薩摩蜂起
薩摩蜂起
「政府に問いただしたきことあり」
五十年ぶりに積もった雪を踏みしめて、薩軍が鹿児島を発ったのは明治十年二月十五日未明だった。
西郷下野からこの方、不平士族による反政府暴動は大小三十回以上に及び、その悉くが鎮定された。にも関わらず、今も政府改造の目的を掲げた党派・結社などは全国に三十以上を数える状態にある。
そんな中、昨年十月二十四日に発布された廃刀令が引き金となり、熊本の敬神党の乱に続いて福岡の秋月、長州の萩と不平分子が蹶起した。
だが西郷は動かなかった。野に下ったとは言え、西郷は日本に唯一人の陸軍大将だったのだ。
薩軍には政府転覆を図る結社とは違うという矜持があった。
明治六年、士族救済の為西郷は征韓論を打ち出した。しかし大久保等によって否決された時、西郷は故郷を目指した。私学校を作ったのも、青少年教育に心血を注いだのも、自分の手で日本を救いたかったからだ。
しかし、新政府は「国家有事の際の国士の養成」という西郷の意図を汲みきれず、不平士族の親玉だと見做した。
新政府は私学校の動静を探る為、密かに密偵を鹿児島に送り込み、これが露見すると先手を打つ形で弾薬製造所を大阪に移転させようとした。
結果、これが私学校の生徒を大いに刺激し憤慨させてしまった。
一月二十九日、私学校生徒が陸軍弾薬庫を襲うに及び、遂に西郷は薩摩の士族達を抑えることを断念した。
「おいの躰は、おはん等にやる」
こうして、日本近代史上最大の内戦の火蓋が、切って落とされたのだった。
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「いよいよだな、無門」
「藤田、先に行く」
「ああ、俺も後から船に乗る。目的地は違うがな」
「俺は山縣参軍に従って、博多へ行く」
「俺は檜垣小警視の指揮する警視五個小隊と一緒に豊後方面だ」
「死ぬなよ」
「お前もな」
「だが、皮肉なものだな、今度は薩摩が討たれる側に回る」
「わからねぇよ。勝てば官軍だぁ、俺たちが負ければ賊軍になる」
「また同じ事を繰り返すのか」
「神代の昔から人は永遠に同じ事ばかり繰り返しているんだ。日本だけじゃなく、世界中がな」
「違いない」
「お互い生きて帰ったら、また呑もうぜ」
「楽しみにしている」
「じゃあな」
「ああ・・・」
新橋のステンションから陸蒸気に乗った。
同じ巡査隊の隊員達の殆どは初めてで、皆目を白黒させていた。
何せ馬より速い乗り物には乗った事が無いのだから。
武者修行を志して故郷を出てから早二十有余年、俺は何処まで行くのだろう。
弁千代は窓に流れる景色を、隔世の思いで見続けていた。
「無門隊長・・・」
見れば伊藤舞介が横に立っていた。
弁千代は従軍の前に警部補に昇格している。軍隊で言えば下士官格で、小隊で班隊の十人を指揮している。かつての部下達もその中に居た。
「この分なら、横浜まであっという間に着きそうですね」
「高野達はどうしている?」
「みんな腰を抜かして、窓枠にしがみ付いてますよ」いかにも可笑しそうに舞介が言った。
「お前はこれに乗ったことがあるのか?」
「はい、貴子様のお供で一度だけ」
「そうか・・・」弁千代は気になっていた事を舞介に訊ねた。「ところで君はご両親に出征の挨拶は済ませたのか?」
今まではしゃいでいた舞介が突然押し黙った。
「隊長・・・」
舞介は何か言いたそうに口を開いたが、後の言葉を飲み込んで俯いた。
「どうした、何か言いたい事があるんじゃ無いのか?」
「いえ・・・」
「俺でよければ話を聞くぞ」
舞介は救いを求めるように顔を上げた。
「実は先日実家に帰って来たのです」
「実家は何処だ?」
「多摩の田舎に母が百姓家を借りて住んでいます」
「お一人でか?」
「父は幕臣だったのですが、私が十の時に亡くなりました」
「母上は息災でおられるのか?」
「はい、至って元気でおりますが・・・」
舞介は言葉尻を濁した。
「ん?」
「巡査隊で出征すると言ったら、立派に死んで来いと言われました・・・」
「流石に武士の妻女であられるな」
「あれは本心なのでしょうか?私は生きて帰って母と暮らすつもりでいるのですが」
一気に言葉を吐き出した。
弁千代は真剣な舞介の顔を見て内心驚いている。もっとお気楽な奴だと思っていた。
「もちろん母御もそれを望んでおられる。だが、武家の習いが身に染み付いておられるのだろう、型通りにそう言われただけだ。何処に我が子の死を願う母親がいるものか」
「そ、そうですよね!」
舞介の顔がパッと明るくなった。
「お前は生きる事だけを考えろ、絶対に死に急いではならん。武士の本分は死ぬまで懸命に生きる事なのだから」
「はい!有難うございました。これで安心して戦地に赴けます!」
「分かったら躰を休めておけ、博多に着いたらゆっくり寝る暇は無いからな」
「はっ!」
舞介は自分の席に戻って行った。本人も頭では分かっていた筈だ、けれど誰かにハッキリと行って欲しかったのだろう。其れ程に出陣の前は心が揺れる。
弁千代は自分の初陣の時を思い出してまた窓の外に目を移した。
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二月十八日、熊本城内より非常号砲三発が鳴り響き、政府軍は籠城した。
薩軍の先鋒隊が熊本城の郊外に姿を現した翌十九日、突然熊本城天守が火を噴いた。
城の周りは大勢の人でごった返した。
群衆は皆泣いていた。
ある者は狂ったように走り回り、ある者は跪き経を唱え、またある者は土下座をして手を合わせている。
地面を叩いて泣き狂う老武士もいた。
加藤清正の手によって築城されて以来、この城の元に生まれこの城を仰いで育ち、この城を守りこの城とともに栄えて来た者にとって、この悲惨な光景は耐え難いものであったに違いない。
城兵は城の周辺から攻城に利用できる全ての建物に火をかけ撤去した。
しかし、殺到する薩軍一万三千に対し、籠城の官軍三千五百。当時の兵力、状況においてこの選択はあり得ないものでは無い。
熊本鎮台司令長官谷干城は、「この城が落ちても薩族が立て篭れないように、この谷干城が城を焼いた」と言ったと言う。
これにより、守る官軍、攻める薩軍という図式が出来上がった。
薩軍四番隊隊長桐野利秋は「熊本城など竹槍一本で落とせる」と豪語した。
しかし、加藤清正の築いた天下の名城は容易には落ちなかった。
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熊本城入城を目指す官軍と、それを阻止しようとする薩摩包囲群の一部がぶつかった。
乃木希典少佐率いる官軍十四連隊は、夜中に南関を出発し午前十一時に瀬高に達し、”薩軍植木到着”の報を得て午後六時植木に到着した。
午後七時、薩軍先遣隊二百名が喊声をあげて攻撃を開始した。
戦闘は最初互角だったが薩軍に二百の兵が増援され、官軍は一気に劣勢に陥る。
三方を敵に囲まれた乃木少佐は、千本櫻まで退却する事を決意した。
乃木は隊の連隊旗手に連隊旗を背負わせ退軍を助けながら退却する事を命じた。
やっと千本櫻に撤退が完了し点呼を取った時、連隊旗手が居ないのに気が付き愕然とする。
「河原林少尉は何処だ!」
河原林少尉は退却する味方を助ける為、十数名の兵と殿軍を努め、白兵戦に巻き込まれて戦死したのだった。
乃木は「しまった!」と呻いたと言う。
今の我々には想像する事も難しいが、連隊旗を奪われるという事は、当時の人にとって万死に値するものであったと思われる。
明治天皇崩御に際し、殉死した乃木将軍の遺書には、この日連隊旗を奪われた事の無念が記してあった。
後に軍神と謳われる乃木将軍の、死に場所を求める戦いはこの時に始まった。
植木を退いた官軍十四連隊本隊は、さらに高瀬まで退却した。
この日木葉東方台地を占領した十四連隊の一部は、薩軍の動きを察知する為捜索隊を出した。
しかしこの捜索隊が敵に見つかり交戦しながら田原坂を駆け下りて来たのである。
官軍は田原坂下州崎に砲を配置し支援したが、田原坂を超えてくる薩軍の兵は次第に数を増して行く。
本隊を指揮し正面を守っていた吉松少佐は、木葉山本営の乃木に援軍を要請したが、隊旗を奪われ意気消沈した乃木の同意を得られず、決死隊を率いて突撃し戦死した。
薩軍はそのまま木葉山本営を襲い、乃木少佐も白刃に囲まれ、九死に一生を得て脱出。
これにより動揺した十四連隊は、遂に高瀬を経て北方川床まで退却し敗北したのである。
十四連隊を撃破した薩軍は、追撃許可を本営に求めたが、「戦地をこれ以上広げると農作物を荒らし、民家を焼き、人民の苦しみとなる」との西郷の言葉を伝えて追撃を中止させた。
このことによって薩軍は、十四連隊に立ち直る時を与えてしまった。
翌日、第十四連隊の主力は反撃に転じ、高瀬街道を南下し高瀬を占領した。
勢いに乗った官軍は菊池川を渡り、薩摩に呼応して蜂起した熊本隊と交戦しこれを撃破、無人の田原坂上に至って占領した。
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「何故だ!」
乃木少佐は声を荒げた。
田原坂を占領した乃木は、第二旅団に急使を走らせ主力の急進を促していた。
ところが三好少将から帰って来た答えは「寡兵侵入するは軍の利にあらず」として撤退を指示するものだった。
「この地を一度失えば、もう二度と取り返す事は出来ぬ。三好少将は何を考えているのか!」
乃木の声はさらに厳しいものになった。
田原坂がいかに戦略上重要か、何度もこの坂を通った乃木が一番見に染みて分かっている。
「もう一度伝令を出せ、十四連隊だけでもこの坂を死守すると!」
乃木は悶々とした気持ちを抱えて伝令が帰るのを待った。
田原坂が薄闇に沈む頃、騎馬伝令が息を切らして戻ってきた。
まるで十年も待たされたような気がする。
「返事は!」待ちきれずに訊いた。
「それが・・・」伝令が言い淀む。
「早く言わんか!」
「はっ!我が命に抗すれば軍法会議も辞せず・・・と」
取り付く島もない、厳しい退軍命令であった。
「む、無念・・・」
遂に乃木は、田原坂要地を放棄し、撤退せざるを得なくなったのである。
数日後薩軍は、碁盤に石を並べたように堡塁を築き、田原坂は大要塞に変貌した。
薩軍東上の成否は熊本城攻略にある。
嘗て加藤清正は熊本城下に入る道を、田原坂〜出町口の一本に絞った。
その他の迂回路は人馬がやっと通れるような細道である。
この坂さえ越えさえすれば、官軍は平坦な道を武器弾薬をはじめとする補給物資を、大量に容易に運ぶことができる。
官軍は熊本城を守る為、是が非でも田原を越えなくてはならなかった。
しかし、清正の作った北の要害は完璧だった。
田原坂は切り立った断崖でもなければ急峻な坂道でも無い、ただのなだらかな丘と言ったところだ。
そこに清正は蛇行曲線を描いた切り通しの道を作った。
その為、下から攻め上ろうとすれば直進できず、鬱蒼とした樹木により見通しも効かず止まらざるを得ない。
守る側は、それを正面左右から攻撃することができる。まるで城内の道のような地形なのである。
城を守るための道が、城を攻める者に利用されるとは皮肉なことだった。
歴史にもしもは無いが、官軍がこの時点で田原坂を死守していたら、一万とも一万五千とも言われる戦死者を出さずに済んだのかも知れない。




