南へ
南へ
ここは異国だ!
火山灰の痩せた土地には芋ばかりが植わっていた。
然し、港に着いた途端弁千代は確信した。佐々木慎之介が言っていた南とは、この國の事なのだと。年端のいかぬ子供でさえ木刀を帯に差して歩いている。
船が港に着く時小競り合いがあった。武装した兵達の乗った船に囲まれたのだ。
その時権太は水軍の旗印を舳先に掲げた。
船の兵から歓声が上がった。
隼人の國の水軍はあまり知られてはいないが、琉球や明にも遠征している強者だ。
港の守りについていた兵はその末裔だった。強者は強者を識る。
伊予の海賊はまるで賓客のように隼人の海賊に迎えられた。
然し乍ら、上陸は容易には許されなかった。この國は他所者の入国を極端に嫌うのだ。
弁千代と鈴がこの地に足を踏み入れるには、東郷の登場を待たねばならなかった。
東郷とはこの國の家老の名であり、独特な剣術の継承者でもある。
この剣術は何故か都で発祥し都には根付かず南の果ての此の地に根付いた。他の剣術とは一線を画す独特なものであった。
『一の太刀を疑わず』、この激烈な剣法は都の優雅な気風には馴染まなかったのだろう。
伊予の海賊船には毎夜酒肴が持ち込まれ飲めや歌えの大騒ぎであった。鈴の三味線は兵達の良い仲介役になった。
「ご家老は、所用で直ぐには戻られん、その間丁重におもてなしをせよとのご命令である」
守備兵の隊長が言った。「当地の水軍はかつて明国に遠征の折、伊予水軍と手を結び大暴れをした事がある、謂わば同盟軍だ」実は訛りが酷くこれだけを聞き取るにも一苦労であったのだが。
三日後、東郷が弁千代の前に姿を現した。
「待たせっしもうた。伊兵衛どんの書状ば持って参られたっちゅうのはおはんか?」
父程の歳の人物であった。その体躯はがっしりとして小山のように見えた。
鷹のような眼が弁千代を見据える。
「はい、中武弁千代と申します」弁千代が甲板に跪き手を着く。
その後ろに鈴や伊予の漁師、否、水軍が控えている。
「伊兵衛どんな息災か?」
「お元気でおられました・・・伊予の海岸でお別れするまでは」実際そのあとの事は分からない。「そりゃそうじゃな。おはん、伊兵衛どんの童っ子に剣ば教えたそうじゃな?」
「いえ、手合わせは致しましたが教えてなどおりません」
「そう謙遜せんでん良か。どうじゃ我が道場に来て当藩の二才達と太刀合うてみる気はなかか?」
「それは願ってもない事です」
「じゃっどじゃっど、そんなら今からおいの屋敷に同道せんか?」
「はい、喜んで・・・然し、連れが」弁千代は鈴を振り返った。
「ほう、そげん美しか女子衆ば連れちから。おはんも隅におけんたい」
「いえ、決してそのような・・・」弁千代は慌てた。二人に関係など無いに等しい。
「よかよか、一緒に来ればよか。そんかわり今夜はそん三味線ば聴かせちくれんね?」東郷は鷹揚に頷いて鈴に目を向ける。
「はい、お安い御用ですよぉ」鈴が三味線を抱き上げた。
東郷は、後ろの権太達を見た。
「天晴れな水軍の末裔達よ!戻ったら伊兵衛どんに宜しゅう伝えちくいや。土産は焼酎と芋しかなかが、たんまり持たせてやっでみんなで分くっがよか」
「ウオ〜!」と歓声が上がった。
権太達と別れ、弁千代と鈴は東郷の家来たちと共に徒歩で屋敷に向かう。東郷は馬上の人となった。
弁千代と肩を並べて歩きながら鈴が囁いた。「ベンさんごめんね。あっちに出会ったばっかりに・・・」
「そんな事はありません。鈴さんのお陰でこの國へ来る事が出来たのです、むしろ礼を言わなくては」
「本当?」
「本当ですよ」
「ああ良かった!」つい大声になる。東郷の家来が怪訝な顔で振り向いた。
鈴はぺロッと舌を出した。「いけない、つい嬉しくって・・・」
「ははは、でもこれからどうするんです?」
鈴はしばらく考えてから、一緒について行っては駄目ですか?と言った。
「当然、当分の間は一緒に行動することになるでしょう。この國にそんなに長くはいられない」
「嬉しい」
「後の事はその時に考えましょう」
「はい・・・」
東郷の屋敷は、家老の屋敷とは思えないほど質素だった。
夏の暑さを旨として建ててある為か、明り取りの窓は少ない。
ただ、風通しは良く室内はヒンヤリとして気持ちが良かった。
弁千代の逹っての願いで、鈴とは別々の部屋が宛てがわれた。
ちょっと残念・・・と言って鈴が笑った。
部屋に落ち着いてから、弁千代は改めて東郷に謁見した。
「この度は大変なご迷惑をおかけ致しました」
「なんの、遠慮はせんでんよか。上洛の折、いつも伊兵衛どんにはえろう世話になっちょる、今回は恩返しが出来申した、礼を言うのはこっちじゃ」
「伊兵衛殿のその後が心配です」
「なぁに、あんお人はそんくらいで動じるほど肝っ玉の小さか人じゃなか、心配は要らん」
「しかし・・・」
「既に伊予の城には使者を放ったで、案ずるこたぁなか」
「はっ!ありがたき幸せ」弁千代は畳に手を着いた。
「ところで、早速じゃっど明日我が弟子と太刀合うてみんね?」
「明日・・・ですか?」
「中村ちゅう血の気ん多か若もんがおっとじゃ。歳もおはんとそうは変わらん、どげんね?」
成り行きとは言え、その為に来たようなものだ。弁千代に否のある筈が無い。
「承知致しました」
「よか。そう言うじゃろ思うて中村には知らせちある、朝飯が済んだら道場においやったもんせ」
「御意!」
エーイ!エイ!エイ!エイ!エイ!エイ!エイ!エイ!エイ!エイ・・・・・・!
翌朝、異様な掛け声で目が覚めた。道場の方から聞こえて来るようだ。
寝衣のまま外に出た。
東郷の屋敷の隣に道場がある。昨夜は分からなかったが、東郷の屋敷より立派だ。
その庭に子供達がいた、代わる代わる太い枝で横木を打っている。
横木とは、細い枝を何本も束ねて腰の高さに掛け渡してある稽古用の台木である。
子供達は遠間から横木に走り寄り、低い腰構えで何度も何度も横木を打った。
一撃必殺、恐ろしい形相である。
それを、腕組みをして見ている二才がいた。
「もっと、腰ば入るっとじゃ!そげんこっちゃ人は斬れんばい!チェストイケ!」
子供達は、更に力を込めて横木を打つ。
その二才と目が合った。
「やめっ!」弁千代を見据えたまま言った。「今日はそんくらいでよか、また明日きやい」
「ハイッ!ありがとうごあんした!」
子供達が道場の門を出て行った。
「おんしか、海賊船で来たっちゅう侍は?」二才が訊いて来た、声に棘がある。
「如何にも、お主は?」弁千代は二才を睨みつけた。
二才はニッと笑う。「おいは中村。中村半次郎!」
「中村?私は中武弁千代。今日私と太刀合うのはお主か?」
「そげんようじゃな。覚悟はでけとっか?」
「覚悟はいつでも出来ている」
「ふん、口先だけならなんとでん言ゆっ。どうじゃ、今からやらんか?」
一瞬弁千代は迷った、東郷の許しもなく立合う事は出来ない。
「それみっ。そんくらいの覚悟しかでけとらんじゃ無かか」
「中村!」振り向くと背後に東郷が居た。
「東郷様・・・」
「中村、そげん急くとじゃなか。それより飯ゃ喰って来たか?」
「戦ん前に飯ば喰っと動きが鈍りもす」
「そげん余裕のなかこっでどげんする。腹が減っては戦は出来んじゃろが」
「・・・」
「弁千代どん、朝飯ん支度がでけとる。行って喰ってくっがよか」
「半次郎、台所に芋があっで喰ってこい!」
「じゃっど・・・」
「うぜらし、早よ行け!」
半次郎は渋々台所に向かった。
「弁千代どん、奴ぁ下級武士の出じゃ、剣の筋は抜群じゃが心が捩くれちゅう。こん國は上下の差別が厳しい土地柄じゃっで仕方んなかこつではあっがな」
「ここで稽古を?」
「おいは剣に関しては分け隔てはせん。身分の上下は関係なか、誰にでん此処での稽古ば許しちょる」
弁千代は、東郷の度量の広さに驚いた。
「さて、飯にすっど。二人の太刀合いは後でゆっくり見せちもらう」
「はい」
道場に板張りは無い。ただ、三和土を固めただけの土間だった。
見所には龍の掛け軸が架かっている。東郷はそこに居た。側近の武士が、土間に控えている。
土の床の上で、弁千代と半次郎が向かい合っている。支度は何も無い、平服のままだ。
いつ何時たりとも、直ぐに戦いに臨む為の心構えを養う、其流の仕来りだった。
半次郎は木刀を八双と上段の中間に位置するように構えた。
弁千代は、右手一本で剣を後方に流して構える。まるで斬ってくれと言わんばかりに、躰の前面がガラ空きになった。
今朝、子供の稽古を見て分かった。この流派の斬撃は例え両手で受け止めても、刀ごと断ち斬る剣だ。
それならば、片手でも同じでは無いか。両手を頼んで剣に縛り付けられるより、剣を忘れたほうが良い。
躱すことも忘れよう。無駄な事だ。
半次郎が、ジリジリと間合いを詰めてくる。流石にいきなり打ち込んではこない、必殺の間を計っているのだろう。
『降りかかる太刀の下こそ地獄なれ、踏み込みみればそこは極楽』誰が詠んだ道歌だったろうか?弁千代の躰から力が抜けた。
チェストー!!!同時に半次郎の裂帛の気合いが場内に轟く。
ガッ!
ふたつの躰が激突した。
半次郎の剣の柄頭は弁千代の右の肩甲骨の下にめり込み、弁千代の剣の柄頭が半次郎の水月に突き立った。
そのまま、時が止まったかのように二人は動かなくなった。
「ふむ、それまで!」東郷が声を掛けた。
東郷が近寄ってみると、二人は立ったまま気を失っている。互いの剛体化した体が支えになったらしい。
「医者を呼べ」東郷が側近の武士に命じた。
「ベンさん、大丈夫?」
目を覚ますと、弁千代は部屋で寝かされていた。目の前に鈴の顔があった。
「お医者さんが、暫くは動けないだろうって」
「ウ〜ウ〜ウ〜・・・」声が出ない。
「半次郎さんも向こうで寝てる」
「ウ・ウ〜・・・」隣の座敷から呻き声が聞こえた。
「もう少しで二人とも死ぬところだったんだって、どちらも急所を僅かに外れていたらしいの」
「ウ・・・」
「あら、また気を失っちゃった」
弁千代がやっと起きれるようになったのは、それから七日ほど後だった。
中村半次郎は、戸板に乗せられて帰ったと云う。
布団の上で半身を起こしていると、城から戻った東郷が尋ねて来た。
「そんままそんまま」座り直そうとする弁千代を制して畳に座った。「どうな、あんべは?」
「はい、もう大丈夫です。お見苦しいところをお見せ致しました」
「いや、近年稀に見るよか勝負じゃった。おいも、若っか頃ば思い出した」
「半次郎は?」
「奴もそろそろ動けるようになっとるじゃろ」
「そうですか・・・」
フッと東郷が、表情を改めた。
「よか報せと、悪か報せが一つづつある」
「はい」
「まず、良か報せじゃが、伊兵衛どんには何のお咎めも無かそうじゃ」
「良かった・・・」
「当然じゃが、鈴どんに悪さをしよった役人は謹慎になった」
「気の毒に・・・」
「大した姐御っぷりやったそうじゃな、おいも見てみたかった」
「ははは、鈴さんが照れます・・・して悪い報せとは?」
「郷中のもんがおはんを狙うちょる」東郷が腕組みをする。
「郷中とは?」
「二才の教育機関で質実剛健を旨とする集団じゃ。この郷中が半次郎の仇を討つと息巻いとる」
「然し、相討ちなのでは・・・」
「そげなこつは奴等には通用せん。おはんが女連れだっちゅうこつも気に喰わんらしか」
「何故に?」
「郷中の二才はどげんか理由のあろうとも、女と接してはいかんちゅう決まりがあいもんで」
「何と・・・」
「郷中の血気は、爆発すっとおいにも手がつけられん。護衛をつくっで躰ん動くようになったら、早々に出立すっが良か」
「はい、では明日にでも」
「慌てんで良か。明後日、おいが所用で國境いまで行く。そん時に同道せい、あ奴らもおいには手が出せんじゃろう」
「有難き幸せ。このご恩は一生・・・」
「ああ、みなまで言うな、こそばゆいわい」そう言いながら東郷は席を立った。「そいまでゆっくり躰ば休めておれ」
弁千代は座り直し、東郷の後ろ姿に頭を下げた。
夜半、庭に人の気配がした。弁千代は布団の中からそっと手を伸ばし、刀を引き寄せる。
「弁千代、弁千代・・・」押し殺した声が聞こえた。
「誰だ・・・」
「おいじゃ、半次郎じゃ」
「なにっ!」
「心配するな、おい一人じゃ」
蚊帳の裾を上げて、スッと半次郎が入って来た。
「おいはおはんに負けちゃおらん」第一声、半次郎はそう言った。
「ああ、その通りだ」
「じゃっど、郷中の奴等はおいが負けたと言いよる」
「何故だ?」
「こん流儀に相討ちはなか・・と」
「無茶な・・・」
「おいは必ずおはんと決着ばつくっ。そいまで誰もおはんには手ば出させん」
「・・・」
「おはんが東郷様と國境いまで行くちゅう情報はすでに嗅ぎつけとる。奴等はおはんが東郷様と別れた後を襲うつもりじゃ」
「どうすれば良い?」
「國境いには必ず見張りが二人居る、そいつらを倒せ」
「その後は?」
「おいが裏道を案内する。おいはまだ動けん事になっちょるで、奴等が出かけたら近道ばして國境付近に潜伏する」
「お主は?」
「おはんらば逃したら、しれっと郷中に帰っとくよ」
「済まん、恩に着る」
「もう一度言う、おいは必ずおはんば倒す・・・そいまで死ぬなよ」
半次郎は音も無く蚊帳から出て闇に消えた。
「おいたちゃ、こっから先へは行けん。くれぐれも用心して行っちくやい」
國境いまで来ると、馬上から東郷が言った。供侍達は地面に跪き控えている。
「色々とお世話になりました。東郷様も御健勝で」
「おはんらもな。時代が変わればまた会う事もあるやも知れん」
「では、これにて」
「鈴どんも達者でな」
「東郷様も・・・」
「やや子ができたら報せちくやい」
「まぁ、御家老様のお許しが出ましたよベンさん」
「な、何を・・・」弁千代は狼狽した。
「ははははは、頑張りやい」
「鈴さん、私から離れぬように」
「あれまぁ、嬉しいよぅ」
「違います!これからが正念場なのです」
「ベンさんと一緒なら、たとえ火の中水の中。なぁんてね」
「冗談を言っている場合ではありません。前方の祠の陰に一人、その先の大きな杉の樹の後ろに一人隠れています」
鈴がその方角を見ようとした。
「見ては行けません、知らんふりをして通り過ぎましょう」
二人は祠の前を過ぎ、杉の大木の脇を抜けた。
弁千代は鈴を先行させ、徐に振り向いた。
「そこのお方、出て来てはどうです!」
祠の後ろから一人現れた。
「そちらの方も」
「気付いておったか、侮れん奴じゃ」樹陰からもう一人が姿を現す。「中川伝令じゃ!走れ!」
中川と呼ばれた二才が道を逸れて走り出した。
「させん!」弁千代が帯に挟んで隠し持っていた棒手裏剣を放つ。
同時に樹陰から出て来た二才が抜刀した。奇声を発し弁千代に向かって突進する。
キェー!!!
半次郎の斬撃に慣れた目には、この二才の動きは遅く見えた。
充分な余裕を持って、柄頭を水月に突き入れる。二才はドゥ!と前のめりに倒れた。
中川の背には手裏剣が浅く突き立っていたが、中川は必死で走ろうとしていた。
然し、速度が鈍り弁千代に追いつかれてしまう。
「御免!」
背後から頸に手を回し締め落とす。
「見事じゃ!」
何処からともなく半次郎が現れ近寄って来た。
「おいでん、こげん手際じゃできもはん」
「半次郎・・・」
「急ごう、見つかると厄介じゃっで」
弁千代は半次郎の後を、鈴の手を引いてひたすら山道を進んだ。頂を超えると遠くに海が見えた。
「もう、大丈夫じゃ」
「世話をかけた」
「ありがとぅ、半次郎さん」鈴が礼を言った。
「約束を忘るっな!」
「おお!」
「さらばじゃ!」
半次郎は踵を返すと全力で駆けて行き、あっという間に見えなくなった。
「本当に、また会えるのだろうか・・・」弁千代が呟いた。
これから二十年の歳月を経て田原坂で会う事になろうとは、現時点での二人には知る由もなかった。




