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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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慶應義塾

慶應義塾


「ええと、奥平家中屋敷と・・・おお、ここだここだ」木場は門に掛かった扁額を見上げて呟いた。「慶應義塾だと?全く大層な名をつけやがる」

「木場さん、僕は何をすればいいのですか?」

「お前は黙って見てろ!」木場は新入りを怒鳴りつけた。「・・・なんで俺が新入りの面倒見なくちゃならねぇんだ?」

木場はぶつぶつ文句を言いながら門の内へ足を踏み入れた。

「勝手に入らないでください!」

若い塾生が血相を変えて玄関から飛び出してきた。

「ちょいと塾長さんに聞きてぇことがあるんだがな、ここへ呼んじゃくれめぇか?」

「警察が福沢先生に何の御用です?」

「おめぇのような下っ端に言う必要はねぇ、とっとと呼んでこねぇと公務執行妨害で逮捕するぞ!」

ギョッ!として蒼褪あおざめた塾生が慌てて玄関へ駆け込んで行った。

「なかなか強引だ」舞介が呟いた。

「馬鹿野郎、巡査は高圧的に出るのが仕事なんだよ、よく覚えとけ!」

「今井さんは優しかったけどなぁ」

「奴はぬるいんだよ。あんなんじゃ相手の調子に巻き込まれてしまわぁ」

「なるほど・・・」

今井と貴子の事を思い出して舞介が笑った。

「何がおかしい?」

「いえ、何も」

「ふん、生意気な野郎だぜ」

下駄の擦れる音がして、渋い銀鼠ぎんねず単衣ひとえに細縞の羽織を羽織った男が玄関に現れた。

「うちの塾生を脅したのはお主か?」

「別に脅しちゃいねぇよ、丁寧にお願いしただけだ・・・お前さんが塾長かい?」

「そうだが?私は警察などに用は無い」

「そっちに無くてもこっちにあるんだよ。お前さん最近賊に付け狙われているそうじゃねぇか?」

「付け狙うのは賊の勝手だ、私には何の支障も無い」

「あんた居合の達人なんだろ?二、三人斬っていたっておかしくねぇんじゃ無いのかい?」

「この界隈でそんな届けがあったのか?」

「今のところは出てねぇがな」

「私は争い事は好まぬ、襲われれば逃げるだけだ」

「ふ〜ん、噂に違わぬ腰抜けだ。立身流免許はお飾りだってか?」

「無礼な!」

木場の挑発に乗って、福沢が色をなした。

「居合とは人に斬られず人斬らずなす事なきを勝ちと知るべし」

舞介が素知らぬ顔で呟いた。

「君は居合をやるのか?」

福沢が舞介に視線を移した。

「はい、窪田派田宮流を少々」

「なに、では窪田清音先生の弟子か?」

「孫弟子に当たります」

「そうか、君とは話が合いそうだ。そこの鬼瓦はほっといて上がらんか、居合談義でもしよう」

「ま、待て、訊いてるのは俺だぜ!」

「木場先輩、ここは私に任せて散歩でもしていて下さい。ここも居留地の中ですからサボっている事にはなりませんよ」

「てめぇ・・・」

舞介が木場の耳元で囁いた。

「ここは適材適所、僕の方が話を引き出し易い・・・」

「さあ君、上がりたまえ」

福沢が舞介を促して玄関の方へ歩き出した。

「じゃあ先輩行ってきます!」

「お、おい・・・」

敬礼をして福沢の後を追う舞介を、木場は複雑な表情で見送った。


*******


木場は慶應義塾の門を出ると、一人でぶらぶらと歩き始めた。

確かに福沢は伊藤に任せておいた方が良さそうだ。気位の高い福沢は俺みたいな雑破な奴には壁を作ってしまうだろう。

見晴らしのきく小高い丘に登ってみた。

黒船の浮かぶ海を背景に、右側に外人専用の宿泊施設築地ホテル館、左側が新島原遊郭、それらに挟まれるようにして商店が立ち並ぶ。

ここは商社や商館の多い横浜と違って、教会や学校が多い落ち着いた雰囲気の流れる街だ。

医者や宣教師、教師といった知識人が多いのが大きな理由かも知れない。

「そんな奴らとばかり付き合っていたら、日本人が馬鹿に見えるのもしょうがねぇか・・・」

木場は独言ひとりごちて、丘を降りた。

街には雑多な言葉が飛び交い、商店の使用人達も身振り手振りで外人と交渉している。

そんな一人に、どこで外国語を覚えたのか?と訊いてみた。

「意味なんか分かりまへん、へぇ殆ど勘ですわ。顔見たら何が欲しいか分かります」と、逞しい商魂を見せていた。

海へと注ぐ堀に掛かった短い橋を渡り、新島原遊郭へ向かった。

別に変な遊びをするのが目的ではない、あくまで見回りである。

が、見回りと称して昼見世を冷やかすのも悪くない。

不純な動機を半分抱えて島原の大門に近づくと、見返り柳の陰に隠れた不審な男が目に付いた。

急いで丘灯台の影に隠れて、見張ることにした。

男はどう見ても地回りのヤクザものだ。

と、昼見世の引け客だろうか、金髪碧眼の外国人が太夫に見送られて出てくるのが見えた。

男の懐がギラリと光った。

匕首あいくちだ!」飛び出しては見たものの、とても間に合う距離では無い。

木場は咄嗟に呼子を吹いた。

陸蒸気の汽笛のような甲高い音が島原界隈に鳴り響く。

男がビクリとしてこちらを向いた。

「動くな神妙にしろ!」

御一新前の岡っ引のようなセリフを叫んでしまった。

男は見返り柳から飛び出すと、全速力で逃げ出した。

「待て!コラ待たねぇか!」

巡査にそう言われて待ってくれる下手人はいない。否、まだ何もした訳では無かったが・・・

兎に角匕首を持っていたのだ、捕まえて事情聴取をしなければなるまい。

そう思って追いかけるのだが、男の足は早かった。あっという間に入船橋を渡って見えなくなった。

「チッ、取り逃したか!」

木場は腕力には自信があるが足の速さは自慢にならない。

伊藤がいれば・・・と悔しがったが後の祭りである。

「まあ良いか、顔はバッチリ覚えたからな・・・」と、負け惜しみを呟いた。


*******


「昼間っから女遊びをするような毛唐なぞ、刺されりゃよかったとじゃ!」

梶山文次の鼻息は荒い。

木場と伊藤は署に戻って報告会を開いていた。

「そう言うな、お陰で手掛かりが出来たんじゃねぇか」

木場は取り逃した手前強くは言えない。

「早速人相描きを作って府内のヤクザの事務所を片っ端から当たれ。見つけたら徹底的に締め上げて誰に頼まれたか吐かせるんだ!」五郎が言った。

「伊藤、福沢の方はどうだったのだ?」

弁千代が舞介を見遣った。

「福沢先生は随分と漢学者に恨みを買っているようです」

「先生だと?おめぇ奴に抱き込まれやがったか!」木場が腹いせのように怒鳴った。

あ奴は俺を鬼瓦だとぬかしやがったのだ。

「いえ、私が見る限り福沢先生は十分尊敬に値します」伊藤がしれっと言い返した。

「まあ良い、続きを聞こう」

「はい、先生はあちこちで漢学批判を繰り返しているようです。いわく、『今の開国の時期に、腐れ漢説が青少年の脳にわだかまっては西洋の文明を受け入れることはできぬ』曰く、『日本中の漢学者は皆来い、俺が相手をしてやる』曰く、『孔孟の教えなど二千年前の野蛮の説で今の時代にはそぐわない』とか・・・」

「過激な奴だな。俺だってそんなことは言えねぇ」五郎が呆れたのか感心したのかわからない言い方をした。

「だから、孔孟崇拝者からは徹底的に憎悪されているようです」

「そりゃ殺されてもおかしかぁねえな」

「それから・・・」

「まだあるのか?」

「先生の居合は、やはり一流でした」

「ほう・・・なぜ分かる?」

「伊藤の居合の腕は私が保証します」今井が言った。

「お前達、何があったんだ?」五郎が訝しげに首を傾げる。

今井と舞介が顔を見合わせた。

「言いたくなければ言わなくても良い、先を話せ」弁千代が促した。

「はい、先ほどの話を聞き出すまで、居合の話で随分な時を費やしたのですが、その理論も実践も免許皆伝に恥じぬものでした」

「見たのか?」

「無理にお願いして“形“を数本見せて頂きました。今だに一日千本の稽古を欠かさないそうです」

「凄ぇな・・・ただの学者かと思ったが」木場が感心したように呟いた。

「良し、ヤクザの線と漢学者の線を同時に洗って行こう。必ず接点が見つかる筈だ」

「遊撃隊と警邏隊、二人一組で行動する。良いな!」

「了解!」


報告会が終わると、それぞれが所定の任務に就いた。


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