修験の山
修験の山
「甘くて美味しい!」
アケビを手に持って、紗季が呟いた。
「婆婆は騙されませぬぞ!」そう言いながらも、老婆はアケビを美味そうに食べている。
「あはははは。いつかは信じて下さい」
「私は、貴方様を信じます・・・」紗季が老婆を気にして控えめに呟く。
「剣山の麓に十二番札所があります。そこの宿坊に母様を預けて、私は剣山に登ります」紗季が覚悟を口にした。
「然し、修験の山は女人禁制。私が宿坊まで婆婆様を背負いますので、そこで待っていて下さい。必ず佐々木殿を連れて戻ります」
「でも、見ず知らずのお方にそのようなことをお願い致しては・・・」
「構いません、私も佐々木殿にはお会いしたいのですから」
「不穏な動きを見せれば、婆婆がその首に齧り付きますぞ!」
「どうぞお好きに・・・私は中武弁千代と申します」
「私は佐々木紗季、母は房と申します」
三人は、そこで初めて互いの名を知った。
「ところで、佐々木殿は何故剣山などに御隠れになったのですか?」
「話せば長い事ながら・・・夫はさる藩の賄方を務めておりました」
「賄方?」
「はい、殿の食事を司る役職にございます。幼い頃より武術を好み、役目の合間に稽古に励んでおりました。居合術に頭角を表し、ひょんな事から殿のお目に止まる事になったのです」
「それが、こんな事になろうとは・・・」房が憎々しげに呟く。
「殿のお戯れで、藩の武術指南役の宮本海老蔵様と太刀合う羽目になったのです」
「なんと!」
「宮本様は、賄方如きを試合の相手に指名された事に腹を立て、真剣での勝負をお望みになりました」
「それで、佐々木殿が勝ったのですね?」
「はい、宮本様は生きておいでですが、二度と剣を持てない躰になってしまわれた」
「然し、それは武士の習い、仕方のない事ではありませんか?」
「そうなのです・・が、それ以来宮本道場の門弟達が、必要に夫を付け狙うようになりました。無用な刃傷沙汰も二度や三度ではありません」
「それは酷い・・・」
「その事に嫌気がさし、夫は脱藩して山に篭った。殿もご自分の戯れが原因だと仰せられ、今戻れば脱藩は不問に付し、元の役職に戻れるように計らうと、宮本道場にも厳重に注意を申し渡すと仰ってくださったのですが・・・いくら手紙を出しても返事が返って参りません」
「それでお二人は、そのような格好で佐々木殿を迎えに来られたのですね?」
「そうじゃ。婿殿は腕は立つが優し過ぎてどうにもならん、もう少し気が強ければ・・・」
「母様、本当の強さとは優しさなのではありませんか?」
「それでは武士は務まらぬのじゃ!」
「分かりました、兎に角大剣神社に行ってみましょう。そこで尋ねれば修験の事は知れましょう」
房を背負って出発した、剣山に近づく程道は険しさを増す。
「紗季殿、大丈夫ですか?」弁千代は振り返って、後から来る紗季に声を掛けた。
「弁千代様こそ・・・母様を背負って・・・キツくありませんか?」紗季が喘ぎながら答える。
「なに、大した事はありません。それよりもあの上に見えるのが札所でしょう、もう少しです頑張って下さい」
「はい、かたじけのう・・・ございます・・・」
女の足では辛かったのであろう、紗季はやっとの思いでそれだけを口にした。
「紗季、婆婆は弁千代殿の背に揺られながら考えたぞ・・・やはり強さとは優しさじゃ、婿殿に逢うても責める事は止そうと・・・な」
「母様・・・」
紗季はそっと目頭を押さえた。
札所に着くと、お参りを済ませ早々に宿坊に案内してもらった。
房を布団に寝かせるとようやく人心地がついた。
「明日の朝早く出立します。お二人はここで私の帰りをお待ち下さい」
「何卒よろしくお願い致します」紗季が畳に手を着いた。
「弁千代殿、婆婆からもお頼み申します。婿殿を必ず・・・」房は弁千代に手を合わせた。
弁千代には佐々木慎之介を連れ戻す自信はなかった。然し、老い先の短い年寄りにそのようなことを言っても詮無いことである。
「ご心配には及びません、安心して待っていて下さい」そう答えていた。
その晩は、精進の粗末な食事を摂り早めに床についた。
次の朝、宿坊の僧に握り飯を作ってもらい、二人を呉々も宜しくと言い置いて札所を出た。
道は急な上り坂となって松林に入り、視界が極端に悪くなる。坂を登りきった所でいきなり視界が開けた。
幾重にも重なる山の斜面は薄っすらと色づき、秋が近い事が分かる。
熊笹の茂る道をしばらく登ると小さな鳥居が現れた。大剣という名から、大層な神社を想像していた弁千代は少々面食らう。
鳥居を潜り参道を歩くと、正面に神殿があった。神殿は大きな岩に挟まれて窮屈そうに建っている。
鰐口に手を伸ばし柏手を打ち、山の神様に挨拶をした。
左手に小屋がある。どうやら社務所らしい。
「どなたかな?」
人の声に振り向くと、浅葱色の袴を履いた神職が立っていた。山羊のような顎髭が白い。
「はい、少々ものを尋ねに参った者で御座います。修験者の事についてお尋ねしたいのですが」
「ほう、どのような事かな?」
「私は、中竹弁千代と申す武者修行で御座います。こちらに佐々木慎之介殿と言う侍が山伏と共に修行をしていると伺って参りました」
「はて、そのお侍なら一月ほど前に山に入ってからまだ下山してないが・・・、手紙も何通か預かっているが渡せてはおらん」
「それほど長く山に篭るものなのですか?」
「修行は人の心次第、三日で降りてくる者もあれば、一年も降りてこぬ者もいる」
「一年も・・・」
「ここで待たれるか?」
「いえ、そのような暇はありません。年老いた婆婆様がこの下の札所で待っておられるのです」
「然し、いつ戻られるとも分からぬではなぁ・・・」神職が顎髭を擦る。
「私がこの山に入る事は出来るのでしょうか?」
「入るのは勝手じゃ、そこの川で禊をすれば良い。ただ見つかるという保証は無いがな」
「それで結構です、お手間を取らせました」弁千代は神職に頭を下げて川に向かって歩きだした。
「待たれよ!」神職が弁千代を止めた。「預かった手紙を持って行ってくれんか?」
弁千代が頷くと、神職は社務所に入り手紙を取って戻ってきた。
「修行場は険しい岩場じゃ。足拵えをしっかりなされよ」
「心得ました」
「それからこれを持って行きなされ、何かの役にたつやも知れぬ」そう言って手紙と共に金剛杖を弁千代に手渡した。
「有難うございます。無事役目を果たしたらお返しに参ります」
「気をつけてな」
弁千代は再び川に向かって歩きだした。




