無門弁千代物語・第二部
無門弁千代物語・第二部
霊巌寺を出立した中武弁千代と鈴は、島原湾の東の陸地を玉名、長洲、大牟田を経て柳河の城下に入った。
弁千代の腰には国を出る時、師の加州左馬介に貰った刀がしっかりと差してある。
二人は真っ直ぐ立花家家臣、加藤伊織の屋敷を訪ねたのだが、折悪しく加藤は留守であった。
公務で江戸まで出掛けており、帰りは秋になると言う。
弁千代は、少し考えてから鈴に言った。「ここで秋まで待つのも詮無い事。鈴さん、私はちょっと長崎に行ってみようと思う」
「長崎に?」
「長崎は異国の文化が、唯一この国で花開く街。私の足りないところを補ってくれそうな気がするのです」
「私も行っちゃ駄目?」
「一緒に行って頂けますか?」
「もちろん!」
「それでは、まず佐賀まで出て長崎街道を西に下って行く事にしましょう」
「楽しみだわ、異国の船が見られるのね!」
「船だけではなく砂糖や香辛料などの交易品、医術や学問、他国の歌舞音曲にも触れられると思います」
「わぁ、凄い。早く行きましょう!」
翌朝、勇んで柳川を出立した二人だが、佐賀が近づくにつれ鈴の元気がなくなった。
どこか具合でも悪いのか?と尋ねても、「・・・いえ、何でもありません」と言う返事が返ってくるだけだ。
佐賀の城下に着いて真っ先に宿を探した。幸い”芦刈屋”という大きな旅籠が見つかった。
部屋に入った途端、緊張の糸が切れたように鈴が倒れてしまった。
芦刈屋の女将が、良庵という老医師を呼んでくれた。良庵は御典医でありながら一般庶民も分け隔てなく診てくれる立派な医者だったのだが・・・
「とぁだの、疲れぢゃよ、しんぷぁいいらん」良庵は聞き取りにくい言葉で言った。
いや、声はデカイのだ。ただ、発音が独特なのである、滑舌も悪い。
「薬をぉ処方してぇおく、あとぉで、取りにおいどぅえ」
ただの疲れです、心配いりません。薬を処方しておくので、後で取りに来てください。と、女将が通訳してくれた。
「有難うございました。して、いかほどお支払いすればよろしいでしょうか?」
「ぬぁにぃ、路銀にぃ響くほどぅ取りはぁせんよ。あんとぁ、東国のお人かぬぇ、ぬぁら、薬をぉ取りぬぃ来た時ぃ、一献付き合ってぇくるぇんかね、旅ぬぉ話をぅお聞きしとぁい」
これも女将が通訳した。弁千代は心配になった、『話が通じれば良いが・・・』
良庵が帰ったあと弁千代は鈴の枕元に座った。
「ごめんねベンさん、迷惑かけちゃって・・・」
「何言ってるんですか、長年の旅の疲れが出たんですよ、心配いりません。それより、暫くはここに逗留しましょう。佐賀は”葉隠”を産み出した土地柄、学ぶことも多いと思います」
「ありがと・・・」
「さ、暫く寝た方が良い。私は薬を取りに行って来ます」
鈴が目を瞑ったので、弁千代はそっと障子を閉めて外に出た。
女将に良庵の診療所の場所を教えてもらい、旅籠を後にする。
佐賀城の西に張り巡らされた堀に沿って北に歩くと、朱塗りの楼門が見えた。
水神だろうか、立派な鳥居が立っている。
鳥居を過ぎて暫く行くと、良庵の診療所が見えて来た。
訪いを告げようと戸を開けると、農民や町人が所狭しと順番待ちをしている。
良庵の弟子であろう、白い術衣を着た若者が一人忙しく立ち働いていた。
「あの・・・」
「暫くお待ちください、急患で先がつかえております」
鈴の往診に来てくれた所為であろう、弁千代は大人しく待っている事にした。
一刻ほど待ったであろうか。漸く最後の患者が帰った。
「お待たせしました、さ、どうぞ診察室へ」先ほどの若者が言う。
「あ、いえ、私は・・・」患者ではありません、と弁千代が答えようとした時、診察室の扉がガラリと開き良庵が現れた。「よぉくこるぁれた、さぁあ、上がるぁれよ!」
「良順よぅ、先ほどぉう言いつけとぅえおったぁ薬をぉお出しぃせよぉ」
「はい、良庵先生」若者は、訊き返すでもなく奥へ引っ込んだ。良庵独特の発音に精通しているのであろう。
良庵は弁千代を離れの座敷に通し暫く中座したが、再び現れた時は術衣を脱ぎ小ざっぱりとした着衣を身につけていた。
酒肴が運ばれ酒宴となった。先ほどの良順という若者も同席している。
「ほおぅ、あんとぁ武者修行かねぇ」
「はい、もう二年程にもなりましょうか」
「ぬぁにか得るむぉのはあったかぁね?」
「いえ、なかなか。まだ先は長うございます」
「そんぬぁに気張らぬぁくとぅも良い、真面目ぬぃ真剣ぬぃやるのぉは良いが本気ぬぃなっちゃいかぁん」
「なぜですか?」だいぶ聞き取れるようになった。
「本気にぃぬぁるとぉ殺し合いぬぃなぁる」
確かにその通りだ。
「この佐賀で、お相手をお探しですか?」良順が言った。
「いえ、長崎に行く途中、連れが倒れましたので。しかし、強い道場があれば訪うてみたく思います」
「芦刈屋はぁ修行人宿むぉ兼ねとぇおろう」良庵あ言った。
「修行人宿?」
「はい、宿の主人に頼めば適当な道場に話をつけてくれます」
「そのような事が出来るのですか?」
「近頃各藩では武士の再教育に力を入れております。まあ、裏を返せばそれだけタガが緩んでいた事にもなりましょうが、武術留学のようなことも盛んに行われるようになりました。その為武者修行も増えております。彼らの便宜を図る為、宿場には修行人宿が増えているのです」
弁千代が国を出た頃はそのような事は無かった、文字通り武者修行は命懸けだったのである。
「竹刀と防具が進歩したのも要因の一つでしょう。恨みを残さず技を競い合う事が出来ます」
たった二年で隔世の感がある。
「随分お詳しいようですが?」
「はあ、恥ずかしながら私も剣術を習っております。近頃は剣術も武士の専売ではなくなっておりますので」
「良順よぅ、おむぁえぬぉ道場をぉ紹介すぃてやっとぇはどぅおぅじゃ?」
「牟田道場をですか?」
「すぉうだ、牟田せんすぇいは佐賀どぇは一番ぬぉ剣客ぢゃろう」
「牟田道場とは?」弁千代が訊いた。
「鉄人流(又は、鉄刃流)牟田道場。宮本武蔵の流れを汲む二刀流の道場です」
霊巌寺で共に戦った二天も二刀流だった、しかし弁千代は二刀流とは戦った事は無い。
「宜しければ、是非お願いしたいのですが」
「分かりました。明日、先生にお願いしてみます。お許しが出れば、お昼頃にお迎えに参上いたします」
「どうぞ、良しなに」弁千代は良順に頭を下げた。
翌日の昼前に、良順が迎えに来た。牟田道場の主、牟田采女の許しが出たのである。
良順は鈴の容体を診て言った。「もう大丈夫でございます、あと二、三日もすれば歩けるようになるでしょう」
弁千代はホッと溜息をついた。
牟田道場は、さして広い道場では無かった。しかも床は板張りではなく土間に筵を敷いただけの質素なものだった。それだけに、最近流行の飛んだり跳ねたりの撃剣ではなく、足元を固めた実戦的な足運びが要求される。
弁千代は先ず良順と太刀合った。得物は竹刀である。防具は着けていない。
良順は、左手の短い竹刀を正眼に、右手の長い竹刀を上段に構えた。
弁千代は腰をやや落し気味にした左上段の構え。
良順が左手を細かく振動させて弁千代の動きを誘う。
弁千代にはその動きが小賢しく思えた。やはり、竹刀剣術だ。
上段から、浮見を掛けて無造作に竹刀を振り下ろす。良順の左の竹刀が呆気なく消し飛んだ。
慌てて良順が右手の竹刀に左手を添えると、弁千代の竹刀が再び良順の竹刀を叩き落した。
「参りました!」良順が筵に膝をつき頭を下げる。
その後、五人の高弟たちと太刀合ったが結果は皆、似たようなものだった。
「とても私の敵う相手ではありません」と、采女が言った。「どうか、この佐賀にご逗留の間、弟子達に稽古をつけて頂けませんでしょうか?」
弁千代は采女の潔い態度に好感を覚え、采女の申し入れを快諾した。
「今、剣術は大きく様変わりをしようとしております」
是非にと勧められて同席した昼餉の席で、采女が言った。
「道場はどんどん広くなり、板張りになって来ております。すり足で滑らかに移動が出来る。そうなればちょこまかと動き回る事も可能です。防具も進化して思い切り打ち合うことが出来る。
互いに技を競い合う楽しみもできる。しかし、一方で小手先の技が多く用いられるようになり、打突部位が制限される事によって、本当に有効な技が消えて行っているのです」
「何故でしょうか?」
「剣術が商売になるからです。商売ならば華麗で楽しいほうが人は集まる。今、日本には無数の流派が雨後の筍のように産まれております、しかしその実態はそう変わり映えがしない流派の集合体なのです」
「これから剣術はどうなっていくのでしょう?」
「さあ、この流れは誰にも止められません。時代の要請に従って変化し続けるしか無いでしょうね」
采女は感慨深げに呟いた。「今日、最後の剣術を見る事が出来た私達は、幸せです」




