矢上宿
矢上宿
「鈴さん、明日は矢上泊まりにしましょう」
「なぜ?日見の宿まで行かないの?」
「日見は長崎が近い所為か宿泊客はほとんどいないそうです。その為旅籠も少ない。賑やかな矢上宿で日見峠超えの準備を整えるのが得策です」
「矢上から日見は近いの?」
「一里程でしょうか」
「そう、じゃあ良いわ。日見峠は西の箱根と言われるくらいの難所じゃない。あまり疲れてから登りたくないもの」
「実は北方陣屋の桂殿に紹介状を書いて頂いているのです」
「何処へ?」
「矢上は佐賀藩諫早領、脇本陣に泊めていただけるのだそうです」
「脇本陣といえばめちゃめちゃ格式の高い宿でしょう?」
「時には本陣の代わりをする為、同等の格式を備えています」
「わあ、凄いじゃない!」
「その代わり番所の道場で稽古をする事が条件です」
「いいじゃない。それくらいやってあげれば」
「あまり気は進みませんが」
「どうして?」
「斎藤歓之助先生と話したからでしょうか?」
「あまり考え過ぎちゃダメよ。ベンさんはベンさんの道を行けば良いんだから」
「そうですね・・・考えれば考えるほど分からなくなります」
「下手な考え休むに似たり、よ。気にしない気にしない」
「鈴さんは良いなぁ、前向きで」
「見習いなさい」
「はい・・・」
翌日明け六つに大村を出立した弁千代と鈴は、荷駄の往来で埃っぽくなった長崎街道をのんびりと西に下った。
「賑やかになって来たわね、矢上はそんなに大きな宿場なの?」米俵を山積みにした荷馬車を見送って鈴が訊いた。
「矢上には番所役人がおり、旅籠や店もたくさんあります。鍛冶屋や造り酒屋まであるそうですよ」
「へえ、一稼ぎ出来るかしら?」
「やめてください、もし脇本陣に泊まれたら我々は大名の家来と同じなのですよ」
「なんだ、堅苦しいのね、つまんない」
「ははは、その代わり話の種にはなりますよ。みんなに自慢できる」
「誰に自慢するのよ?」
「ああ、それもそうですね」
「いつか、子や孫に自慢出来たらいいのだけれど・・・」
「さ、先の事はわかりません。と、とにかく急ぎましょう」
「あらいやだ、急に急ぎ足になってどうしたの?」
「わ、草鞋を余分に買っておかなくちゃ・・・」
「え〜草鞋は逃げないわよぅ」
矢上の宿に入ると、道の両側に旅籠がずらりと並んでおり、駕籠かきもあちこちに屯ろしていた。通行人も多く近隣の村々の中心地らしい活気を呈している。
その道の正面に武家屋敷と見紛うような立派な門が見えて来た。道はその建物に突き当たって左右に折れている。
「鈴さん、あれが脇本陣です」弁千代が指差して言った。
「まあ、立派な門構え。旅館じゃないみたい!」
「普通の旅館には門は作れません、あれは町の有力者の私邸を改築したものです」
「ふ〜ん、なんだか気後れしちゃうわね」
「大丈夫ですよ、いつものように堂々としていて下さい」
「あら、失礼しちゃうわ。それじゃいつも私が図々しいみたいじゃない・・・」
「寺沢甚右衛門です」恰幅の良い商人風の男が挨拶をした。「桂様より書状が届いております。近々剣の達人がそちらに向かうので、必ずお泊めするようにと」
「中武弁千代です、剣の達人などとは滅相もない。ただの武者修行にございます」
「ご謙遜を。微神堂での太刀合いの噂もすでに届いております。全く、斎藤先生もお人の悪い」
「いえ、私が無理を申したのです」
「ははははは、大人の事情というやつですな。して、そちらのお方は?」
「こちらは連れの鈴さん。三味線の師匠です」
「それはそれは、失礼ながら宜しければ今夜一曲お聴かせ願えませんでしょうか?私は端唄には目が無いのです」
「お安い御用ですよぅ、腕によりをかけてお聞かせいたしますわ」
「それは有難い。ところで、鈴殿は甘いものはお好きですか?」
「鈴殿だなんて、よして下さいよぅ、鈴で結構。甘いものは大好きです」
「では鈴さんと呼ばせて頂きましょう。今ちょうど八つ時、長崎名物の”かすてぃら”をご用意致しますので、召し上がってみて下さい」
「わぁ!噂には聞いていたけど、食べるのは初めてだわぁ!」
「す、鈴さん!もっとお淑やかに・・・」
「いえ、そんな気使いはご無用です、どうぞ気楽になさって下さい」
「あ〜良かった。ベンさん、気楽にしていいって!」
「鈴さん・・・」
「わははははは・・・」甚右衛門は鈴の言葉に大いに笑った。
一階の奥の間では落ち着かないだろうと、甚右衛門が二階の八畳と十二畳の部屋を用意してくれた。弁千代と鈴には、ここでも広すぎるくらいだ。
部屋に落ち着いて、格子窓から見下ろすと、通りに旅人の姿は少なかった。もう、皆旅籠に入ったのだろう。
「さっきの”かすてぃら”、甘くて美味しかったわぁ!」
「長崎の近か〜!」
「え、何、急にどうしたの?あ、そうか、砂糖は交易品なんだっけ?」
「確かに砂糖は交易品ですが、そういう意味で言ったのではありません」
「じゃあ、どういう意味ですよ?」
「この辺では、甘さの足りない食べ物が出たら『長崎の遠か〜!』って言うらしいのです」
「あらベンさん、滅多に冗談なんか言わないから分からなかったわ」
「酷いなぁ!」
「これからは、そういう軽口も大切よ。私を相手に稽古すれば良いわ」
「そうします」
「でも、今のは頂けないわ。面白く無かったら笑わないから覚悟してね」
「う〜む・・・」
「が・ん・ば・って」
今日はもう遅いので、番所の道場での太刀合いは明日の朝からと決まった。
人数が多いため昼食を挟んで午後も太刀合う。藩士の他、腕に覚えのある農民や町民も参加自由である。
甚右衛門に誘われ一階の主屋棟に行くと、縁側のある八畳間に通された。縁側から望む中庭には錦鯉の泳ぐ池も見える。
「此処だけの話なのですが、腕の立つ者は百姓の中に多く御座います」甚右衛門は弁千代に酒を勧めながら言った。
「それはどうしてなのでしょう?」
「この辺の農民は皆、平家の末裔なのです」
「平家の落人伝説は、各地で聞きますが?」
「真偽の程はわかりません。が、その誇りが彼らを支えているのでしょう」
「武士だけが剣の才に恵まれている訳ではありませんからね」
「そう言った意味では、昨今の剣術の流行は良い傾向なのかも知れません」
「互いに研鑽しあう事は大切です」
「ご存知かも知れませんが長崎街道の最後の難所、日見峠超えの途中に”腹切り坂”なるものがあります」
「それは初耳です、また物騒な名前の坂ですね」
「いつの頃かは定かではありませんが、さる大名の家来が農民と武術の試合をして負け、面目を失って切腹した事が名前の由来となったのだそうです」
「武術は武士の象徴だったのでしょう」
「今でもその武士の亡霊が出ると言う事です、お気を付けなされ」甚右衛門が意味深に笑った。
「ははは、まさか昼間っから出るような事は無いでしょう」
「人の恨みはそれだけ深いという事ですな、ただの噂です、お忘れ下さい」
「大村に向かう途中の峠にもいたのよねぇ」鈴が口を挟んだ。
「何がいたのですか?」
「亡霊」
「亡霊?」甚右衛門が鸚鵡返しに訊いた。
「あの必死の形相はまるで亡霊のようだった」鈴が眉を顰めてあらましを語った。「真剣の太刀合いなんて、見ているだけでゾッとする」
「そんなことがあったのですか・・・」
「鈴さん、いずれそのような世の中も終わるかも知れませんよ」
「だといいけど・・・ちょっと湿っぽくなりましたね、では陽気な端唄を一つ」鈴が三味線を手に取った。
「そうですな、酒も温め直させましょう・・・」甚右衛門がパンパンと軽やかに手を叩いた。
翌朝は、非番の藩士から太刀合いが始まった。勤番の藩士も交代で来た為、三、四十人が集まり大賑わいとなる。
藩士達の強っての願いで一人二度づつ太刀合ったのだが、甚右衛門の言った通り藩士達の中には目ぼしい人材はいない。
昼は急いで弁当を腹に掻っ込み午後の太刀合いに臨んだ。午後は百姓町人が多かった。
百姓の中には、日頃の仕事で培った力自慢の者も多く、村相撲の横綱も居た。まともに体当たりすれば力負けする場面もしばしばであり、そんな時には、弁千代は柔術の技で難を凌いだ。
吾作という農民がいた。始め竹刀で太刀合っていたのだが、得意は棒術だと言うので、棒で太刀合う事になった。
「儂は樫の四尺棒で戦いますだ、あなた様も木刀をお使いなされ」吾作は傲然と言い放った。
「防具はどうします?」
「そんなもんつけてだら、棒は操れね」
木刀と棒では打たれれば骨は砕け、打ち所が悪ければ命を落とす事もあろう。
「儂はそれでも構わね、あなた様はどうだね?」
「もとより、覚悟は出来ています」
道場に集まった人たちは息を飲んだ。まさかここで真剣勝負が行われる事になろうとは、夢にも思っていなかったであろう。
しかし、誰も止める者はいない。皆、勝負の行方が知りたいのである。役人達も無言で頷く、試合中の事故ならば誰も文句は言わない。
「いぐ!」
「応!」
吾作は棒を中段に構え、先端をまっすぐ弁千代の目に向ける。
弁千代は右八相の構えを取った。歩み足で吾作の裏、向かって右方向に移動を開始した。
吾作はその場で向きを変えるだけで動かない。
弁千代は一気に間合いを詰める事にした。
「やっ!」弁千代が棒の間合いに入った時、吾作は短い矢声を発して棒を突き出した。
弁千代の剣は、棒を受ける事なく吾作の首に飛んで来た。
「チッ!」吾作の方が剣を受けなければならなかった。その分一瞬躰が居着く。
弁千代の躰が沈み、ガラ空きになった吾作の鳩尾に木刀の柄頭がめり込んだ。
「うう〜ん・・・」吾作は崩れ落ちた。鳩尾を抑えて蹲り、歯を食いしばって痛みに耐えている。
「う、うううう・・・」
弁千代は剣を納め、倒れた吾作に向かって礼をした。「ありがとうございました」
吾作は仲間の農民に担がれて、道場を出て行った。
その後も午後の太刀合いは続いたが、今の勝負を目撃した者は皆腰が引けている。
竹刀打ち込み稽古では、まず見る事の出来ない太刀合いだったからだろう。
夜、脇本陣には、本日太刀合った藩士達が集まって賑やかな酒盛りになった。
「中武殿、本日は藩士達に稽古をつけて頂き誠に有難うござる」年嵩の役人が挨拶した。「如何でしたかな、我が番所の剣の技量は?」
藩士の技量は正直言って可も無く不可も無くであった。それに比べて農民の技量は高い。
「なかなかのものでありました」弁千代は嘘を言った、ここで藩士たちを怒らせても意味は無い。
「うむ、そうであろうそうであろう」役人は満足そうな顔をした。「今日は腹切り坂の遺恨も晴らしてもろうたし、なんと礼を言ったものかな」
吾作との太刀合いのことを言っているのだろう。
「吾作の技は大したものでした、本日は運良く勝ちを得ましたが次はどうなるか分かりません」
「何?ふん、そんなものかのぅ」
役人が不服そうな顔をしたので甚右衛門が慌てて口を挟んだ。
「本日は、不肖、寺沢甚右衛門の奢りです。皆様楽しく剣術談義に華を咲かせようではありませんか」
「耳障りでありましょうが、私の拙い三味線も聴いてください」鈴が甚右衛門の後押しをした。
「ほう、そなたの三味線をのぅ」鈴の言葉に、すっかり機嫌を直した役人が言った。「本日は無礼講である、皆の者、心置き無く楽しもうぞ!」
「もうベンさんたら、ちょっとは大人になりなさいよ!」藩士達が帰った後、鈴が言った。
「だいぶ薄くなったとは言え、まだまだ武士達の身分意識は強うございます。兵農分離以前は同じ百姓だった筈なのですが」
「面目次第もありません。甚右衛門殿にご迷惑をおかけする所でございました」
「なんの、ご心配には及びません。それよりも、吾作の技を褒めていただき有難うございます、私も嬉しい」
「本当のことを言ったまでです」
「吾作に叶う武士は、この矢上には居りますまい」
「よくぞあそこまで修行したものです」
「夢想神伝流杖術、宮本武蔵と戦った夢想権之助が太宰府の竃神社で神夢を観て創始した杖術です」
「初めて太刀合いましたが、良い経験が出来ました」
甚右衛門は弁千代と鈴を交互に見た。「明日は、もうお発ちかな?できればもう二、三日ご逗留頂き百姓達に稽古をつけてもらいたいのですが」
「ありがたい御言葉ですが、早く長崎を見て見たいのです」
「そうですか、無理にとは申しません、では出立の時刻をお教え下さい」
「明け六つには発ちとうございます」
「では弁当と草鞋を用意させておきましょう。折あらば又必ずお立ち寄り下さい」
「はい、先の事はわかりませんが、生きていれば必ず」
「ご武運をお祈り致します」
「甚右衛門様もお元気で」
弁千代と鈴は、畳に手をついて深く頭を下げた。




