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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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大村


大村


五日間の逗留の間、弁千代はいくつかの道場に招かれ稽古をした。

その度に宴会になるのは閉口したが、弁千代の知らないまつりごとの世界や、世間の実情などを聞くのは楽しかった。この時点では、世の中はまだ平穏に思えた。

鈴の体調もすっかり良くなり、また歩いて旅が出来るようになったので、明け六つに嬉野を出立する。道場で知り合った佐賀藩士や町人の弟子などが多数見送ってくれた。

弁千代は、帰りに必ず寄る事を約して別れた。


「今日は大村で宿を探しましょう」回復したとは言え、鈴の脚では八里行ければ良い方である。

「ベンさん、私なら大丈夫よ先を急ぎましょう」

「桂さんの話では、この先に峠があります。難所とまでは言いませんが無理はしない方が良い」

「でも五日も無駄にしたのですよ、路銀が減ったのではありませんか?」

「なに、嬉野の三つの道場から餞別という名目で教授料を頂きました。辞退したのですが是非にと押し付けられて・・・」

「まあ、ベンさんの剣術がお金になったのね。どう、初めて自分で稼いだ感想は?」

「複雑です、剣術でお金を貰うなんて・・・」

「なに言ってんですか!剣術家だって食べて行かなくちゃならないでしょう?これからはそんな甘い考えは捨てた方が良いですよ!」

「やはり私は甘いですか・・・」弁千代は項垂れてしまった。

「あら、ごめんなさい、ちょっと言い過ぎたかしら?」

「いえ、ずっと一人で生きてきた鈴さんの言葉は重いです。私も大人にならなくては」

両側を竹林で覆われた狭い坂道が現れた。所々に竹の根っ子が露出しており、またそれが落ち葉に隠れたりして獣道のようだった。

「さて、ここからが峠の始まりね、張り切って登るぞぉ!」鈴が先に立って歩き出した。

「待って下さい鈴さん、私が先に行きます」弁千代は慌てて後を追った。

峠の中程に大きな自然石が転がっているのが見えた。土砂崩れで左の斜面から落ちて来たものだろうか?

落石の陰から人が現れた、最初は山賊かと思ったが違った。身なりの良い若い武士だった。

「中武弁千代殿ですね?」

「如何にも・・・あなたは?」

「一刀流至誠館、山形昇」

「山形殿・・・して何用ですか?」

「真剣で太刀合って貰いたい」

「何故に?」

「貴方の剣術が本物かどうか試したいのです」

「理不尽な!」

「問答無用!」

山形が羽織を脱ぎ捨て剣を抜き放った。

「鈴さん、下がって!」弁千代は左手で鯉口を切り右手を柄に掛けて山形の動きを待った。

「居合か」

「必要によっては」

「参る!」

「応!」

弁千代は全神経を戦いに集中した。そうしなければこの相手には勝てないと思ったからだ。

山形は高所、弁千代は低所、立ち位置は山形に分がある。山形は正眼の切っ先を低くして構えた。

足場が悪い、移動する毎に足裏の感触が変わる。弁千代は山形が間合いを詰めてくるのを待つ。

坂道を滑るようにして山形が降りて来る。間合いに入る前に一瞬動きを止めた。

「トゥ!」抜刀する暇は無かった。超高速の突きが、弁千代の胸めがけて飛んで来た。

弁千代は突き出された刀の峰を、鯉口を切った刀の柄で押さえ込み、そのまま前に出た。

「ぬ!」山形は次の斬撃の為に刀を左に廻しながら一歩退く。

その間に抜刀を終えた弁千代の刀は、山形の首筋紙一重のところで止まっていた。

山形の刀は斬撃の動作に入る前に止まった。

「お斬り下さい」山形が言った。

「貴方は私を試したかったのでしょう?」

「はい」

「ならば、もう良いではありませぬか」弁千代は静かに刀を下ろした。



「我が大村藩の流儀は、代々一刀流と新陰流だったのです」

山形は、弁千代と並んで落石に座りながら語り出した。

「それが、急な御達しで神道無念流に変わったのです」

「江戸の練兵館の?」

「はい、斎藤弥九郎の三男、歓之助が指南役に抜擢されたのです」

練兵館は、千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館と並んで江戸三大道場と言われている。その中でも歓之助は”突きの鬼歓”として恐れられていた。

「あの鬼歓が、それは何故?」

「我々の稽古は、組太刀の形稽古が主流です。が、神道無念流は防具をつけて実際に打ち合う稽古が主流なのです。それが藩の重臣達には実戦的に見えるのです」

「そう言えば、北方も嬉野の道場も竹刀で打ち合う稽古が主でしたね」

「言うまでも無い事ですが、竹刀と刀は違います。刀を竹刀のように扱う事は出来ません。刀は全身を使って”斬る”ものですが、竹刀は手首で”打つ”のです。一刀流の”切り落し”という技法は鋼と鋼がぶつかり合う刀なら有効ですが竹刀では出来ません、竹刀が衝撃を吸収してしまうからです」

「一刀流の”切り落し、聞いたことがあります。同時に斬りこめば必ず勝つ、と」

「今日は使う暇がありませんでしたが」山形は少し笑った。「実戦と言うのならば、刀を使った技法をこそ大事にすべきです。見かけばかり派手な華法剣法に飛び付き、本当は有効な技を捨てる。本末転倒ではありませんか?」

「その事については私も同感ですが、これも時代の趨勢なのでは無いですか?」

「それは仕方のない事なのでしょうか?」

「鉄人流の牟田先生も言っておられました、この流れは誰にも止められない、と」



山形は弁千代に深々と礼をして、峠を越えて帰って行った。

「鈴さん、道草をしてしまいましたね。やはり今日は大村止まりにしましょう」

「そうですね・・・でも、今の方なんだか可哀想」

「我々は、自分を変えて行くしか無いのです。ですが、変わらぬ根っこも持っていたいものですね」

「あ、それ聞いた事があるわ、『不易流行』っていうんじゃ無い?」

「鈴さんよく知っていますね、松尾芭蕉の言葉ですよ!」

「昔、三味線のお師匠さんに教わったの。わたしも全国を流れ歩いてるけど、自分を見失いたく無いものね」

「鈴さんなら大丈夫ですよ」

鈴は峠の頂を見上げて言った。「さあ、先ずあの峠を超えましょう」




大村藩の城下に着いて先ず弁千代が感じた事は、武具屋が多いという事であった。

それも、神道無念流で使う防具ばかり売っている。同流派が他の流派を駆逐しているのが一目瞭然だ。

「鈴さん、今夜は修行人宿に泊まりましょう」

「ベンさん、何考えてるの?」

「出来れば、斎藤歓之助殿と太刀合ってみたい」

「だって竹刀では不利なのでしょう?」

「私の技がどこまで一流の竹刀剣術に通用するか知りたいのです」

「止めても無駄でしょう?ベンさん言い出したら聞かないからね」

「分かって頂けますか?」

「もちろんよ、私も三味線の上手いお師匠さんが居れば訪ねて行くもの」

「ありがとう、では早速宿を探しましょう」


道々人に尋ねながら行くと、えびす屋という旅籠が修行人宿も兼ねている、と教えられた。

宿場の中心道路沿に労せずしてその宿は見つかった。周囲の建物を圧倒するほどの大きな宿だった。中に入り訪うと、宿の番頭らしき男が出て来てたので用件を告げた。

「今晩部屋は空いておりますでしょうか?」

「部屋は空いてございますが・・・失礼ながら、お侍様は武者修行のお方でございますか?」疑わしげに番頭が訊いた。

「如何にも」

「ご婦人連れで?」番頭は鈴の方をチラッと見た。

「この人とは、目的を同じくする為に連れ立って歩いているのです。部屋は別々に取ってもらいたい」

「さいで御座いますか。暫くお待ちを」番頭は奥に引っ込んで暫く出て来なかった。再び現れた時には、先程とは打って変わった丁寧な態度に変わっていた。

「ささ、どうぞお二階へ、お隣同志の部屋をお取り致しております」

「かたじけない」

「さぞお疲れでございましょう。お食事になさいますか、それともお風呂が先が宜しゅうございますか?」先を歩きながら番頭が尋ねる。

「鈴さん、どうする?」

「私、汗を流したいわ。さっきは冷や汗をかいちゃったもの」

「では、風呂を先に頂きましょう」

「畏まりました。お食事は別々にご用意いたしましょうか?」

「いや、それは一緒で良いでしょう。私の部屋にお願い致します」

「承知致しました」

番頭に案内されて部屋に落ち着くと、入れ違いにえびす屋の主人が挨拶に来た。

「当旅館の主人、恵比寿屋太平でございます、お侍様は中武弁千代様で御座いましょう?」

「如何にも、だが、何故それを?」

「宿場同士の情報網を侮ってはいけません。北方や嬉野での中武様のご活躍は、既にこの大村にも届いておりますよ」太平は笑いながらそう言った。

「そうでしたか」

「この大村でも道場をお探しで?」

「はい、実はその事で折り入ってご主人にお願いしたい事があります」

「何なりと。自慢ではありませんが、この太平の口利きで叶わぬ事はありません」

「斉藤歓之助殿の道場をご紹介頂けないでしょうか?」

「微神堂ですな、お安い御用です。斎藤先生もお喜びなさるでしょう」

「かたじけない」弁千代は太平に頭を下げた。

「礼には及びません、それが私どもの仕事ですから。早速使いの者をやって返事をもらって参りましょう」

「宜しくお願いいたします」


風呂に入って、夕餉の膳を挟んで鈴と向かい合う。それぞれに銚子を一本づつ付けて貰った。

「ベンさん。目的を同じくする者ってどういう事?」鈴が訊いた。

「え、何の事ですか?」

「ほら、宿に着いた時、番頭さんに言ったじゃない」

「あ、あれはその、番頭さんが疑わしそうな目をしていたから、つい・・・」

「え〜でまかせなのぉ?」

「い、いや、あ、ほら、長崎に行くという目的が一緒だから」

「何だかしどろもどろね」鈴は意地悪く笑って見せた。

「鈴さんには敵わないなぁ」

「そうよ、何たって私の方がお姉さんなんだから」

「それはそうですが・・・」

「はい、どうぞ」鈴が銚子を差し出した。「初めてあった時以来ね、二人でこうして呑むなんて」

「そ、そうですね」

「私にも注いでくださいな」

「は、はい・・・」

その時、障子の外から声が掛かった。「中武様、お客様がお見えですが」

「た、助かった・・・」弁千代がほっと息を吐く。

「何なのよぅ、せっかくいいところだったのにぃ」鈴が口を尖らせた。

「どなたですか?」弁千代が障子を開けると、番頭が座っていた。

「大村藩の山形昇様と浅田又兵衛様です」

山形は峠で会った若い侍だ。浅田という侍は知らない。

「鈴さんちょっと行って来ます、先に食べてて下さい」

「もう、知らない!ベンさんの分も呑んじゃうから」

「いいですよ、帰ってきたら呑み直しましょう」

そう言い置いて、弁千代は番頭に従って階下へと降りて行った。



「”魔の太刀”と恐れられた、新陰流”輪の太刀”は、真剣で”斬る”ということを前提とした身体操法の技術です。”打つ”事を前提とした竹刀稽古では十分に威力を発揮する事が出来ません」

太平が用意してくれた奥の座敷で、互いに挨拶を交わした後、浅田又兵衛という壮年の武士が堰を切ったように語りだした。浅田は元大村藩剣術指南役、新陰流の菊池主水の高弟である。

「まず、竹刀は刀に比べると軽くて長くて反りが無い。その為、遠間から飛び込んで手首を使って”打つ”という事が可能になるのです。道場が平らな板張りになってすり足が多用されるようになったのも一因でしょう。刀は躰を使って”斬る”ものです、古流の剣術の”形”が皆、歩み足なのは、重くて短く反りのある刀を、起伏や傾斜のある戸外という条件の中でも使えるように工夫したものだからです」

弁千代は腕組をして黙って浅田の話を聞いている。更に浅田の熱弁は続く。

「竹刀の柄は長すぎるのだ、あれでは斬るには不向きであろう・・・実戦で切先三寸で打とうとしても届く筈はない、刀は鍔元で斬るつもりで踏み込んでやっと届くものだ・・・竹刀剣術に習熟すればするほど、実戦の剣術からは遠ざかるとは皮肉な事ではないか!」浅田の言葉は次第に怒気を帯びて来た。

「・・・このように、刀を使う技術とはおよそかけ離れたものを剣術と呼ぶ事が出来るのであろうか?貴殿の奇譚のないご意見をお聞きしたい!」

やっと浅田の話が終わった。弁千代は静かに腕組を解いた。

「あなたの仰る事は、どれもいちいちもっともです」

「そうであろう!」浅田は、得たり!という顔で頷いた。

「しかし武術の身体操法は、得物が何であれ使えるものでなければならないでしょう」

「何、どういう事だ!」

「長短一味、軽重一致。長いものは短く、短いものは長く。軽いものも重たいものも、同じように使えてこその武術なのではないですか?」

「む、むう・・・」

「我々はまだ、その境地には達していないという事です。だから認めて貰えない、認めて欲しければ、早くその境地に達するように修行を積むべきです」

「し、しかし神道無念流の奴らは・・・」

「あなたが純粋に剣の高みを目指すのであれば、人の事などどうでも良いではありませんか」

「な、何を甘い事を・・・」

「確かに私は甘いのでしょう。生きて行くためには、時には自分を曲げる事も必要でしょう。ですが剣の事に関しては、私は自分を変えたくありません。真っ直ぐに剣の境地を目指す自分を変えたくは無いのです」

「この生意気な若僧めが!年長の儂に説教を垂れるとは!表に出ろ、勝負を致す!」浅田が腰を浮かせた。

「無駄です、浅田さん。あなたの敵う相手ではありません!」

今まで無言で座っていた山形が口を開いた。

「ぬ!」浅田が山形を睨みつける。「・・・不愉快だ、儂は帰る!」

浅田は乱暴に座を蹴ってえびす屋を出て行った。

「失礼致しました中武殿。あなたの話をしたら、是非会わせろと煩いものですから・・・悪い人では無いのですが」

「いえ、私も言い過ぎました」

「私は浅田さんの後を追います。今夜はやけ酒に付き合ってやりましょう」

ごめん、と頭を下げて山形も出て行った。


山形が出て行った後、入れ違いに太平が入って来た。

「この度のお役替えは、色々と物議を醸し出しております。あの方達のお気持ちも分からなくはないのですが・・・」

「当然でしょう、武士は面目を大切にしますから」



太平が弁千代の前に座った。

「先ほど使いの者が戻りました」

「して、首尾は?」

「明日は藩校の道場に出仕する為、明後日では如何かと。中武様が宜しければ、昼頃に迎えの者を寄越すとお返事がありました」

「私はそれで構いません」

「では、明日その旨をお伝えしておきます」

「かたじけない」



弁千代が部屋に戻ると、すでに布団が敷いてあり、鈴は居なかった。

ふてくされて寝入ったものか、隣の部屋から微かに寝息が聞こえてくる。

「明日は付き合ってあげなければ・・・」弁千代も、早々に布団に潜り込んだ。




斎藤歓之助の道場から迎えの使者が来たのは巳の刻の終わり頃だった。

「昼餉の支度が出来て居ります」と、使者は言った。

「いえ、お気使いなく」

「当道場のしきたりに御座りますれば」

杓子定規な使者の言葉に抗う事も出来ず、弁千代は微神堂に赴いた。

道場は既に黒山の人だかりだった。『娯楽の少ない田舎の町では、武者修行も格好の見世物になるという事か』北方の陣屋で慣れてはいたが、改めて弁千代は驚いてしまった。

「斎藤先生は後ほど道場でお目に掛かられます」離れの座敷に通された後、使者が告げた。「それまで此処でゆるりとお寛ぎ下さい」

昼餉の膳が運ばれて来た。驚いた事に酒の支度までしてある。

『一介の武者修行に、このもてなしはどうした事だろう?』弁千代は訝らずにはいられなかった。


道場に案内されたのは、それから一刻の後だった。

見所に役人が二人座っている。斎藤歓之助はその横に座して弁千代が入って来るのを見詰めていた。弁千代が頭を下げると、歓之助は鷹揚に頷いた。

「これから、約二百名の弟子の中から選別された二十名と太刀合って頂きます」先ほど弁千代を迎えに来た使者が告げた。「勝ち負けの勝負ではありませんので審判はおりません、時刻係の合図で交代して下さい」

「承知しました」

弁千代は防具を付けて道場の中央に立った。

壁際に整然と座っている弟子の中から、末席の若者が面を付けて立ち上がる。

「お願い致します」面金の向こうに上気した顔が見える、緊張しているのだろう。

「こちらこそ、良しなに」

互いに青眼に構えた。

「ありゃりゃりゃりゃりゃりゃ・・・!」若者は奇声を発して床板の上をすり足で移動する。

カシャカシャカシャ・・・頻りに竹刀の切っ先で牽制してくる。

ダッ!若者が床を蹴った。「お籠手っ!」竹刀が正確に弁千代の右籠手を狙って飛んで来た。

弁千代は軽く籠手を空かして、重い一撃を若者の面に見舞った。

う〜ん・・と唸って若者はその場に昏倒した。

「それまで!」時刻係が太刀合いを止めた。「次っ!」

二番手の弟子が立ち上がった・・・


九人目までは、弁千代の稽古着に触れる事も出来なかった。

十人目から少し手こずった。それでも十本のうち八本は弁千代が取った。

高弟三人は流石に手強かった、三本中一本は取られる。

最後の立ち合いは、かなり危なかったので見物人も大いに盛り上がった。

それでも弁千代は優位を保ったまま太刀合いを終えた。

一息吐いて見所を見ると、歓之助はまだ仕度もしていない。

「斎藤先生、一手ご教授願います」面を外して弁千代が言った。

「いや、今日は少々体調が優れん。太刀合いはまた次の機会に願いたい」

弁千代は唖然とした。「今度いつこの大村を訪れるか分かりません。是非一手お願い致します」

「実は昨日、藩校の道場で大工の残して行った釘を踏み抜いてしまってのう、歩くことも儘ならぬのだ」

「では、何の為に・・・」私はここに来たのでしょうか?と、弁千代は問うた。

「誠に相済まん」歓之助はただ頭を下げた。

「是非も無い・・・」

釈然とせぬ思いで、弁千代はえびす屋に戻った。



「ベンさん、どうだった?」

弁千代は事のあらましを鈴に語った。

「そう、ベンさんの実力を見て太刀合いを避けたのね」

「何だか騙されたような気分だ」

「その先生にも事情があったのよ、きっと」


その夜、えびす屋に豪華な料理と酒一樽が微神堂から届けられた。

弁千代が、どうして良いか分からず戸惑っていると、太平が現れた。

「斎藤先生がお見えです」

斎藤は籠でえびす屋に来たのだった。目立たぬように配慮したのであろう、供の者はいなかった。


「本日は大変失礼を致した」

えびす屋の離れで、歓之助は畳に手をついた。

「どうぞ、お手をお上げください」

「さぞ、ご気分を害された事でしょう」

「いや・・・」

「私も中武殿とは太刀合いたかった。見ているだけで久しぶりにワクワクしましたぞ」

「では、何故?」

「私は神道無念流を背負っているのです」

「・・・」

真剣なら、私はあなたに敵わない。しかし、竹刀なら五分五分、いいや、四分六分で私の方に分がありましょう」

「それならば何故・・・」

「それでは私の面目が保てないのです」

「面目?」

「私はまだ正式な大村藩の武術指南役ではありません。約束されているとは言え、今は一介の町道場の主、大事な時期なのです。武者修行と引き分け程度ではお話になりません、お察し頂きたい」

これが世間の事情というものか。弁千代は改めて今の自分の気楽さを知った。

「分かりました。藩の指南役になられた暁には是非・・・」

「必ず。お約束致しましょう」



「・・・組太刀の形稽古だけで強くなるには、才能と時間が必要です」

剣に話題が移り、”形”に話が及ぶと歓之助が言った。

「しかもこの場合、”形”が”活きて”いる事が条件です」

「活きているとは?」

「そのものが本来持っている機能・能力が発揮され有効に働く事です」

「今の”形”にはそれが無いと?」

「現在、剣術の流派は五百とも千とも言われています。その全ての流派の”形”が活きているとは思えない、否、寧ろ活きている”形”を伝えている流派はほんの一握りでしょう」

「何故そのように沢山の流派が生まれたのでしょう?」

「皆、自分の学んだ流派で免許皆伝を貰ったら、自分勝手な創意工夫を加えて一流を起こすからです。その段階で見栄えが良いように不必要な改良をする。そして改良を繰り返す毎に”形”は死んで行くのです、それも自分が生きて行く為にする事ですが・・・」

「形稽古を主体とする流派からは、撃剣稽古を”華法剣法”だと批判が出ておりますが?」

「我々からすると派手な”形”こそ華法だと思うのです。斬る場所が決まっている技を返す事など誰にでも出来るでしょう?それでは芝居の殺陣となんら変わりはありません」

「流派は必要無いとお考えですか?」

「昔は活きた”形”を伝える先生が大勢いたかも知れませんが、今はほとんどお目にかかる事は出来ません。また”形”が活きているかどうかなど初めて剣を握る初心者に分かる筈もありません。剣術はいずれ流派を超えて大同団結する日がやって来るでしょう」

「流派は無くなると?」

「残っても、それは形骸化した”形”を伝えるだけの”伝統遺産継承”に留まるでしょうね」

「私にはもう、何が正しいのか分からなくなりました」弁千代は頭を抱え込んでしまった。



料理が運ばれ、太平も交えた小宴になった。

「ところで、中武殿はこれから何処へ行かれる」

「はい、長崎へ行こうと思います」

「ほう、長崎ですか。して目的は?」

「異国の文化に触れてみとうございます」

「若い頃に異国の文化に触れるのは良いでしょう。大村藩は長崎警護の御用役を務めております、私が紹介状を書きます故、何かあったらそれを持って藩邸に出向かれると宜しい」

「有難うございます」

「太平殿、後で紙と硯をお借りできますかな?」

「お安い御用です」

弁千代は異国の剣術について、歓之助に訪ねてみる事にした。

「長崎に、異国の剣術を使う道場破りが出ると聞いておりますが?」

「うむ、”さーべる”という剣を使う”ふぇんしんぐ”という剣術の事ですな?」

「私は詳しくありません」

「私もペリーが浦賀に来航した折、海兵隊少佐の抜いた”さーべる”を見ただけですので詳しいことは知りませんが、刀身が細く真っ直ぐです、柄が短いのであれは片手で扱う剣に相違ありません」

「良く撓る剣だと聞きましたが」

「見た所、あれは鋳造の剣です。鋼を鍛えた日本刀と違い折れやすいのではないですかな」

「異国にも侍がいるのでしょうか?」

「”ふぇんしんぐ”の”ふぇんす”とは、”守る”という意味なのだそうです」

「守る?」

「身を守るという意味の他に、名誉を守るという意味もあるのです」

「やはり、西洋の侍なのですね」

「その侍と、お手合わせなさるおつもりか?」

「場合によっては」

「西洋人を斬ると外交問題に発展する恐れがあります、くれぐれもお気を付けられよ」

「肝に命じておきます」


その後、歓之助は夜が更けるまで弁千代と語り合い、来た時と同様籠で帰って行った。

後世、歓之助の言った事は”剣道”として現実になるのであるが、この時は誰も知る由はなかった。




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