今井の憂鬱
今井の憂鬱
木造の大きな屋敷が立ち並ぶ地域の一角に、西洋の建物を模して日本の大工が建てたのであろう二階建て半洋式の屋敷が見えた。
門は開け放たれており、人力車がひっきりなしに出入りしている。
玄関までは真っ直ぐ二十メートル程で綺麗な敷石道だ。
耳を澄ませると、どこからか西洋の音楽が風に乗って流れて来る。
今井は制服のまま門の前に立った。
門の傍で客を出迎えていた執事らしき男が訝しげに声をかけて来た。
「はて、警察の方が何の御用ですかな?」
今井が黙って招待状を見せると、驚いた顔で今井と招待状を見比べている。
「暫くお待ち下さい・・・」
執事は建物の方に向かって駆け出そうとした。
主人に確認を取るのだろう、と今井は思った。
「榎田さん、良いのです」
門の陰から出て来た男が、執事を呼び止めた。
「この方はお嬢様が招待されたのです」
伊藤舞介であった。
「私がご案内致します」
伊藤が言うと榎田と呼ばれた執事は今井に礼をして門の傍らに戻った。
「行きましょう」伊藤が踵を返す。
今井は伊藤の隙のない背中を睨んだ。
『服装はあの時と同じだ。この男はパーティーとやらには出ないのか?』
「私は警備を申し遣っております」
今井の声が聞こえたのか伊藤が振り向いた。
「君は書生だろう?」
「書生は態の良い使用人ですよ」
「そうか・・・」
伊藤の身の上を聞いたところで仕方がない。黙って着いて行く事にした。
玄関に入ると沓脱場がない。今井は辺りを見回した。
「ここは、外国のお客さまをお迎えするために一階は洋風に造ってあります。二階へ行くときは階段の前で履き物を脱いで頂きます」
『外見と同じく、中も和洋折衷か。とんだ西洋かぶれだな』今井が眉を顰める。
「私もこの造りは好きではありません」
今井はもう、何も考えない事にした。
大広間・・いや、リビングと言うのか?・・・に入ると、既に沢山の客がギヤマンのグラスで葡萄酒を飲んでいた。
料理は長崎の卓袱料理のように、テーブルに大皿でさまざまな料理が乗っている。
椅子は壁際に置いてあるので、大抵は立ったまま話に興じている。
立って飲み食いするなど、江戸の屋台か角打ちのようだと今井は思った。
リビングの奥が東屋・・・否、バルコニーになっており庭に出られるようになっている。
芝生を貼った西洋式の庭には楽隊がいて曲を奏でている。
門の辺りで聞いたのは、この音だったのか・・・。
「今井さん、お嬢様の所へご案内します」
「いや、まず主人に挨拶するのが筋であろう」
「正法様にはお嬢様がご紹介下さるそうです」
冷めた声で伊藤が言った。
『なんだコイツ、急によそよそしくなりやがった』
今井の思考には反応せず、伊藤は外国人とにこやかに会話を交わしている貴子の所へ、今井を連れて行った。
「お嬢様、今井さんをお連れしました」
「失礼・・・」
貴子は膝を軽く折って西洋人に挨拶をすると、ゆっくりとこちらを向いた。
「ようこそ、おいで下さいました」華やかに笑う。
「伊藤、お前はもう良い、下がりなさい」
高飛車に言うと、伊藤の事など眼中に無い、と言うように今井の手を取った。
「お父様にご紹介しますわ」
窪田正法は髭を生やした紳士と話をしていたが、貴子が近づくとこちらを向いて貴子を紹介した。
「こちらは四条子爵、政府の高官を勤めておられる・・・子爵、娘の貴子です」
「これは四条子爵、お噂は予々(かねがね)父から伺っております。大変な政治家であられると共に大変な実業家でもいらっしゃると」
「ははは、これは手厳しい。いかにも商いにも精を出しております。あなたのお父上も、武士の商法とは言いながら、とてもその辺の商人では太刀打ちが出来ないほどの実業家でいらっしゃる」
「お褒めに預かり光栄でございます。お陰でこうして子爵様ともお目にかかる事が出来ます」
「これは一本取られたな、ははははは!」
四条子爵は高い声をあげて笑った。
「お父様、ご紹介したい方がおられるのですが?」
正法が貴子の後ろに立っている今井に目を向けた。
「こちらか、お前の言っていた巡査殿とは?」
「はい・・・」
四条が手を挙げた。
「窪田さん、私はあちらで飲んでおります。また後ほど」
「お気を使わせて申し訳ありませんな」
「いや・・・」
四条は軽く顎を引くと飲み物の置いてあるテーブルへと歩いて行った。
「貴子の父です・・・」
正法は今井の制服に視線を這わせながら言った。
「今井信郎です、何分にも勤務明けでしたので、家に戻って着替えをする暇もありませんでした」
これくらいの言い訳はしておいた方が良いだろう。
「そうですか・・・何か飲み物でも?」
「お父様、私が取ってきますわ・・・葡萄酒でよろしいかしら?」
後半は今井に向けて訪ねたようだ。
「お任せします」
優雅にドレスの裾を翻して貴子が去った。
「その髷は?今時珍しいですな」
「はい、私の尊敬する剣術の師に倣って・・・」
「ほう、どなたですかな?」
「直心影流の榊原健吉師でございます」
「あの徳川家茂様の剣術教師を務められた!」正法が目を見張った。
「今も車坂に道場を構えておられます」
「榊原様と言えば数年前浅草で撃剣興行を立ち上げられましたな?」
「はい、士族の困窮を見兼ねての事とお聞きしております」
「剣術を見世物にする・・・との批判もあるようだが?」
「いずれ後世の人が評価を決めるでしょう」
「今はなんとも言えぬと言う事か?」
「はい」
「私の祖父も講武所の師範であった」
「存じております。窪田清音様、窪田派田宮流の総帥であられました」
「うちの書生の伊藤が孫弟子に当たる。今では窪田派随一の使い手であると言われている。貴子の話では貴方が互角の戦いをしたと言う事だが?」
「いえ、私の方が押されていたと思います。お嬢様に声を掛けて頂かなければどうなっていたか分かりません」
「いや、ご謙遜を・・・これは興味本位で聞くのだが、榊原道場ではどのような稽古をしておられましたかな?」
「どのようなと言われましても、特に他の道場と変わったことはありませんが・・・ただ、小豆を床一面にばら撒かれたのには閉口いたしました」
「小豆?」
「小豆は踏むと痛いし、下手をすると足を取られて転んでしまう」
「想像するだに痛そうだ・・・してどのような意味合いがあるのですかな?」
「摺り足で動けと言うことだったと思います。足を床から離してバタバタしていては稽古が出来ません」
「ふぅむ、祖父も同じようなことを言っていたような気がするが・・・」
「まぁ、お二人とも、もう仲良しになられましたの?」
貴子がグラスを二つ持って戻って来た。一つを今井に手渡す。
「貴子、大人を揶揄うものではない」
正法は苦笑すると今井に向き直った。
「貴重な話をありがとう、私はこれで失礼するよ。今日はゆっくりしてくれたまえ」
「はい、ありがとうございます」
今井は正法の後ろ姿に向かって頭を下げた。
貴子はずっと今井の傍に居て、なにくれとなく世話を焼く。
伊藤は庭の警備をしながらジッと中の様子を見ていた。
自分には決して見せることのない笑顔。
胸の奥に蛙でも呑み込んだような嫌なシコリが残った。
と、貴子が今井の手を引いてバルコニーに出て来た。
庭では数組の客が楽隊の曲に合わせて踊っている。
互いに手を取り見詰め合って踊る様は、日本が無理をして西洋列強に媚を売っているとしか思えない。
伊藤は我知らず、貴子と今井を目で追っていた。
「今井さん、踊ってくださらない?」
貴子が女学生とは思えない、艶を帯びた声で訊いた。
今井は驚いた顔で貴子を見た。
「私は踊れませんが・・・」
「分かっているわ、ダンスが出来る人なんて、政府高官の中にもそうはいないから」
まして巡査が踊れる訳は無い、と言う風に聞こえた。
「ただ向き合って手を握り、もう片方の手で腰を抱いてくだされば、あとは私がリードして差し上げます」
「お断りします」言下に撥ねつけた。
「私に恥を掻かせるおつもり?」
貴子の眉が上がった。
「私は日本男児です、そんな毛唐の真似は出来ません」
「私が毛唐の真似をしていると言うの?」
「少なくとも、日本の女子なら、そんなはした無い真似はしない」
貴子の目が据わった。
「覚えてらっしゃい・・・」
貴子は大きく息を吸い込むと、絹を裂くような大声と共に吐き出した。
楽隊の演奏が止み、その場にいた全ての人間が一斉に振り向いた。
「何をなさるの!」貴子が今井の頬を張った。
今井は何が起こったのか分からず、貴子の顔を呆然と見ていた。
「今、私の胸をお触りになったわね!」
ようやく事態が飲み込めた今井は、慌てて顔の前で手を振った。
「わ、私はそんな事はしていない!」
「図々しい!ちょっと優しくしてあげれば良い気になって!この巡査風情が!」
語尾に侮蔑を隠さなかった。
窪田正法が建物から飛び出して来た。
「どうしたんだ、貴子!」
「お父様、この巡査が私の胸を・・・」
わざとらしく語尾を濁した。
「今井君、君を見損なった!気骨のある男だと思ったのに!」
「誤解です、私はそんな・・・」
「伊藤!伊藤はおらんか!」
正法は周囲を見回して叫んだ。
「ここに・・・」
既に伊藤は側に来ていたが、どうしたら良いのか分からぬ風である。
「すぐにこの男を取り押さえろ!」
「し、しかし私が見た限りでは、今井さんはお嬢様に触れてはおりません」
「なに!お前は貴子が嘘をついたと言うのか!」
「い、いえそんな事は・・・」
「伊藤!お前はうちの書生ではありませんか!お父様に逆らうのですか!」
貴子が追い討ちをかける。
「いえ・・・」
伊藤は渋々今井に対峙した。
「この状況では、貴方を取り押さえるしかありません」
「私は何もしていない」
「分かっています、ここは大人しく認めて場を納めてはくれませんか?」
「覚えのない事を認める訳には参らぬ」
「ならばこの前の続きをやるしかありません」
「仕方が無い」
伊藤は今井を見据えたまま声を上げた。
「みなさん、退がって下さい!」
人の輪が広がった。
伊藤が腰の刀に手をやって腰を落とす。
今井は油断なく刀を抜いた。
柔らかい芝生を靴底に感じて、今井は右に移動した。
伊藤は下駄の鼻緒から指を抜いて素足を芝生の上に下ろす。
今井が斬りに行かなければ、伊藤は発剣する事はあるまい。
しかし、状況はどうあれ、ここで負ける訳には行かない。
今井は正眼の剣を少しづつ降ろして行った。
下段から斬り上げる剣は、腕力に頼れば遅れる。
居合の抜刀に間に合わす為には、居合と同等、いやそれ以上の体捌きが必要となる。
寄って立つ地面から足を離さず浮き身をかける。その状態で技を発するからこそ剣は最高速に達する。それこそが、小豆を撒いた稽古で師が教えようとした事ではなったか。
そう思い極めると自然に躰から力が抜け、芝生の上を滑って前に出た。
瞬時に伊藤が反応した。
キン!と高い金属音を立てて、剣と剣とがぶつかった。
間髪を入れず二の太刀が落ちてくる。
切っ先を返して受け流すと伊藤の体勢が崩れた。
足払いを掛けて馬乗りになる。
刀の棟に左手を添え、伊藤の頸に押し付けた。そのまま刃を押し込めば頸動脈が切断される位置だ。
「待って!」
貴子が人の輪から飛び出して来た。
「嘘です!・・・私の言ったことは全部嘘!」
今井が貴子を見た。
「貴子!」正法が叫んだ。「今更なんと言う事を!」
「だって、伊藤の気持ちが知りたかったんだもの!本当に私を愛しているかどうか・・・」
気位の高い貴子は自分から伊藤を好きだとは、どうしても言えなかった。それでわざと今井を悪者にして伊藤を試したのだ。
今井が立って伊藤を解放した。
「貴子さん、貴方のした事は到底許される事ではありません」
貴子が唇を噛んだ。
「しかし、伊藤君が貴方を好きな事は間違いないようです。伊藤君の気持ちに免じて今日の事は無かった事にしましょう」
今井は正法を振り返った。
「窪田様、今のはパーティーの座興という事でお許しいただけませんか?」
「あ、ああ・・・」
「では、私はこれで失礼致します」
今井は招待客の好奇の目の中を分けるようにして、リビングを通り抜け玄関から屋敷の外へ出た。やっと新鮮な空気が吸えたような気がする。
そのあと、どのようにして正法がその場を収めたのかは考えたくも無かった。
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「今井、なんだその顔は?」
翌日出勤すると、五郎が訊いてきた。
「何でもありません」
「ふ〜ん、悪い女にでも騙されたんじゃあるめぇな?」
「そんなんじゃありません。藤田さんじゃあるまいし・・・」
「そうだな、俺もおめぇも、女房にゃ頭があがらねぇもんな」
「今度から女学校の見回りは関をやって下さい」
「俺は命じたつもりはねぇがな?」
「とにかく・・・私は行きません」
「分かったよ」
「よろしくお願いします」
この時から、女学校方面は今井にとって鬼門となった。




