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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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漢学

漢学


「なに?来年開校する東京帝国大学の漢学講義が大幅に縮小されると言うのか!」

京都漢学会の東京支部長、秋月彪軒あきずきひょうけんは怒りを露わにした。

「はい、しかも講義は全て英語で行うとの事です」彪軒の弟子、井上哲太郎が答える。


漢学とは、簡単に言ってしまえば、西洋学によって相対化された儒教である。儒教はもともと四書五経などの古典について注釈を重ねて行くと言う形で発展してきた学問であった。しかし、だからと言って儒教は単なる中国古典の歴史的な研究と言ったものでは無い。

それは、天地人の三才、つまりあらゆる物事に精通するための学問であり、何よりも自らの生き方に関わる学問であった。従ってそれは天文学、自然学から始まって、地理学、政治学、経済学そして道徳学に至る全ての学問を統括する一つの壮大な体系であったのだ・・・それが、蘭学、西洋学の台頭に伴って、単なる中国古典に転落した。

秋月彪軒は『漢学』の生き残りを賭けて、儒教から曖昧な要素を排除し、実学的要素を専門分化して西洋学に対抗しようとした。しかし、それが返って儒教の壮大な体系をバラバラに解体してしまい、漢学から創造的なエネルギーを奪う結果となったのだ。


「水戸学の内藤雨山ないとううざんはなんと言っている?」

「はい、今すぐに計画を実行に移すと・・・」

水戸学は漢学の一流派で幕末に攘夷派の思想の拠り所となった学問だ。

『孔孟の教えを奉じ、神道を持って道徳となし、大義名分を持って人道の対網となす』

秋月彪軒の思想とは異なるが、漢学者は西洋学という脅威の前で、小異を捨て『漢学』と言う名の下に団結せねばならなかった。


「事ここに至ってはやむを得ぬと言うべきか・・・」

彪軒は苦悶の表情を浮かべた。

「しかし、居留地を襲うとなれば外国の内政干渉は避けられません」

「それこそ奴らの思う壺であろうよ」

「ここは何としても水戸学の暴走を止めなければなりません」

彪軒は思い詰めた表情で立ち上がった。

「儂は今から福沢の所に行ってくる。漢学排斥の急先鋒である福沢が政府を説得してくれれば、決定を覆す事が出来るかも知れん」

「ですがあの福沢が我々の話を聞くでしょうか?」

「たとえ福沢の前で畳に額を擦り付けても、聞かさねばなるまい」

「先生・・・」

「井上、車(人力車)を呼べ!」


*******


彪軒は床の間を背にして座る諭吉と向き合った。

諭吉は腕組みをして、苦虫を噛み潰したような顔で彪軒を見据えている。

「福沢、儂に力を貸しては貰えぬか?」

「何故私が腐れ儒者の力にならねばならぬ?」

「お主が漢学を嫌っておるのは分かる。しかし、漢学はずっと日本の知性を支えてきたのだ」

「違う、漢学かんまなびこそが日本の進歩を遅らせたのだ。江戸の国学者、本居宣長もそう言っている。漢学において取るべきものは地理、歴史、道徳学などの専門分野だけで、その他のものは全て空学である」

「だからこそ儂は、形而上学的な空論を捨てて専門分野だけを取り出したのだ」

「その結果どうなった?西洋学からの批判に対して反論すると言う形でしか、自らの正当性を主張し得ない、と言うところまで追い詰められたのではなかったか?」

「それは・・・漢学が生き残るためには仕方無かった」

「西洋学の知識を援用して儒教の説を根拠付ける、あるいは儒教の立場から西洋学を肯定する。漢学はもはや西洋学なくしては存在し得ないではないか?そんな学問に生き残る価値があるものか!」

「くっ!お主はそれでも日本人か!」

「その言葉、そのままお主に返そう。お主に漢学者としての矜持があるのなら、何故西洋学におもねった?それでは混沌に目鼻を付けたら混沌が死んだ、という荘子の教えに背いているではないか?私はそんな漢学者の怠慢が許せぬのだ!」

「・・・」

彪軒は返す言葉を無くして唇を噛んだ。

諭吉が語気を緩めて彪軒に言った。

「しかし、お主がその矜持を取り戻すと約束をするのなら、政府の役人に交渉してやっても良い」

「本当か?」

「ああ」

「・・・かたじけない!」

彪軒は畳に両手をついて、深々と頭を下げた。

「一つだけ答えろ、漢学者の宿敵として隠れのない私に、どうしてそこまでに頭を下げるのだ?」

「実は水戸学派の動きを、私では抑えきれなくなっているのだ。此度の東京帝大の件で奴らが動き出した。今ならまだ間に合うかも知れない」

「私を再三に渡って付け狙ったのもそいつらだな?」

「直接手を下したかどうかは分からない。しかし、後ろで糸を引いていることは間違いない」

「そうか、分かった。して、奴らは何を企んでいる?」

「居留地の襲撃だ。もしそんな事になったら漢学どころの騒ぎではなくなる。我が国の存亡に関わる大事件となるやも知れん」

「馬鹿者!何故それを先に言わぬ!一刻を争う重大事ではないか!」

「い、いや、何もそこまで・・・」

「お主本当に知らぬのか?水戸学の内藤雨山は水戸天狗党の生き残りぞ、決めたら即座に実行に移す!」

諭吉は畳を蹴って立ち上がった。

「誰かおらぬか!伊藤巡査を呼べ!・・いや、私が行く!くるまを呼べ!」


諭吉は着流しの帯に刀をぶっ込んで玄関を飛び出した。


*******


「諸君!いよいよ決行の時が来た、今こそ新政府討伐の狼煙のろしを上げるときぞ、準備は良いか!」

内藤雨山が講義堂に集まった者達に檄を飛ばした。

「しかし、この人数では心許ないのではないか?」

いかにも身を持ち崩した士族といった男が雨山に異を唱えた。

雨山がゾクリと笑った。

「こんな時の為に剛田組の連中を飼い慣らしてあるのだ・・・誰か剛田組に使いを出せ、兼ねてからの手筈通り身支度を固めて居留地の北門に向かえと!」

塾生らしき若い男が素早く立ち上がって講義堂を出て行った。


*******


東京警視庁の会議室では、遊撃、巡邏両課合同の捜査会議が開かれていた。

「関、何か分かったか?」藤田五郎が言った。

「はっ、漢学諸派を徹底的に調べた結果、一本松学舎が水戸学であることが判明しました」

「水戸学と言えば幕末、過激な攘夷派が信望していた学問だな?」無門弁千代が言った。

「はい、一本松学舎は内藤雨山という学者が塾長を務めています。雨山は水戸天狗党の思想的指導者であり援護者だったようです。昨今天狗党の残党が雨山を頼って集まっているとの情報もあり、その隠れ蓑になっている可能性があります」

「天狗党たぁ厄介だな・・・」

「一応見張りを付けてはおりますが?」

「良し、そのまま見張を続けてくれ・・・樺山君ヤクザの線はどうだ?」弁千代が樺山に訊ねる。

「さっき警邏隊の職質に掛かった男ば締め上げちょっが、なかなか口ば割りもはん。人相風態は木場が取り逃した男に似ちょるようじゃが・・・」

「木場はどうした?」五郎が訊いた。

「今日も居留地の見回りに出ています。よほどあの時取り逃したのが悔しかったのでしょう」今井が答える。

「すぐに呼び戻せ、面通しをさせる」

その時、廊下が急に騒がしくなった。誰かが必死に制止する声が聞こえる。

会議室のドアが大きな音を立てて開き、男が飛び込んで来た。

「福沢先生・・・」

伊藤舞介が唖然とした顔で、入ってきた男を凝視した。

「伊藤君大変だ!」

伊藤の顔を認めると、福沢が大声で叫んだ。

「居留地が襲撃される!」


*******


「我々は南門に向かう。木戸番を片付けたら剛田組と合流して阿蘭陀大使館を襲う!」

「手筈は?」

「素焼きの壺に油を詰めたものを大使館に投げ込み火矢で火をつける。火が燃え広がったら混乱に乗じて一気に門を破って雪崩れ込み、紅毛の奴らを片っ端から斬る!」

「分かった!」

一本松学舎の講義堂に集まった者達は別々に門を出て、夜陰に乗じて居留地南門へと向かった。

「見ておれ、今こそ政府を転覆させて今一度武士の世を復活させる!」


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