警視庁御前試合
警視庁御前試合
時間通りに、川路大警視は道場に設えられた観覧席に着いた。
来賓席には警視監以下、部長課長連中が勢揃いしている。
今日の試合を捌く行司は、警視庁剣術師範の江頭兼好。
五郎と弁千代は大警視に礼をした後、互いに礼を交わし道場中央に進み出た。竹刀を構えて蹲踞の姿勢を取る。
江頭が観覧席に向いて礼をした。
「勝負三本、始め!」
立ち上がって剣尖を合わせ、声も無く間合いを競り合った。
気合いがビリビリと道場中に伝わって、咳ひとつ聞こえない。
五郎も弁千代も相手の目を見なかった。
目は情報を漏らす。
また、どこか一箇所を凝視しても相手の動きは見えない。
大きな額縁の中に相手を入れるようにして見れば、動きは見え易くなる。
視点をずらすようにして、静かに喉から胸の辺りに視線を移し、また肩越しに背景を見遣った。
頭から思考を追いやった。
考えていては躰は遅れる。
相手が動く前の気配を読み取って技の発動を潰して行く。
二人の動きが止まった。
しかし、二人の躰の内側は超高速で動いている。
ふと、弁千代の気が消えた。
引き絞った弓から矢が放たれるように、五郎の竹刀が火を噴いた。
弁千代の躰が右に揺れたと思った時には、面に衝撃を感じていた。
「面あり!一本!」
江頭の手が上がった。
五郎は面金越しに弁千代を睨み付けた。弁千代は涼しい顔でこちらを見ている。
『父の剣には気迫が足りないのです』
ふと、無門薫の声が蘇った。
『そうか、無門とやれる喜びですっかり忘れていたぜ。俺の剣には何かが足りないのでは無く、多すぎるのだった』
五郎は開始線に戻ると竹刀を構えた。
弁千代がピクリと身を震わせた。
「二本目、始め!」
あれ程道場内に張り詰めていた気が、全く消えていた。
五分が経過した時場内がざわつき始めた。
「あの二人、なにをやっているんだ?」木場が今井に訊いた。「まるで抜け殻のようじゃないか」
「木場さんにはわかりませんか?」
「何がだ?」
「あの二人、あっちの世界に行ってしまったんですよ」
「あっちの世界だと?」
「我々には行く事の出来ない世界です」
「なんだと!」
「私はあの二人が羨ましい・・・」
場内のあちこちから野次が飛んだ。
巡査達はそれぞれが腕に自慢の元士族だ。剣術をやっていればいる程、気の抜けた太刀合いが許せない。
「もっと打ち合え!」
「技を出し惜しみするな!」
「そんなんじゃ日が暮れちまうぞ!」
野次は次第に怒号になり場内に充満した。
川路大警視が渋い顔をし、江頭が太刀合いを止めようとした時、弁千代が動いた。
と、思った時には、高い破裂音と共に五郎が弁千代の脇をすり抜けていた。
「ど、胴あり!一本!」慌てて江頭が叫んだ。
あっという間に怒号は止んだ。
「どうした?」
「何があった?」
誰にも二人の動きは見えなかった。
「今井・・・あれか、あっちの世界というのは?」
「そうですよ、見たでしょう木場さん」
「い、いや、見えなかった・・・」
「いいえ、見えなかったと言う事が見えた筈です」今井が呟いた。
三本目は時間切れになった。
気が付けば一時間以上が経過している。
川路大警視は、次の予定を大幅に遅らせて二人の太刀合いを凝視していたのだが、側近の再三の懇願に負けて席を立ったのだった。
「いいものを見せてもらった」
そう言い置いて大警視は道場を後にした。
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「時生、酒だ、酒の支度をしろ!」
玄関の三和土に足を踏み入れた途端、五郎は奥に向かって声を上げた。
「まあ、五郎さん、帰ってくるなりなんですよぅ・・・」
廊下を伝う音がして時生が顔を出す。
「あら、お客さま?」
「無門弁千代だ、薫の親父だ」
時生が驚いて目を見張った。
「あ、あの・・・五郎さんがいつも言ってる・・・」
「いつも言ってるは余計だ、早く酒の支度をしねぇか!」
「そういう訳には参りません」
時生は吾郎を睨むと、上がり框に膝を折って姿勢を正した。
「初めてお目にかかります、藤田五郎の妻、時生と申します。いつも主人が貴方様の事ばかり話して聞かせますので、いつお会い出来るかと楽しみにしておりました」
「無門弁千代です、いつも薫がお世話になっております」
「いいえ、本当に良い息子さんで、私どももたまに訪ねて下さるのを楽しみにしているのでございますよ」
時生が顔を綻ばせて弁千代を見た。
「時生、挨拶はその辺で良いだろう、酒の支度をしたら豆腐屋へ走って木綿を買って来い」
「お客さまに木綿をお出しするのですか?」
「湯豆腐はなぁ、木綿に限るんだよ。絹ごしなんてあんな柔らけぇもん、歯ごたえがなくって酒の肴にゃなりゃしねぇ」
「では、散らかっておりますが、どうぞお上がりください。すぐにお酒の支度をして参ります」
「造作をお掛けします」
弁千代は時生に誘われて奥へと入って行った。
「関東の醤油が良いんだ、九州の醤油は甘くていけねぇ」
夏火鉢にかかった土鍋を覗き込みながら五郎が言った。
「俺ぁ酒を呑む時、肴は湯豆腐と決めている。酒の味を壊さねぇからな」
「俺は九州の醤油には慣れたよ」弁千代は盃を口に運びながら答える。
「俺ぁまだ九州には行った事はねぇが・・・どうだぃ?」
九州の情勢のことを聞いているのだろう。
「まず、熊本が危ない。熊本が動けば後はあちこちに飛び火する」
「鹿児島は?」
「それが引き金になって、いずれは・・・」
「そうかい、じたばたしてもしょうがねぇってこったな」
「今度は敵同士にならずに済みそうだな」
「俺ぁおめぇとやりたかったぜ・・・真剣でな」
五郎が上目遣いに弁千代を見遣った。
「二本目でいきなり変わった・・・」
今日の御前試合の事を言った。
「薫の言葉を思い出したのさ」
「薫が何と?」
「俺の剣には何かが多いと言った」
「薫がそんな事を・・・」
「父上の太刀合いはいつの間にか終わっている・・・と」
「あいつ・・・」
「さすがおめぇの息子だぜ、良い目してやがる」
「剣の腕とは別だ」
「そこが面白ぇとこだよな・・・ところで」
話は次に移る。
「左月の爺さんが死んだぜ」
「ああ、薫から知らせがあった」
「おめぇに負けた事を嬉々として語りやがった」
「死にたがっていたものな」
「おめぇが斬ってやりゃ良かったんだ」
「今更言う事ではない」
「そうだな・・・帰りに参ってやんな」
「墓はこの近くなのか?」
「ああ、後で場所を教えてやる」
「うむ」
「おめぇは警邏隊を指揮するのか?」
また変わる。
「そういう事になろう」
「俺は遊撃隊を指揮する。薫の卒業の時期と重なりゃ、薫も下士官として従軍する事になる・・・もう、会ったのか?」
「いや、まだだ・・・」
「会っておけ、後で後悔せぬようにな」
「そうしよう」
五郎がまた鍋を覗き込む。
「そろそろ良いようだ」
「さて、本腰を入れて呑むか」
「今夜は帰さねぇぜ・・・」
弁千代は徳利を取って五郎に傾けた。




