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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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海賊の城


海賊の城



「少なくとも十日は動かぬように」

禿頭の医者は、そう言って席を立った。

宿坊の僧に、毎日新しい晒と交換するよう指示を出し、駕籠に乗って帰って行く。

医者が帰ると急に静かになった。


「弁千代殿」慎之介が訊いた。「何故、金剛杖だったのです?」

「それはあの時申し上げた通りです」

「弁千代様、私は貴方様を一瞬でも恨んだことを後悔致します」紗季が弁千代を見詰めて言う。「ですから、それは・・・」

「紗季、もう良い。弁千代殿が困っておるではないか」房はそう言って弁千代に向き直った。

「早速じゃが婿殿が見つかったからには、我々は一刻も早く殿様に御報告せねばならぬ。気が急くでこれからすぐに出立するが、此処と医者の払いは儂のヘソクリで済ませておく。なに、弁千代殿のおかげで思うたより早く婿殿に会えたので心配は要らん。弁千代殿は早う傷を癒して武者修行の旅を続けてくれろ」

一気にそう言うと、慎之介と紗季を急かして立ち上がった。

「弁千代殿は、これからどこへ行かれるおつもりか?」別れ際に慎之介が訊いた。

「まだ、決めておりません。これからゆっくり考えます」

「ならば、南へ行かれるのが宜しかろう。武術の盛んな土地柄でありますれば」

「有難うございます、きっとそう致します」

「御武運をお祈り致します」

「・・・あの」紗季が何か言いたげに口を開いたが、房に睨まれて俯いた。

慎之介と紗季が房に急かされて出て行った後、弁千代は天井の節穴を見上げて考えていた。

「南か・・・」



「もうそろそろ動いても良ろしかろう」

医者がそう言い残して帰ったのと入れ替わりに、宿坊の僧が入って来て弁千代に手紙を渡して出て行った。

「誰だろう?」

表書きには確かに中武弁千代様と書いてある。裏を返すと紗季とあった。

封を切ると二通の書状が出て来た。一通に目を通す。


お怪我の具合は如何ですか?

夫は無事役職に戻る事が出来ました。

母は腰の事もすっかり忘れてしまったように元気です。

それもこれも弁千代様のお陰と心より感謝致しております。

あの時貴方が剣を持っておられたら、と今更ながら恐ろしく思い出されます。

ところであの折夫の申しました南とは、伊予の國の事だと推察致します。

伊予の國には刀傷によく効く温泉があり、そこでゆっくり養生されることをお勧め致します。

幸い、私の親戚筋が湯築旅館という温泉宿と懇意にしており、同封の紹介状を持ってお行きになれば何かと便宜を図ってくれましょう。

一日も早く快癒されることを念じております・・・紗季


要約すると以上のことが書いてあった。

「温泉かぁ、それも良いかも知れんな・・・」



「長々とお世話になりました」

翌朝、弁千代は宿坊の僧に挨拶をして出立した。

傷はまだ突っ張っており、足を引き摺るようにして歩いた。

山道を避け海沿いの道を行く。札所を辿って行けば迷う事は無い。

七日をかけて伊予の國に到着した。


湯築旅館は大きな城跡の前にあった。城の建物は朽ち果てて跡形もなく、木が生い茂りこんもりとした丘を形成している。

辛うじて堀の跡だけが、嘗て此処が城であった事を物語っていた。


「いらっしゃいませ。お泊まりですか?」

開け放たれた玄関の敷居を跨ぎ訪を告げると、出て来た番頭らしき男が弁千代に尋ねた。

「はい、都の佐々木殿よりこのような書状をお預かりして参った者です」

弁千代は、紗季から貰ったもう一通の手紙を番頭に手渡した。表書きには河野伊兵衛様とある。

「少々お待ち下さい」番頭は手紙を持って奥に引っ込んだ。

上がり框に腰掛けて暫く待っていると、先ほどの番頭を従えて古武士のような風貌の男が出て来た。

「当旅館の主人、河野伊兵衛と申します。紗季殿からくれぐれも粗相の無いようにと申し使っております」

伊兵衛は慇懃に挨拶をし頭を下げた。

「中武弁千代と申します。故あって佐々木殿とは面識を頂き、このようにご紹介いただきました。どうぞよろしくお願い致します」弁千代も立ち上がり頭を下げる。

「このようなむさ苦しい所では御座いますが、お気の済まれるまでご逗留下さい・・・これ番頭さん、すぐに濯ぎをご用意なさい」

「はい、只今」番頭は急いで立ち上がり奥に消えた。

むさ苦しいどころでは無い、大きな武家屋敷を思わせるような佇まいの旅館である。

濯ぎを済ませ部屋に案内されると、再び伊兵衛が現れた。

向き合って座ると、徐に伊兵衛が口を開いた。「武者修行の途中で怪我をなされたとか。この温泉は昔、闘争に明け暮れた水軍の兵達が傷を癒した場所です。きっとお気に召されるかと存じます」

「では、前の城跡は・・・」

「嘗ては水軍の城、河野通信の城で御座います」

「では、貴方は」

「はい、河野氏の末裔に御座います」

弁千代は目を瞠った。この男の風貌もこの旅館の佇まいも、武士のものだったのだ。

「いずれ、傷が治られたら改めてお頼みしたき事がございます」伊兵衛が意味深に微笑んだ。

「頼み・・・ですか?」

「いえ、大したことでは御座いません。ですから遠慮なさらずに、此処を我が家と思ってお過ごしください」

伊兵衛は頼みの内容を語らなかったが、今更断る事も出来ない。弁千代は腹を括って、伊兵衛の世話になる事にした。

「ありがとう御座います。どうぞ良しなに」


この旅館の湯場は地下にあった。階段を降りて行くと岩に囲まれた大きな浴槽が見える。

弁千代は衣服を脱ぎ、垢を流して湯に浸かる。湯の温かさがゆっくりと傷に染み渡った。

「ああ、気持ちいい。なんだか生き返った気分だ」

弁千代は湯の中で岩に凭れて目を瞑った。



翌日から、弁千代は城跡の周りを精力的に歩き始めた。温泉に浸かり動き回ると躰がみるみる元通りになって行くのが分かる。

夜、誰もいない城跡で剣を抜き一人稽古をした。ゆっくりとした動作で”形”を使うと、心が鎮まって行くのを感じる。

弁千代が湯築旅館に逗留して十日余り過ぎた頃、稽古をしていると微かに人の気配がした。「誰だ!」弁千代が闇に向かって誰何する。ガサリ!と音がして気配が消えた。

「狸かな?」

そんなことが二、三日続いたある日、弁千代が湯に浸かろうと湯場に行くと先客が居た。

「失礼・・・」弁千代は躰を流し湯船に入った。

湯気の向こうの人影が動く。良く見ると元服前の少年であった。

「中武弁千代様ですね?」

少年は立ったまま弁千代の前まで来た。

「貴方は?」

「河野愛一郎」毅然として答える。

「河野?・・・では此処のご亭主の」

「嫡男です」

少年は弁千代の目を正面から見据えてこう云った。

「貴方の傷が癒えたら、私と太刀合ってください」

「それが・・・」

「父の頼み事です」



「愛一郎がそのような事を・・・」伊兵衛が云う。夕食に招かれ酒を酌み交わしていた時の事だった。

「はい」

「彼奴目、急いてはならぬと云っておいたのに」

「真剣な目でした、怖いくらいに・・・」

「で、何とご返事を」

「承知しました・・・と」

突然伊兵衛が畳に手を着いた。

「忝ない、あれは乱暴者ですが武術の筋は良いのです。ただ、未だ良き師に巡り合えていない」

「私は、師にはなれませぬ」

「いえ、貴方様に太刀合っていただければそれだけで・・・」

「太刀合いは木剣であっても真剣と同じ、それでも・・・」

「構いませぬ」

伊兵衛はそう云って再び頭を下げた。



愛一郎は海辺の漁師の村にいた。

周りには同じ年頃の少年達が五、六人、愛一郎を取り巻くように立っている。

愛一郎は木刀を、少年達も思い思いの得物を手に持っている。

「お前達か、町の寺子屋に通う子供らを脅しているのは?」愛一郎が少年達を見据えて云った。

「誰だお前!」大将らしき少年が訊いた。

「河野愛一郎!」

「河野?ああ、親父が言っていた。湯築旅館の河野様は俺たちの主筋だと」

「そうなのか?」

「知るか!俺たちには関係ねぇ。それより何の用だ!」

「子供らを脅すのはよせ!」

「馬鹿野郎!あいつらが俺たち漁師を見下していやがるんだ。だから懲らしめただけだ」

「それはお前たちの僻みだろう!」

「何を、愚図愚図ぬかすとお前も同じ目に会うぞ!」

「面白い!やってみろ」

「なにっ!後で吠えずらかくなよ!」

大将格の少年が仲間たちに手をあげると、少年たちは一斉に愛一郎に飛びかかった。

愛一郎は自ら少年たちの中に飛び込んで行った。愛一郎の木刀が動くたびに、少年たちは悲鳴をあげて蹲った。

「もう終わりか?」愛一郎が訊いた。残ったのは大将格の少年一人だ。

「くそっ!」

「名を聞いてやろう」

「何っ!」

「名は何と云う!」

「権之助・・・」

権之助は完全に呑まれているように見えた。棒きれを持ったまま動けない。

愛一郎が前に出る、権之助はズルズルと後退る。

「今だっ!」番屋の前まで下がった時、権之助が叫んだ。

「おらよっ!」愛一郎の後ろで起き上がった少年達が一斉に声を上げた。

頭の上から漁網が降ってきた。愛一郎は網にかかった魚のように動けなくなった。

「いい気味だ、たっぷりと礼をしてやるぜ!」

少年たちの顔が迫って来て、急に目の前が暗くなった。




「その顔は・・・どうなされました?」湯船の中で弁千代が訊いた。

「何でもありません」愛一郎が憮然とした顔で答える。

目の周りは痣になり唇が切れている。よく見ると身体中青痣だらけである。

「戦いの時は、一点に集中してはならぬ・・・」

「えっ!」

「と、私の柔術の師が云っておりました」

「なぜそのようなお話を?」

「さあ・・・ふと思い出しただけです」

「でも、相手に集中しなかったらどうするのですか?」

「視野を拡散するのです。全体を等分に観る」

「それではただボ〜としているだけではないですか」

「そう、それから拡散した視野の中で心を高速で回し、瞬時に部分に集中するのです」

「それは矛盾ではありませんか?」

「そう、矛盾です。拡散しながら集中する」

「・・・」

「武術とはそうした矛盾を矛盾なく統一する術の事なのです」

「分かりません・・・」

「ははははは、実は私も良く分からないのです。然し、これが出来なければ武術の大成は無い」

「弁千代様・・・」

「何でしょう?」

「今日、太刀合って頂けませんか?」

「今から?」

「はい・・・駄目ですか?」

「良いでしょう」

「本当に?」

「如何にも・・・では、戌の下刻に城跡でお会い致しましょう」




月が明るかった。下手な曇天よりよく見える。

弁千代は右手に木刀をぶら提げてただ立っている。

愛一郎は腰を深く落とし、剣を後方に退いた。

「参る!」

タタタタタ・・・愛一郎が小走りに間合いを詰める。

弁千代の構えは変わらない。

「チェーィ!」

地を蹴って愛一郎の躰が宙を舞った。大上段の剣を弁千代の頭頂に振り下ろす。

躱したようには見えなかった。

愛一郎の剣が空を斬り、強かに地を打った。すぐに態勢を立て直す。

相変わらず弁千代は呆けたように立っている。

二度三度、踏み込みながら剣を繰り出す。だが、弁千代には掠りもしなかった。

それほど動いた訳でも無いのに息が上がる。

「動きが大きすぎます。それでは丸見えだ」

弁千代が言ったので、今度は剣を小さく振った。

「それでは小さすぎて斬撃力に欠ける」

なにっ!ではどうすれば良い?

「もう、終わりですか?」

「まだだっ!」

もう、基本の太刀筋に構ってはいられなかった。全力で剣を振るう。全て躱された。

「いくら速くても同じ調子なら此方の目が慣れる」

万策尽きた。これが最後だっ!捨て身の突きに行く。

月が、グルンと回った。

気がつけば、月が目の前にあった。


虫が鳴いている。秋の虫か?

「気が、すみましたか?」弁千代が問う。

「何故、私の剣は弁千代様に掠りもしなかったのでしょう?」

「さあ、私にも分かりません。ただ一つだけ言えることは、愛一郎殿は『大きく動く事と、結果として大きく動けている』事の違いがお分かりになっていないという事です」

「どうやったらそれが分かるのですか?」

「それはご自分でお考えになる事です。それが修行でしょう」

「・・・」

「湯に、行きますか?」

「はい・・・」




湯築旅館に戻ると、玄関先に人だかりが出来ていた。

漁師の少年達とその親であろう人々が、伊兵衛に向かって頭を下げている。

「このボンクラ達が大恩ある河野家の惣領様に怪我をさせたと伺い、取るものも取り敢えず駆け付けて参りました。どのようなお叱りも覚悟しております、いかようにも罰をお与えください」

そう言って土下座をしているのは権之助の父親に違いない。権之助の頭を押さえて、地面に擦り付けている。

「何をおっしゃいます権太さん、河野家があなた達の棟梁であったのは昔の事、今はただの旅館の親父、喧嘩は両成敗ですそのように謝られる事はありません」

愛一郎が、つかつかと人の群れに歩み寄る。

「親父殿!怪我をしたのは私の未熟故の事、権之助達に罪はありません」

権之助がびっくりした顔で振り向いた。

「お前・・・」

「さあ、権太さん、お聞きの通りです。頭をお上げください」

そう言って伊兵衛が権太の手を取って立ち上がらせた。

「権之助、付き合え」愛一郎が大声で言った。

「どこに?」

「湯場だ」

「お、おう。だけど、こいつらも・・・いいか?」

「当たり前だ。みんな来い!」

愛一郎が湯場に向かって歩き出した。

「ならば私は失礼します」弁千代が愛一郎に声を掛ける。

「先生、御免なさい。今度ゆっくり話を聞かせて頂きます」愛一郎が頭を下げた。

弁千代は笑って少年たちの姿を見送った。





ガッ!

弁千代の剣が愛一郎の剣を受け止めた。勿論木剣である。

「遅い!其れでは日が暮れてしまう」城跡の森を背にして弁千代が言った。

愛一郎が憮然とした表情で剣を引き、構えを解いた。

「今のは私の最速の技でした」

「速いとはそういう事ではありません」

「ではどう云う事なのです?」

「貴方の速いは相対的なもの、私の云う速いとは絶対的なものです」

「絶対的?」

「そうです、部分的に速くてもそれは却って遅くなるのです」

「何故なのですか?」

「他の、動いていないところとの差によって、動きが目立ってしまうからです。それでは幾ら早くてもそこを咎められてしまう」

「分かりません」

「例えば、壁に一匹の御器齧りが居たとしましょう」

「変な例えですね」

「ははは、他に思いつかない。で、固定した壁の表面で御器齧りが動けば目立つでしょう?」

「それは・・勿論」

「では、後ろの壁が常に動いていればどうでしょう?」

「そんな壁はありません」

「だから、例えなのですよ」

「う〜ん・・・御器齧りが動いているのか止まっているのかわからない」

「然し実際には動いているのですよ、その動きが見えにくくなっているだけで」

「・・・」

「それと同じ現象を、躰で造るのです。躰を最大限に使う事が出来ればそれが可能になります」

「では、私は躰の一部しか使っていないと云う事なのですね?」

「そう云う事です」

「なんだか騙されているような気分です」

「然し、結果がそう告げている」

突然、愛一郎が跪いた。

「先生!私は自分が納得しなければ気が済まない質なのです。もう暫く御逗留ください、そして私に教えてください!」


「愛一郎殿、武術は実戦だけで強くなるものではありません、理論を伴った学問なのです、その事を忘れないで頂きたい」

「では・・・」

「貴方には才能がある、私の知る限りのことを伝えましょう」

「本当ですか?先生、有難うございます!」

「私は先生などでは無い、一介の武者修行。その事もお忘れなく」

弁千代は空を見上げた。

「では、そろそろ帰って飯にしましょう・・・腹が減った」

「はい・・・先生」





その日、湯築旅館は朝から大忙しであった。

伊兵衛は三十人からいる使用人を集めて注意を与えた。

「今日は、城のお目付役配下の侍の宴が当旅館で催される。日頃抑制されている侍の酒席は乱れる事が多い、皆心してくれぐれも粗相の無いように注意しておくれ」

使用人達は緊張した面持ちで頷いた。

「それから番頭さん、芸者衆の準備はできておりますか?」

「はい、お役人の宴会は予算が渋く決っして十分にとは参りませんが、流しの三味線弾きも雇いましたのでなんとか格好はつくと思います」

「そうですか、宜しく頼みましたよ」

「どうぞ、大船に乗ったつもりでお任せ下さい」番頭は胸を張った。その軽さに伊兵衛は不安を覚えた。



宴は黄昏時に始まった。遠くから三味線の音が聞こえてくる。

なんとなく騒ついた雰囲気に、弁千代は風呂を諦め、二階の部屋で愛一郎に武術の講義を始めた。


「愛一郎殿、人は骨と肉で動いております。どちらも大切なのは変わりありませんが、近頃は肉に重きが傾いているように思います」

「肉とは筋肉の事ですか?」

「左様です、肉は安定しません、歳を取れば衰えます。そのような不確かな物に命をかけることは得策ではありません」

「では、骨に重きを置け・・と」

「そうです、我が国では古来骨に纏わる言い回しが多くあります。曰く『骨休め』曰く『骨が折れる』曰く『コツ』・・・」

「確かに」

宴会場からドッと声が湧いた、盛り上がっているのだろう。

弁千代は続けた。

「骨を意識した動きを追求することが武術の本筋だと推察致します」

「筋肉は必要が無いと?」

「そうではありません。要はその使い方に有るのです」

「使い方?」

「筋肉は姿勢を安定させるために使うべきなのです。姿勢とは姿の勢いと書くでしょう?正しい姿勢には其れだけで力があるのです」

「なるほど・・・」


その時、突然女のけたたましい声が聴こえて来た。

「冗談じゃ無いよ!あっちを誰だと思ってやがるんだい!痩せても枯れてもこのお鈴姉さんは芸で身を立ててるんだ、その辺の売女と一緒にするんじゃ無いよ!」

「何だと!流しの三味線弾きが生意気な。そこに直れ成敗してくれる!」

「面白い、やってもらおうじゃ無いか!」ドスン!という音が聴こえた。畳に倒れこんだような音だ。

「さあ殺せ!」


「お鈴?」聞き覚えのある名だ。弁千代はスッと立った。

「先生、何処へ?」

「ちょっと見てくる、愛一郎殿はここを動かぬように」

そう言い置いて、弁千代は階段を降りて行った。


宴会場は、襖が開け放たれており中が丸見えだった。十人ほどの武士が座っている、中央で女が大の字に寝ていた。芸者たちの姿は見えない。

「この女!大人しくしていれば付け上がりおって!」中年の武士が立ったまま叫んでいる。薄くなった頭に髷がちょこんと乗っており、脂ぎった顔が怒りで歪んでいた。

中年の武士が、女の襟首を掴み引き起こそうとした。

「お待ちください」

場が、一瞬静かになった。女が怪訝な顔で身を起こす。

「あっ、ベンさん!」

弁千代はニッコリと微笑んだ。「やっぱり鈴さんだ」

呆気にとられていた武士が我に返った。「何だ貴様!」

「あっ、これは失礼した。中武弁千代と申す」

「この女の知り合いか?」

「如何にも」

「ならば責任を取ってもらおう」

「何の?」

「この場を台無しにした責任だ」

「何を言ってるんだい、場の雰囲気を壊したのはお前じゃないか、芸者衆が遅いからって私にいやらしい真似を・・・」

「もういいよ、鈴さん」弁千代は中年の武士を見据えた。「この場はどう見ても貴方の方が分が悪い、どうでしょう、ここらでひとつ矛を収めて大人の貫禄をお示しになられては?」

そう言われて大人しく引き退る事は出来ない、要は武士の対面に関わる事なのだ。

中年の武士は激怒した。「ならんならん!者共、此奴らを斬れ!」

その場に居合わせた武士達は、見知らぬ若侍と三味線弾きより上司が怖い。箱膳を蹴って立ち上がり二人を取り囲む、流石にまだ脇差を抜く者はいない。

「皆さんも女に怪我はさせたくないでしょう?鈴さんを座敷の外に出してください」弁千代が武士たちを見回した。

「ベンさん、私も戦う」

「邪魔なのです。いくら私でも鈴さんを守りながらこれだけの人数と戦う事は出来ない」

人垣が開いた、鈴は渋々広縁に出る。

「これでよし。参ろうか」弁千代は落ち着いていた。何度も死線を潜った者の強みであろう。

ジリジリと輪が縮む。流石に無闇に飛び込んでは来ない。

「ならば、こちらから」弁千代はいきなり正面の敵に向かって行った。

輪が広がる。正面の敵だけが誘われるように前に出た。

うわっ!宙を飛んで座敷の真ん中に落下した。

それを合図にドッと敵が殺到する。

当身、『多敵には投げよりも当て身を多用せよ』無二斎の教えである。

転移の効かない蹴りは使わない。弁千代は畳の上を滑るように移動した。

敵の躰を盾にし、また武器にして縦横無尽に戦った。気が付けば中年の武士一人が立っていた。

いつの間にか愛一郎が唖然として鈴の横に居た。

「おのれっ!」脇差を抜いた。

「その脇差で切腹でもなさるおつもりか?」

「黙れっ!」敢然と突いて来たが腰が引けている。

弁千代の一本拳が深々と中年の武士の鳩尾に突き立った。脇差を取り上げ髷を切る。

「お主は武士では無い」


伊兵衛が飛んできた時には全てが終わっていた。

「中武様・・・」

「伊兵衛殿、飛んだ不始末をしでかしてしまいました」素直に頭を下げる。

「何の、それよりお怪我は?」

弁千代は首を横に振った。

「愛一郎!」伊兵衛が呼んだ。

「はい!」

「中武様とそこの女人をすぐに権之助のところへお連れせよ!」

「親父殿は?」

「ここの始末をつけねばなるまい。あとで書状を届ける、くれぐれも見つからぬようにな」

「承知致しました!」

愛一郎は、弁千代と鈴を先導して暗い夜道を駆けた。





「鈴さん・・・どうして?」

権之助の家の囲炉裏の前で、弁千代が訊いた。

「あっちは、根っからの流しの三味線弾き、落ち着いた暮らしには馴染めないよぅ・・・それにベンさんにも会いたかったしさぁ」あっけらかんとしたものだ。

「私に会える保証は無かった・・・」

「勘さ、世の中に偶然は無いよ、だってこうして逢えたんだから」

「あはははは、違いない」弁千代は久しぶりに笑った気がした。

「ところでベンさん、これからどうする積りだい?」

「さあ・・・どうしようかな」

「先生、もうすぐ父から書状が届きます。それからお考えになってはいかがですか?」

「愛一郎殿、済まぬ。もう湯築旅館には戻れそうも無い」弁千代が頭を下げた。

「何を仰います先生。これからは先生の教えを杖にして精進します、文武は理論と実践ですからね」

「貴方なら出来ましょう」

ガラリと戸が空いて権之助が入って来た。外を見張っていたらしい。

「誰か来る!」

愛一郎が外に出て見ると、番頭が息を切らせて駆けて来た。

「旦那様の書状をお持ちしました。今、湯築旅館は役人達で大わらわです、隙を見て出て来ましたのですぐに戻らねばなりません」

「ご苦労でした」愛一郎が労った。

「ただ、鈴殿と中武様にひと言お詫びを・・・」

「詫びには及びませんよ」弁千代も外に出て来た。

「いえ、私の差配がいい加減だった所為で・・・」

「お陰でベンさんに逢えたんですよぉ、気にしないでくださいな」鈴が出て来て言った。

「そう仰って頂くと気が楽になります。では気が急くのでこれで・・・」そう言って番頭は、来た道をあたふたと戻って行った。




「親父殿は何と?」

「うむ・・・」答える代わりに書状を見せた。

一読して愛一郎が顔を上げる。

「これは・・・」

「権太殿、窟の船とは?」弁千代が尋ねた。

「はい、儂らの先祖の船です。窟に隠してある」

「先祖とは水軍の事ですか?」

「そうです、いまの御城主様になった時、他の船は全部取り上げられたが、安宅船を一隻だけは隠し通したのです」

「それで、隼人の國に渡れと・・・」

「確かに、あそこなら役人の手も届かない」愛一郎が頷く。

「しかしあれを動かすにゃ村の半分の人数がいる」

「金の心配は要らぬと親父殿が・・・」

権太は眉間に皺を寄せて腕を組んだ。暫く考えてゆっくりと目を開く。

「権之助!伝令じゃ。村中に伝令を出せ、我が棟梁様の一大事じゃと!」

「分かった親父!」権之助は一度飛び出してからすぐに戻って来た。

「俺も連れて行ってくれるか!」

「当たり前じゃ!早よ行け!」

嬉々として権之助が駆けて行く。



大きな船だった。水軍の船としては中型だという事だったが、まるで城のようだ。

「中武様、お達者で」伊兵衛が言った。

「お世話をかけました」

「何の、いまの侍は腰抜じゃ、いずれ儂らの時代が来る。それよりも愛一郎は良い師を得た」

「はい親父殿」愛一郎は弁千代を見た。「先生、必ず武の真髄を掴みます」

「焦らず、ゆっくりと・・・な」


「棟梁様、風が出て来た、潮も良い。この潮に乗って漕ぎ出します!」

船の艫から権太が叫ぶ。

「おお、そうか。権太殿宜しく頼む!」

「これは隼人の國の東郷様への紹介状です。彼の国は他所者を拒みますがこれがあれば大丈夫でしょう」そう言って伊兵衛は書状を弁千代に渡した。

「かたじけのうございます」

弁千代と鈴は小舟に乗った。

「お世話になりました」もう一度頭を下げた。

「番頭さんに宜しく」鈴も腰を折る。

「御武運を祈ります」

「先生、また来て下さい」


小舟はあっという間に安宅船に着き、二人は縄梯子を伝って乗り込み艫に立った。

権之助も側に来た。

「権之助!任せたぞ!」愛一郎が叫ぶ。

「おお!任せとけ!」権之助が応えた。

船は錨を上げて伊予の國を後にした。愛一郎と伊兵衛は船の影が見えなくなるまで見送っていた。













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