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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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伊藤舞介

伊藤舞介


「市中の巡察に行って参ります」今井信郎が五郎のそばに寄って言った。

「仕事熱心なこった、そんな事は巡邏隊に任せておけば良いじゃねぇか?」

「ここにいると気詰まりなんですよ。むさい男ばっかりで」

「違ぇねえ、男やもめになんとやらだ。そんなら、今度できた女学校の周りでも廻ってやんな」

「冗談は止めて下さい、そんなんじゃありません」

「そうか?だがあながち冗談でもねぇんだよ。あの女学校にゃ政府のお偉方の娘がたくさん通っててな、不平士族の連中が狙っているという噂だ」

「じゃあ、尚更私は行きませんよ、気位の高いお嬢さんは苦手だ」

「ふん、洒落の通じねぇ奴だ。おめぇみたいな堅物は彼方あちらさんでも願い下げだとよ。何処へでも好きな所へ行って来やがれ」

「はい、行って来ます。藤田さんの冗談には付き合ってられない」

今井は敬礼もせずに遊撃課を出て行った。

「藤田さん知らなかったのですか?」今井の背中を見送って、関が訊いた。

「何をだ?」

「今井さんは妻子持ちですよ・・・」


*******


署を飛び出してはきたものの、藤田の言った言葉が気になって、今井は女学校の方へと足を向けた。


赤煉瓦の瀟洒しょうしゃな建物は、いかにも女学校というたたずまいを見せていた。

そろそろ下校の時刻なのだろう、玄関の車止めには、お迎えの人力車が何台も停まっている。

門の前を竹箒で掃いている用務員に訊ねて見る事にした。

「ちょっと聞きたいのだが・・・」

用務員は驚いた顔で今井を見た。

「なんでしょう?」

「近頃、怪しい者がこの辺をうろついたりしていないか?」

用務員は今井の制服をまじまじと見ると、今井の後ろに顎をしゃくった。

「怪しいと言えば、ほれ、あの若い男。さっきから行ったり来たり、たまに背伸びをして塀の中を覗き込んだりしていますよ」

今井が振り返ると、今まさに男が塀の中を覗き込んでいる。絣の着物に小倉の袴を履いた、書生姿のその男は、腰に刀を差していた。

用務員は今井を責めるように言った。

「なんとかして貰えませんかね。うちは良いとこのお嬢様が大勢通っているんだ、何かあったら困るんだが」

その後ろ盾があるからなのか、用務員の態度も横柄だ。

今井は用務員を無視して踵を返すと、男に近寄った。男はまだ中を覗いている。

「おい、何をしている」

男がギョッとして振り向いた。

「べ、別に何も・・・」

「何もって、今中を覗いていたじゃないか?」

「覗いちゃいけませんか?」男は開き直って言った。

「ここは女学校だ、分かっているのか?」

「分かっていますよ、だから覗いていたんだ」

「さては、変質者か!」

「無礼な、士族に向かって何を言う!この政府の犬め!」

「なに!」

「私は窪田正法くぼたまさのり様のお嬢様を迎えに来ただけだ」

「嘘をつけ、窪田様と言えば講武所の師範を務められた武術の達人、窪田清音くぼたすがね様の御嫡孫ではないか、お前のような書生と縁があろう筈が無い」

「私の父はその清音様の部下であり弟子でもあったのだ。その御縁で書生としてお世話になっている」

「とにかく、署まで同行して貰おうか」

「断る、私にはお嬢様を無事にお屋敷までお送りする義務がある」

「嫌だと言うなら、力ずくでも連れて行く!」

「出来るものならやってみろ!」

売り言葉に買い言葉というやつだ、双方引くに引けない状態になった。

男が刀の鍔元に手を掛けた。

今井はサーベル拵えの刀を抜いた。

「どうした、抜かんのか?」今井が訊いた。

男は親指を鍔に置いたまま腰を落とした。

『居合・・・?』

今井は上段に剣を上げた。居合には、まずは抜かせる必要がある。

右手の籠手を狙って剣を振り下ろした。

瞬時に男の剣が閃いて、今井の剣を弾き飛ばした。

今井が剣を返した時には、既に男の剣は鞘に納まっていた。

『速い!』

今度は正眼のまま反時計回りに移動する。

突くと見せかけて左へ飛んだ。

鞘走った剣が、横に薙がれて追って来た。

辛うじて剣を立てて受け止める。

瞬時に男の剣が浮いて、切っ先から鞘に吸い込まれて行く。

追う暇がなかった。

間合いを切って体勢を立て直すのがやっとだ。

男がジリジリと間合いを詰めてくる。

「伊藤!」

女の声がした。

男が弾かれたように跳び退さった。

「お嬢さん・・・」

「そんなところで、何をしているの?」

「何を・・・って」

「お巡りさん、うちの伊藤に御用事ですか?」

刀を下ろして声の主を確かめる。矢絣に紫の袴を履いた女学校の生徒が立っていた。

「この書生をご存知なのですか?」

「伊藤はうちの書生です、当たり前でしょう」

この修羅場に声も震わせず毅然として言い返す。

「窪田様のお嬢様・・・?」

「そうよ、それが何か?」

「いえ、何でもありません。私の勘違いのようです」

今井は刀を納めた。

「そう・・・伊藤、行きますよ。今日はピアノのお稽古の日なの。もうすぐスーザン先生がお見えになるわ」

「分かりました」

女は人力車に乗り込むと、今井を見向きもせず車夫に告げた。

「急いで、あまり時間がないの」

「へい!」

車夫は掛け声をかけて一歩を踏み出すと、あっという間に正門を離れた。

「東京警視庁の方ですか?」

伊藤は今井の横に並びながら訊いた。

「そうだ」

「私は伊藤舞介、貴方は?」

「今井信郎」

「貴方はお強い、いずれまた会う日もあるでしょう」

伊藤は下駄を脱いで懐に入れると、全速力で車の後を追って行った。

「あいつ、下駄を履いたままだったのか・・・」

今井は呆れて伊藤の背中を見送った。


門を見遣ると、用務員がこちらを見て薄く笑っている。

『奴め、知っていたのか・・・』

今井が睨むと、用務員はそそくさと校舎の中に入って行った。

『クソッタレめ!』

今井は力任せに煉瓦塀を蹴り飛ばした。


*******


「そりゃ田宮流だ」五郎が言った。「窪田は田宮流居合の達人、その弟子の息子となりゃぁ親父に仕込まれたに違ぇねぇ」

「私も講武所の師範代まで拝命した身、そのことは知っていますが・・・」

「そうか、おめぇも旗本の端くれだったな」

「窪田様には及びもつかぬ貧乏旗本の倅ですが」

「そう卑下するんじゃねぇ、今はもう上司でもなけりゃ部下でもねぇんだ」

「それはそうですが・・・」

「今の政府高官を見てみろ。元はおめぇよりずっと格下の下級武士ばっかりだ」

「まあ・・・」

「ところで、そのお嬢様ってのは別嬪べっぴんだったかい?」

「え?」

「別嬪で気位が高ぇとなりゃ、何か良からぬ事を考えそうなもんじゃねぇか?」

「それは藤田さんの経験から?」

「遊廓にゃぁな、そんな女がごまんと居たぜ」

「遊女と一緒にしてはまずいんじゃないですか?」

「なぁに、女の本性は皆同じよ、身分なんか関係ねぇ」

「そんなものですか?」

「そんなもんだよ・・・」


*******


「お父様、今度のパーティにご招待したい方がおられるのですが?」

窪田貴子くぼたたかこはソファの後ろから父に声を掛けた。

正法はコヒーカップを手にしたまま、首だけで振り向いた。

「どこの御令嬢かな?」

「御令嬢ではありません、警視庁の巡査さんですの」

「なに、なぜお前が巡査などと付き合いがあるのだ?」

貴子は父の前に回ってソファーに腰掛けた。

「この前、女学校の前でちょっとしたゴタゴタがありましたのよ」

「ほう・・・」

「その時、その巡査が伊藤と互角に渡り合ったのです」

「あの伊藤とか?」

「はい、それでお父様も興味がおありになるのじゃないかと思って」

「儂は剣術はさっぱりだが、祖父から剣の事については色々と聞かされた。それほどに腕の立つ者なら面白い話の一つや二つ聞けるかも知れんな」

「では、お宜しいのですね?」

「来賓は身分のある方ばかりだ、その巡査が気後れしなければ良いが」

「そのご心配は要りませんわ。私には分かりますの、その方はそんな事では物怖じなどされない方だと」

「そうか、ならば呼ぶが良い」

「有難う御座います・・・お父様」

貴子はにっこりと微笑んだ。


*******


「今井さん、署の玄関に今井さんを訪ねて人が来ていますが?」

受付に座っている巡査が呼びに来た。

「私に?」

「はい、伊藤舞介と名乗っています」

「伊藤?はて、どこかで訊いたような・・・」

今井は思い出せぬまま、署の玄関へ向かった。


玄関の待合に絣の着物が見えた時思い出した。

「君は・・・」

「その節は失礼しました」

悪びれもせず伊藤が言った。改めて見ると今井よりもずっと若い、否、顔にはまだ幼さが残っている。

「私に用があると言うのは君か?」

「はい、窪田正法様からこれを預かって来ました」

伊藤は懐から最近流行りの西洋便箋を取り出して今井に手渡した。

「これは?」

「パーティーの招待状です」

「パーティー?」

「西洋の宴会です。窪田家では時々お客さまをお招きしてパーティを催しているのです」

「私に呼ばれるいわれはないが・・・」

「それは私にも分かりかねます、何分お嬢様が是非にと言われますので」

「お嬢様・・・」藤田の言葉が甦る。「断れば?」

「さあ、それはご自由に、ただ・・・」

「ただ?」

「赤池警視監のお顔を潰す事になるかも知れません」

「なに・・・?」

「窪田様は川路大警視とも御懇意にされておりますので」

「むむぅ・・・」

「ご返事は?」

今井は招待状の日付を見た。丁度早番の日であった。

『夜勤なら断れると思ったのに・・・いっそ誰かに代わってもらおうか?』

「言っておきますが、あなたの配属を変える事など窪田様にとっては造作もない事です」

「脅しか?」

「本音を言えば、私はあなたに断って頂きたいのです。しかし、それでは貴方が困ったことになるのでは?」

「私のために言っていると?」

「はい」

「そうか・・・君の忠告をありがたく訊いておくこととしよう」

「では?」

「窪田様に、出席すると伝えてくれ」

「分かりました」


伊藤は今井に軽く会釈すると、玄関を出て行った。


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