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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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嬉野

嬉野



翌朝弁千代は、馬の手綱を引いて北方を後にした。

「私、嬉野はとっても楽しみなの」馬の背に揺られながら鈴が言った。

「なぜですか?」

「だって、美肌の湯だって、有名だもの」

「それは知りませんでした」

「万人の病を治す名湯としても知られているわ」

「それは鈴さんにはちょうど良いのではないですか」

「なんでも、神功皇后が西征の帰途に、弱った白鶴が河原に舞い降りた後、再び元気になって飛んで行ったのを見たらしいのね」

「古い話ですね」

「それで、行ってみたら温泉だった。そこに傷ついた兵を入れたら傷が治って元気になったんだって。それで『あな、嬉しいのぅ』と言ったから嬉野なのよ」

「鈴さん良く知ってるなぁ!」

「だって女は美容と健康には興味があるものよ」

「ならば、今夜はその効能に預かりましょうか」

「そうね、そうしましょう」


嬉野では、天保元年創業の”大村屋”に宿を取った。

馬を佐賀に送り返してもらえるよう手配して、早速湯に浸かる。早めの到着なので客はまだ誰もいない。広い檜の内湯は旅の疲れを癒してくれるようだった。

「鈴さん、湯加減はいかがですか?」板壁で仕切られただけの女湯に声を掛ける。

「とってもいいお湯よ、肌なんかもうすべすべ。ベンさんに見せられないのが残念だわ、だって・・・」

「な、何を言ってるんですか!」弁千代は慌てて鈴の言葉を遮った。

その時、湯場の戸が開いて男が一人入って来た。

「桂さん!」

北方陣屋の桂十郎左衛門である。

「中武殿、昨日は有難う御座いました。藩士達もいたく喜んでおりました」

「して、火は消えたのですか?」

「幸いな事に、類焼は免れました。古着屋は全焼でしたが・・・」

「怪我人は?」

「おりません」

「それは良かった。で、昨日の礼だけの為にわざわざ此処に来られたのですか?」

「それもあります。ですが、もう一つ貴殿の耳に入れておきたい事が有るのです」

「それは何ですか?」

「なぁに、急ぐ事ではありません。風呂上がりに一献傾けながらお話し致しましょう」

「はあ・・・」

「今日はお隣の女人にも同席して頂きたいのです」

「えっ!良いんですか?」女湯から鈴の声が上がった。

「勿論です。貴女の事は宿場で話題になっていましたよ」

「え、どんな?」

「美人で、唄も三味線も上手な流しが居たが、あっという間にいなくなってしまったと」

「わあ、恥ずかしい!」

「はははは、帰りにまた寄ってやって下さい」


桂を上座に据え、弁千代と鈴はそれぞれの箱膳に向かい合って座った。

鈴が二人に酌をする。

「面倒です、後は手酌でいきましょう」桂が言った。「鈴さんも一献」

桂が鈴に酌をした。

「有難うございます、あとで私の拙い三味線なとお聴かせ致しましょう」

「それは楽しみです」桂がにっこりと笑う。

「して、お話とは何でしょう」弁千代が問うた。

「その事です。貴殿はこのまま長崎までお行きになるおつもりですか?」

「はい、そのつもりですが」

「では、お気を付けなされよ」

「と、仰いますと?」

「長崎に、最近バテレンの道場破りが出るそうなのです」

「しかし、長崎の異人は出島から出られないのでは?」

「それが、去年(1855年、安政2年)の日蘭和親条約締結によって、オランダ人の長崎市街への出入りが許可されたのです」

「異国の剣術・・・」弁千代は興味をそそられた。

「そう、異国の摩訶不思議な剣術を使うそうです。私も見た事はありませんが、何でも片手で細長くしなる刀を操るようなのです。それ故動きが速く剣が見えないという事です」

「片手ならば日本の小太刀や中国の長剣ですが、それとは違うようですね」

「もう、いくつもの町道場がその異人の為に廃業に追い込まれているそうです」

「ベンさん、その異人と戦うの?」鈴が心配そうに訊いた。

「行ってみなくちゃ分からない。会えるかどうかも分かりませんからね」

「でも、会えば戦うでしょう?」

「・・・興味はあります」

「やっぱり・・・」

「いや、心配なさる事はありますまい・・・中武殿ならそうやすやすと遅れをとる事も無いでしょうが・・・」鈴を安心させようと言った言葉なのだろうが、何となく歯切れが悪い。

「ご忠告有難うございます。ですが今、分からない事について色々と詮索しても始まりません。もし戦う事になったとしても、勝負は時の運、無心で敵の前に立つのが良いでしょう」

「いや、立派なお覚悟。私の老婆心でした」桂は頭を下げた。

「いえ、お陰様で十分な心構えで長崎に向かう事が出来ます。有難うございました」弁千代も深く頭を下げた。

「さ、そうと決まれば、湿っぽい話は終わりにしましょう!」鈴は不安を掻き消すように、わざと明るく振舞って三味線を抱えた。「最近流行りの端唄をひとつ・・・ツトテンシャン♪梅はぁ〜咲いぃたかぁ♪桜はぁまだかいな・・・ハァ、チリトテシャン♪」

良い声で鈴が唄い出すと、座が和やかな雰囲気に包まれた。


その日、三人は夜が更けるまで長崎の見所について語り合った。






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