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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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死者の世界



死者の世界



川で水垢離をとって禊を済ます。ここから先は死者の世界だ。

金剛杖は卒塔婆を意味すると聞いた事がある、自分の墓を持ち歩くのだ。

山の中腹に三重の塔が見えた、修験の山には神と仏が同居する。

長い石段が続く、コツコツと杖を突く音だけが異界に響く。

平らな場所に出る、倒木に腰を下ろし竹筒から水を飲んだ。

遠くに岩場が見える、あの岩を登るのだ。

さらに石段が続く、さっきより急な傾斜になっている。息が切れた。

石段を登りきったところに先程見た三重の塔があった。そこから先に石段は無い。

背の低い植物の密生する獣道を、岩場に向かって進む。

霧が出てきた。足元の石が滑って歩き難い。一寸先も見えなくなった。

金剛杖が役に立つ、転ばぬ先の杖とはよく言ったものだ。

命の気配がしない、ここはやはり死者の世界なのだ。

小さな沢の両側に無数の小石が積んである。こんな山の中に賽の河原はあったのか。

狭い岩の割れ目から、縄が覗いているのが見えた。ここを登れという事か?

縄に取り付いて狭い隙間を登って行く。ある筈もない赤子の時の記憶が蘇る。

母の産道を抜けるときの記憶だ。苦しい、このような思いをするのなら死んだほうが楽だ。

そう思った筈だ。

やっとの思いで産道を抜ける。苦しかったので大声で泣いた。

然し、周りの大人達は満面の笑みで微笑んでいる。何がそんなに嬉しいのか?

これから辛い人生が始まるというのに。

縄を離すと大きな岩の上に立っていた。遠くに海が見え、眼下には人の営みも見えた。

霧はすっかり晴れていた。


法螺貝の音が聞こえた、神仏を拝する時に吹かれるという。近くに山伏が居るのだ。

岩場を音の鳴った方角に向かって進む。地の底から湧いて出るように人影が現れた。

六根清浄・六根清浄・・・と繰り返し唱えている。

死装束の群れが一列になって向かって来る。皆、宝冠を被り注連を持っている。勿論金剛杖も。

群は、弁千代などそこにいないというように目の前を通り過ぎて行く。

慌てて最後尾の山伏に声を掛けた。

「もし、お尋ねしたき事が御座います!」

しばらく行き過ぎてから、山伏が振り向いた。

「何用じゃ!」

「その中に、佐々木慎之介殿はおられませんか?」

「佐々木・・・理性坊の事か?」

「理性坊?」

「ここでは下界の名前は通用せん」

「では、その理性坊殿はどこに?」

「この中にはおらん。奴は一人で修行場を駆け回っておる」

「修行場は広いのですか?」

「ここから先、この山全部が修行場じゃ」

弁千代は暗澹たる気持ちになった。この広い山の中で一人の人間と巡り合うのは奇跡に近い。

途方に暮れていると、その山伏が言った。「法螺貝を吹いてやろう。産道石の頂で待て」

産道石とは、さっき弁千代が縄を伝って登って来た石だ。

山伏は徐に法螺貝を取り出して口に当てた。

ブ〜レホ〜〜〜・ブ〜レホ〜〜〜

暫く待つと、遠くから法螺貝の音が応える。

ブォ〜・ブォ〜・ブォ〜

「これでよし。では儂は行く」山伏はサッと踵を返し仲間の後を追った。

「あ、ありがとうございます・・・」もう山伏の姿は見えなかった。


弁千代は産道石まで戻り、その上に胡座をかいて握り飯を食った。

飯を食うと睡魔が襲って来た、暖かい日差しを浴びながら産道石に寝転がる。


どれくらい眠ったのだろう、微かな人の気配で目を覚ました。

「お主か、私を呼んだのは?」

先ほどの山伏と同じ格好をした男が立っている。腰に太刀を佩いている事だけが違っていた。

「理性坊・・・否、佐々木慎之介殿ですか?」ゆっくりと起き上がりながら弁千代が訊いた。

「いかにも、俗世ではそう呼ばれておったな」

「私は中武弁千代、武者修行の者です」

「その武者修行が何の用だ、太刀合いは御免だぞ」

「はい、それもお願いしたい事ですが・・・まずはこれをお読み下さい」

そう言って弁千代は懐から手紙を出し慎之介に手渡した。

慎之介は手紙を受け取り、封を切って読み始める。

殿が・・・と小さく呟く。

全ての手紙を読み終え、慎之介が問うた。「この手紙をどこで?」

「大剣神社の神職から預かりました。房様、紗季殿も下の札所で待っておられます」

「姑殿、紗季・・・」

弁千代は二人と知り合った経緯を手短に語った。

「私と一緒に山を降りては頂けませんか?」

「然し、私は脱藩の身・・・」

「殿様はお許しになると言っておられるのでしょう?」

「だが・・・」

「現実の世界から逃げてどうするのです、貴方には守るべきものがあるのではありませんか?」

「う、むむう・・・」

「紗季殿は、本当の強さとは優しさだと言っておられましたよ」

「紗季が・・・」慎之介は項垂れて目を瞑った。涙が一雫、産道石の上に落ちた。

「儂は、優しくなど無かった、ただ臆病なだけだったのだ」

「争いをお厭いになる気持ちはよく分かります。それは貴方の優しさです、優しさは強くなるための大きな資質なのです」

慎之介はしばらく黙ったまま項垂れていたが、徐に顔をあげて言った。「分かった、山を降りよう」




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