ヨーハン・フォン・オンデンバルネフェルト
ヨーハン・フォン・オンデンバルネフェルト
阿蘭陀公使館に繋がる備前橋の上は、行き交う人々でごった返していた。
今井は正面の人混みから、頭一つ分抜き出た長身の男が真っ直ぐこちらへ向かって来るのを見ていた。
男の頭髪は栗毛色で、灰色がかった碧眼がこちらを睨み据えている。
擬宝珠のような飾りの付いた剣の柄頭が見えて、一緒にいた警邏課の巡査は腰が引けている。
橋の中央で男が立ち止まった。
通行人は何事かと見ていたが、ただならぬ気配を感じてそそくさと通り過ぎて行く。
今井は男と対峙して顎を少し上げた。
「お前はヤパンのポリスか?」
流暢な日本語で話しかけてきた。
「そうだ」
「お前達は何故外国人を襲う犯人を捕まえない?」
「それはどう言う意味だ?」今井が訊き返した。
「昨日島原から帰ろうとした私の患者が暴漢に狙われた。ヤパンのポリスが追いかけたがまんまと逃してしまった。あれはわざとに違いない」
木場の足が遅い事など説明しても無駄であろう。今井は梶山の言葉を思い出して矛先を変えた。
「昼間から女郎を買いに行くのが異人の流儀か?」
「我々外国人はこの居留地から出る事を許されていない。まして下級官吏などはビリヤードか遊郭しか楽しみは無いのだ」
「お前もそうか?」
「私は医師だ、そのような場所には行かぬ」
「襲われた居留民には同情の念に耐えぬ。しかし、ここは異国だ、しかもついこの間まで攘夷の嵐が吹き荒れていた国だ。そんな国に自分達の文化を持ち込み、自由気儘に振る舞っている異国人に良い感情を持たない者も少なくはない。その事は覚悟して住んでいるのであろうな?」
「当たり前だ。だが我々にも矜持はある、侮られたまま引き下がってはプライドが許さない」
「プライド?」
「誇りの事だ」
「だったらどうする?」
「お前に決闘を申し込む」
「逃したのは俺じゃない」
「お前もヤパンのポリスだ」
「お前は医者なんだろう?」
「医者だが私の家系は貴族だ。貴族はプライドの為なら命を賭ける」
言に違わず男の頬には幾筋かの傷が見えた。きっと幾度も決闘を経験したに違いない。
「ほう、我が国の侍のようだな」
「お前も侍ならこの決闘を受けよ!」
「今井さん、まずいですよ・・・」
一緒にいた巡査が今井の袖を引いた。
「日本の侍が挑戦されて逃げたとあっちゃ士道に反する。橋の端まで退がって見ているが良い」
巡査は今井に言われるがまま、橋の入り口まで戻った。
「決闘を受ける」
今井が宣言した。
「命を賭けるか?」
「もとより」
男が剣を抜き顔の前に立てた。日本刀に比べると針のように細い直刀だ。
「ヨーハン・フォン・オンデンバルネフェルト」
名乗りを上げたのだろうが、長すぎて覚えられない。
今井も刀を抜いて右脇に下ろす。
「今井信郎」
ヨーハンが、右手一本で持った剣の切っ先を信郎の顔に向け、肘を軽く曲げた姿勢で腰を落とす。
信郎は左手を刀の柄に添えると、正眼に構えた。
橋の両岸には物見高い野次馬が集まり始め、巡査と異国人の対決を興味津々で眺めている。
ヨーハンが軽く跳ねるように前後に移動すると、それに合わせて剣尖がゆらゆらと揺れた。
信郎は構えたままピクリとも動かない。
静と動の戦いだ。
風を斬ってヨーハンの剣が突き出された。
信郎は刀を軽く倒してそれを受ける。
と、素早く引かれたヨーハンの剣が、刃裏から信雄に襲い掛かった。
刀を倒したまま手首を返してヨーハンの剣を跳ね上げた信郎は、返す刀でヨーハンの頸に斬り付けた。
ハッと野次馬が息を呑む。
大きく飛び退いてヨーハンがこれを躱すと、溜息と共に拍手が湧き起こった。
いつの間にか集まった異人達が、指笛を鳴らして囃し立てる。
日本人は信郎を、異国人はヨーハンを大声で声援した。
皆、思わぬ所で始まった真剣勝負に興奮し始めていた。
異人達の声援を背に負ったヨーハンの猛攻は凄まじかった。
ピュッ、ピュッ、ヒュン、と言う風の音しか聞こえない。剣の軌道は残像にも残らないのである。
辛うじてヨーハンの躰の向きで剣筋を予測して受け続けているが、刀身が柳の枝のように撓って羅紗の制服を簾の如く斬り裂いた。
ついに信郎の頬に赤い傷が刻まれ、血が流れ落ちて来た。
信郎は大きく間合いを切って息を吐いた。
『もう後がない』
いつの間にか橋の際まで追い詰められて、あと数歩下がれば野次馬にぶつかる。
ただ、気がついた事がある。剣の縦横無尽の動きに反して、ヨーハンの剣を握った手元や躰の位置がそれ程動いていない。
『こうなったら一か八かだ』
信郎は剣尖を天を突き刺すように上げた。
その途端ヨーハンが大きく踏み込んで来た。
信郎が洋剣の鍔元に刀を叩きつけるように振り下ろす。
あれほどまとわりついてきた剣が、硬い音を立てて折れた。
次の瞬間、信郎の刀の切っ先がヨーハンの喉に突きつけられていた。
「こ、殺せ・・・」上ずった声でヨーハンが言った。
もとより、日本の警官が居留民を傷つけるわけには行かない。
また、ここは治外法権の土地であり、警察の力は居留民には及ばない。
信郎は刀を鞘に納めた。
「今、我々は全力を上げて犯人の割り出しを急いでいる。仇を討つ時が来たら貴方にお知らせしよう」
「本当か?」
「武士に二言は無い」
ヨーハンは立ち上がって右手を信郎に差し出した。信雄が握るとしっかりと握り返してくる。
「私の負けだ。私の居場所は大使館に聞いて貰えば分かるようにしておく」
「必ず知らせる」
「頼む・・・」
「貴方の名前をもう一度聞きたい」
「ヨーハン・フォン・オンデンバルネフェルト」
「ヨーハン・・・?」
「フォン・オンデンバルネフェルト・・・ヨーハンでいい。私は貴殿をノブオと呼ぼう」
「ヨーハン、いずれまた会おう」
「ノブオ・・・連絡を待っている」
野次馬の見守る中、二人は背を向けて離れて行った。
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「ふ〜ん、とんだ約束をしちまったもんだな」今井の報告を聞いて五郎が言った。
「つい、その場の雰囲気で・・・どうしましょう?」
「捕物の時には真っ先に呼んでやんな」
「良いのですか?」
「日本の侍ぇが約束を違える訳にはいくめぇ。それこそ日本の恥だ」
「しかし・・・」
「心配すんねぇ、俺に考えがある」
「あ、ありがとうございます!」
「その代わり、おめぇと伊藤の間に何があったかを俺に聞かせろ」
「そ、それは・・・」
「嫌かい?」
今井はついに観念した。
「実は・・・」
その顛末をしどろもどろに語り出した。
暫くすると、遊撃課に五郎の笑い声が高らかに響き渡った。




