出立
出立
「弁千代、やはり行くのか?」無二斎が訊いた。
「はい」
「寂しくなりますね」玉がいまにも泣き出しそうな顔をした。
「長々と、お世話になりました」
「ベンさん、『草』の形はどうする」三雲が尋ねる。
「仕方がありません・・・」
「もう大丈夫じゃ、お前なら一人でも行き着くことが出来るじゃろう」無二斎が断言した。
約束の一年を待たず、弁千代は無二斎の元を去ることになった。
御前試合の後、弁千代は柔術指南役に推挙されたのだ。然し弁千代にはまだやるべきことが残っている、ここで武者修行をやめる訳にはいかない。
「殿様のお誘いをお断りする以上、ここに留まる事は出来ません」弁千代はそう言った。
お城には西郷を通して、丁寧に非礼を詫びる書状を届けて貰った。
西郷は、速水を柔術指南役に推挙する事を約束してくれた。
名君は全てを察し、弁千代の我儘を許してくれた。ただ、このままここに留まる事は弁千代にはどうしても出来なかった。
「達者でな」
「師匠も、どうぞお達者で」
「時には思い出してくれろ」
「玉様、必ず文を書きます」
「また会おう」
「三雲さん、その時はお手合わせ願えますか?」
「勿論・・・」
四人は暫し無言になった。
「何時迄も名残は尽きません。これにておさらば致します」
「うむ、さらばじゃ」
弁千代は深々と頭を下げると徐に踵を返し歩き出した。何度も振り返った。その度に皆手を振ってくれた。
道が緩やかに曲がり始めると、無二斎の家は見えなくなった。弁千代はもう振り向かなかった。ただ目の前が霞んでどうしようもなかった。




