の障子が薄く開いており、行灯の光が漏れ出ていた。

「中の人に聞いてみよ」鈴は小部屋の前に立った。「すみません、厠はどこでしょうか?」

返事は無い、鈴はそっと障子を開ける「すみませ・・・」

鈴は驚いた、中に居たのは辮髪の唐人だったからである。男は燃えるような目で鈴を睨んだ。

鈴は慌てて障子を閉め、小走りに座敷へ戻った。尿意はすっかり消えていた。


「明日、唐人屋敷でお座敷があるの。良かったらついて来ない?唐人屋敷なんて滅多に見られるものじゃ無いわよ」清国人達が駕籠で引き上げた後、春菊が鈴に言った。「お師匠さんがあなたの手筋を褒めてたわ」

「わあ、嬉しい!私も、もう一度お師匠さんと弾きたかったの」

「じゃあ、昼前に迎えに来るわ、私達の出番は暮れ六つまで、その後は丸山遊女を残して退散よ」

「分かった」

「その前に衣装を届けさせるから、準備を整えて待っててね」

「はい、じゃあ明日」

芸妓衆は徒歩で帰って行った、長崎は不夜城なのである。


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