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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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腹切り坂





腹切り坂



日見の宿に着いた時には、もうすっかり明るくなっていた。ここからは天領となる。

最後の足拵えをして、峠の入り口に向かう。

途中の道祖神で峠越えの無事を祈る。まっすぐな道の正面になだらかな坂道が見え始めた。

「まだ、日見峠に入ってはいないわよね?」だらだらと続く坂を登りながら鈴が訊いた。

「もう直ぐです、きっとあれが登り口ですよ」弁千代の指差す先をみると道の脇に木の道標が立っている。

「何これ、いきなり凄い石段じゃない!」

道標に近付くと、なだらかな坂道の途中に右の斜面に登る石段があった。

”ここから日見峠”と書いてある。「さあ、これからが本番です。気を引き締めて行きましょう!」

「その方が良さそうね・・・」

二人は狭い石段を登り始めた。「本当にここを像が通ったのかしら?」鈴が訊いた。

「オランダの使節が、八代将軍吉宗公に献上する為にここを通ったのだそうです。この日見峠が整備される前は長崎から江戸へは船で向かうしか無かったのですから」

「象にとっては船の方が良かったんじゃない?」

「あはははは、そうかも知れませんね」

石段が途切れても急峻な坂道は続く。狭い道の両側には鬱蒼とした森が迫っていた。

「女一人じゃとても怖くて歩けないわ」

「昼なお暗い、とはこの事ですね」

「ベンさんが一緒で良かった」

「踵で地面の出っ張りを踏むように歩いて下さい。そうすれば楽に登れます」

「あら、ほんとだ!」

「なるべく体力を消耗しないように、躰を捻らないようにすると良いですよ」

「は〜い」

次第に呼吸が苦しくなって来て、自然と口数も減る。黙々と坂道を登った。

途中景色が開けて橘湾が遠くに見える場所に出た。

「鈴さん、ここで弁当を使いましょう」

「ああ、良かった。これ以上歩くと死んじゃうわ!」

「そんな冗談が言えるうちは大丈夫ですよ」

「冗談じゃないわよ、ここ箱根より厳しいかも!」

脇本陣で作ってもらった弁当を食べて水を飲むと、やっと人心地がついた。鳥のさえずりも聞こえて来る。

「小鳥が鳴いてる」鈴が言った。

「ずっと鳴いてましたよ」

「え、気付かなかった」

「歩く事に夢中で、余裕が無かったのですね」

「そのようね。でももう大丈夫、だいぶ慣れて来たから」

「では、そろそろ行きましょうか?」

「了解!」

弁当を食べて元気を取り戻した鈴は、快調に坂道を登った。

なだらかな登りに差し掛かる頃、長い石垣が見えた。

「ベンさん、あんな所に石垣が見えるわ、一体誰が何の為に作ったんでしょう?」

「さあ、私にも分かりません」

「ひょっとして、あの辺りが腹切坂?」

「そうですね、甚右衛門さんに聞いた話ではそろそろの筈です」

鈴が立ち止まって耳を澄ませる。

「ベンさんおかしいわ、さっきまで聴こえていた鳥の声がしない」

「気がつきましたか?」

「何、どうしたの?」

「あの石垣の上に人が隠れています」

「え、また?ベンさんに試合を挑もうと言う侍かしら?」

「それは分かりません。鈴さん、少し遅れてついて来てください」

「分かったわ」

弁千代は石垣の前まで行って立ち止まった。「何か御用でしょうか?」

言い終らぬうちに黒い影が石垣の上から落ちて来た。ブン!と重い風切り音が鳴った。

弁千代は素早く飛び退がる。

「中武弁千代だな、父の仇、覚悟せよ!」影は棒を地面に立て、仁王立ちになった。

子供だった。手に持った四尺棒より少しだけ頭が高い。

「吾作さんのご子息か?」

「如何にも、吾作の嫡子、椿小天狗!」

「ほう、立派な名前だ」

「おらの先祖は平家の侍だ、名があってどこが悪い!」

「いや、悪くは無い。だが、待ち伏せは卑怯では無いか?」

「そ、それは・・・」

「そこもとの父は、立派だった。私とは正々堂々の勝負であった」

「だが、負けた」

「私に運があっただけだ」

「問答無用、勝負せよ!」

「あい分かった」

「ベンさん、その子と太刀合うの?」

「今、承知した」

「だって、子供じゃ・・・」

「子供子供って煩いなぁ、口を出すなよブス!」

「まっ、失礼ね!せっかく助けてあげようと思ったのに!」

「要らぬお世話だい!」

「ベンさん、手加減しなくていいわよ。しっかりとお灸を据えてあげてね!」

弁千代は苦笑した。「だが、真剣の勝負は断る。子供を斬ったのでは後生が悪いからな」

弁千代は石垣とは反対側の竹林に分け入り、刀の鯉口を切った。

「とっ!」鞘走った刀が二条の光を描いて鞘に納まった。

切断された細身の竹が地に転がる。

「手頃だな」三尺程の竹の棒を手に取って弁千代が呟いた。

小天狗は、目を丸くして固まっている。

「さあ、武士に二言は無い。勝負しようではないか?」

「お、おう!」

気を取り直した小天狗は、深い入身の姿勢を取って躰の前に真っ直ぐ棒を立てた。

「吾作さんとは違った構えだ」

「当たり前だ、これは、おらが編み出した構えだ!」

「そうか、では参る!」

右手に竹の棒をぶら下げたまま、弁千代が歩くように小天狗に迫り、無造作に正面から振り下ろした。

カン!と音がして小天狗の棒が弁千代の打ち込みを弾き返す。同時に、棒の先端が弁千代の顔面に向かって飛んだ。

頭を下げて弁千代が小天狗の脛を打つ。

棒の反対側でそれを受けた小天狗は、棒を返して弁千代の右頸を袈裟懸けに打った。

「勝った!」そう思った瞬間、竹の棒が鳩尾にめり込んだ。

刀で言えば、柄頭が小天狗の鳩尾に食い込み、棒は刀身の部分で留められていた。

小天狗は胃液を吐いて気を失った。

「ベンさん、酷い!」

「手加減は出来ぬ、この子にはそれだけの才がある」弁千代は小天狗を抱いて柔らかい草の上に寝かせた。

「う、う・・・」

「気がついたかね?」

「おら、負けたのか?」

「そこもとの親父殿を破った技だ」

「おめの姿が消えた」

「動作が一つ、そこもとより少ない」

「動作が少ない?どう言う事だっぺ?」

「それを見つければ、そこもとは私に勝てる」

「ベンさん、教えてあげれば」

「口で言ってわかるものでは無い」

「おら、必ずそれを探す!」

「それを見つけたら柳河に来い。私はきっとそこに居る」

「柳河だな?」

「そうだ」

「おら、必ず柳河に行く!」

「待ってるぞ・・・」


どうしても長崎村に入るまで露払いをすると言って聞かなかったので、弁千代は鈴と小天狗を先に歩かせ、自分は殿しんがりを行く事にした。

弁千代は小天狗の背中を眺めながら、四国の湯築城址で出会った水軍の末裔、河野愛一郎を思い出していた。年は愛一郎の方が上だが気の強いところが似ている。

「さっきはブスとか言って悪がっだな。心ぺえすっな、おめはべっぴんじゃ」鈴と肩を並べながら小天狗が言った。

「ありがと。心配しなくても良いわよ、わかってるから」

「ちえっ、しょってらぁ!」

「私は鈴。小天狗さん、本名は?」

「・・・」

「あら、無いの?」

「た、田吾作・・・」小天狗の声が小さくなった。

「たごさくぅ!」鈴は思わず吹き出してしまった。小天狗が恨めしそうに鈴を睨む。

「あ、ごめんなさい!つい・・・」

「いいだ・・・カッコ悪いから、おら、自分で名を考えただよ」

「椿小天狗、カッコ良いわ」

「だろ!」

「これからは、どこでもそう名乗りなさい」

「鈴さん、親が付けてくれた名は大事にすべきでは無いですか?」思わず弁千代が口を挟む。

鈴はゆっくりと振り返った。

「ベンさん古い、名前なんて親が勝手に付けたものだもの。気に入らなきゃ変えちゃえばいいのよ!現に私だって・・・」

「え、変えちゃったんですか?」

「い、いえ、なんでも無いわ。それよりまだ着かないの?」鈴は強引に話題を変えた。

「この坂道を降ったら、じき長崎村との境界だっぺ」

「いよいよ長崎か」

「楽しみだわぁ」

小天狗が急に立ち止まった。

「じゃ、おらここで・・・」

「なんだ、蛍茶屋まで行くんじゃなかったのか?」

「そうよ、お団子食べて帰れば?茶店ならきっとあるわよ、お団子」

「いや、別れが辛くなるべ・・・それに、おら早く帰ぇって稽古がしたいんだ!」

「そうか、無理にとは言わぬ・・・気をつけて帰れ」

「また何処かで会えると良いわね」

「おら、必ず柳河さ行くだ。待ってるだぞ!」

「うむ、心得た!」

「じゃあ、元気でね」

「さよなら!」

小天狗、否、田吾作は向きを変えて、今来た道を走り出した。何故だか、背中が泣いているように見えた。


峠の東側は急峻な登り坂だったが、こちら側はダラダラとした降り坂が続く。

左側に貯水池が見えて来た。

「長崎の人達は、昔から飲み水には苦労していました。今はここから水樋を引いて水を確保しているそうです」

「まあ大変だったのね」

「長崎の大商人が自力で完成させた水路です。逆を申せばそれだけ南蛮貿易で街が潤っていたという事でしょう」

「儲かっても人々の為にお金を使っていたのね」

「どこかの誰かに聞かせてやりたい話です」

「だんだんと世の中が世知辛くなって行くわ」

「あと百年もすればどうなっているのでしょうね?」

「いいわよ、その頃には生きていないから」

「ああ、違いない・・・」



鬱蒼とした樹木の間に茶店が見えて来た。川のせせらぎも聴こえる。

「ここで休んで行きましょう、もう急ぐ事はありません」

「そうしましょう。あっ、暖簾にお団子って書いてある、やっぱりあったのね!」

「鈴さんは甘いものには目が無いですよね」

「女はみんなそうじゃない?」

「長崎の近か〜!」

「う〜ん、もう一息ってとこかな?」

「厳しかぁ!」

「あははは、もうちょっと頑張ってね」


蛍茶屋の先に一ノ瀬橋が見える。長崎で二番目に古い石橋だ。長崎から江戸へ旅立つ人は、ここで見送りの人達と別れを惜しみ、訪れる者は此処から長崎に入る。

「先生!」蛍茶屋から人が飛び出して来た。見ると、総髪を頭の後ろに撫で付け、浅葱色の小袖に野袴をつけた若者が立っていた。「お待ちしておりました!」

「あ、愛一郎殿!」弁千代は驚愕の目を愛一郎に向けた。

「若!」

「先生も鈴さんも、お元気そうで何よりです!」

「そ、それより、何故此処に?」

「隼人の國の東郷様より書状が届きました」

「何と!」

「先生が火の国へ旅立たれたと書いてあり、私は矢も盾もたまらず親父殿に願って道中手形を貰って頂きました」

「伊兵衛殿は息災か?」

「はい、おかげを持ちまして何のお咎めも無く」

「当たり前だ、迷惑をかけたのはこちらの方なのだから」

「私は直ぐに、船で豊後国に渡り、山を越えて肥後国へ赴きました」

「しかし、何故此処が分かったのだ?」

「霊巌寺での戦いは、彼の国で知らぬ者はおりません」

「霊巌寺に行ったのか?」

「はい、胤栄様が、弁千代殿は柳河の加藤伊織様を訪ねて行かれた、と教えて下さったのです」

「そうか、胤栄様が・・・それから加藤様のお屋敷へ行ったのだな?」

「はい、先生が長崎へ行くと言い置いて行かれたので、こうやって先回りをして待っておりました」

「船か?」

「佐賀の本庄津から船が出ると言うので、夜を徹して歩きなんとか乗る事が出来ました」

「して、船はどこへ着いた?」

「雲仙の神代です。そこから矢上へ行き、日見の峠を越え此処で待っておりました」

「此処に宿はあるまい」

「茶屋の婆様に頼み込んで、三日ほど泊めてもらいました。宿代はたんまりと取られましたが」

「そうか、それは難儀な事であったな」

「いえ、どうしてももう一度先生にお会いしたかったものですから」

「なんのために?」

「先生がご仕官なされるまでの間、私に剣を教えて頂きたいのです」

「そなたはもう、一人でも大丈夫だと申し上げた筈だが」

「そこを曲げて・・・私にはまだ自信がありません。どうぞ、同道することをお許しください」

愛一郎は深々と頭を下げた。

「自信とは、自分を信じる事だ。しかし、秋までの間なら・・・私と旅をすることで何か得るものがあれば良いのだが」

「有り難い、どうぞよろしくお願い致します!」

「若、良かったわね」

「はい、鈴さんもよろしくお願いします・・・お邪魔かもしれませんが」

「何ませたこと言ってるのよ。ま、ちょっと邪魔だけどね」

「すみません!」

「何いつまでも立ち話してるんだい!」店の中から老婆が顔を出した。「待ち人が来たんなら早く入って貰いな、峠越えでお疲れだろうに」

「お婆ちゃん、お団子ある?」鈴が勢い込んで訊いた。

「当たり前だに、暖簾に書いてあるだろ。ここは長崎の砂糖をたっぷり使っているからねぇ、ほっぺたが落ちるよ」

「わぁ、ベンさん早く入ろ!」

「そうですね、疲れた躰には甘い物が一番ですからね」

鈴は、いそいそと店に入って行く。弁千代と愛一郎は顔を見合わせて笑ってから、ゆっくりと後を追った。


「甘〜い、美味し〜い!」

「良かったら私のもあげましょうか?」

「えっ、いいのベンさん?」

「構いません」

「若は食べないの?」

「私は毎日婆様に団子を食わされておりましたから・・・もう、胸焼けがしそうです」

「そぅお、私なら毎日でも全然大丈夫だけどなぁ」

「お二人はゆっくりと団子を召し上がっていてください。その間に私は荷物をまとめて参ります」

そう言って愛一郎は奥へ入って行った。


「なんだか若、大人になったみたい」

「短い道中とは言え、一人でここまで来るには大変な苦労をしたに違いないのです。その苦労が愛一郎殿を大人にしたのでしょう」

「ほんと、可愛い子には旅をさせろ、ね」

鈴が弁千代の分の団子も食べ終わって茶を啜っていると、愛一郎が奥から戻って来た。

「お待たせしました」

ぶっ先羽織に道中袋を背負った愛一郎は、腰に一本の刀を帯びていた。

「愛一郎殿、その刀は?」

「これは道中護身用の長脇差です。定寸には少し足りませんが、このくらいなら関所の役人も煩くは言うまい、と父が持たせてくれたのです」

「そうですか、良くお似合いです」

「ありがとうございます」

「本当に見違えちゃったわ!」

「そう言ってもらえると嬉しいです」愛一郎は素直に喜んだ。

「さあ、それでは出発いたしましょう」

「はい!」


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