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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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御前試合



御前試合



弁千代が『無足』を使えるようになったのは、入門してから半年程経った頃だった。


「凄い早さだ、やはりベンさんは筋が良い」三雲が感心したように呟く。

「剣術が役に立ちました」弁千代は照れて俯いた。

今朝、庭で三雲に手を取られた時、弁千代は全く無意識に動いていた。

今まではそれでも三雲は崩れなかったのだが、今日は力の流れが腰の辺りで逆流しなくなっている。まるで溜まっていた水が、堰を切ったように流れ出したようだった。

三雲は、絹のように軽く飛んで行った。

「よし、忘れないうちにもう一度やってみよう」

「はい!」弁千代は三雲に両手を差し出した。


                 

                   1


「儂は、明日から隣国へ旅に出る。弁千代、供をせぬか?」夕飯の席で無二斎が言った。

「はい、喜んで。しかし急なお話ですね」

「いや、そうでも無いのだ。実は予てより打診はあったのじゃが、儂が渋っておったのじゃよ」

「打診とは?」

「御前試合じゃ。隣国は柔術が盛んな土地柄での、強い輩が大勢おる。今年はお世継ぎが産まれたというので、柔術諸流が祝いの御前試合を計画したのじゃ」

「師匠が出場されるのですか?」

「まさか、この老いぼれにそのような事は言うまいよ。儂は来賓として呼ばれたのじゃ」

「何だ、それは残念です。せっかく師匠の技が見られると思ったのに」

「そのかわり、弟子を出さないかと言ってきた。隣国に若いが天才と目される武術家がおっての、その相手を求めておるのだそうじゃ」

「えっ!」

「お前ではまだ早かろうと思っておった。三雲では薹が立ちすぎて画にならん」

「それでは・・・」

「断ろうと思っておったのじゃよ。ところが近頃のお主の上達ぶりを見て気が変わった、どうじゃ出て見んか?」

「私に務まりましょうか?」

「技は、強い相手に臨んで本物になる。お主にとって得はあっても損は無い」

「分かりました、謹んでお受け致します」

「そうか、やってくれるか。しかし相手は藩の名誉を背負って出て来る、くれぐれも油断するで無いぞ」

「心得ております」

「ならば、早速旅の支度をせい、隣国までは三日の行程じゃ。玉には申し付けてあるでな、必要なものは揃っておる筈じゃ。足りない物があったら今のうちに荷に加えておくが良い」

「はい、畏まりました」


弁千代は荷を点検し、早めに床についた。然し、色々なことを想像してなかなか寝付かれなかった。


翌朝、弁千代は荷を担ぎ玉と三雲に見送られて家を出た。その時無二斎が弁千代に刀を返した。


「良いか、命の危険が迫るまで抜くでないぞ」そう言って無二斎は自らも脇差を腰に差す。

「はい」弁千代は久し振りに腰に愛刀を佩びた。身の引き締まる思いだった。


その日は、ゆるゆると次の宿場まで歩く。無二斎は歳に似合わず健脚であったが無理はさせられない。早めに宿を取り、飯を食い湯に浸かった。

弁千代は、甲斐甲斐しく無二斎の身の回りの世話をした。そうやって少しづつ無二斎の呼吸を盗み覚えていくのだ。


二日目、まだ暗いうちに出立した。月がまだ、東の空に消え残っている。

「どうやら尾行がついた・・・」前を向いたまま無二斎が囁いた。

「何者でしょう?」弁千代も無二斎にしか聞こえぬような小声で尋ねる。

「隣国の柔術道場の奴じゃ。まだ無名のお主の実力を見極めたいのであろうよ」

「いずれ御前試合で見られるものを・・・」

「奴らも必死じゃ。何処の馬の骨ともわからぬ奴に負けるわけにはいかんからのう」

「戦いは、すでに始まっているのですね」

「そういう事じゃ」


陽が昇って人通りが多くなると、尾行も大胆になった。間に旅人を二、三人挟んで付いて来る。

「そろそろ来るぞ。あの社辺りかの」無二斎が言った。

「鳥居の陰に何人かいます」

「尾行と合わせて四、五人といったところか?」

「間に旅人が二人おりますが?」

「少し止まってやり過ごそう」

無二斎は路肩の石に腰掛け、道に背を向けて煙草入れを取り出した。

弁千代は、しゃがんで草鞋の紐を結び直す振りをして、旅人を先に行かせた。

尾行の侍は、素知らぬ顔で二人の横をすり抜け、神社の境内に入って行く。

ちらりと見た横顔はまだ若者のものだった。

周りに旅人の姿はなくなった。二人が神社の前に差し掛かった時、鳥居の後ろから黒い頭巾を被った侍が現れ道を塞ぐ。左手の親指が刀の鍔に掛かっておりいつでも鯉口が切れる態勢だ。

「何用じゃな?」無二斎が訊いた。

「非礼はお詫びする、黙って御同道願いたい」頭巾の侍がくぐもった声で言った。声の調子に気負いが感じられた。

侍について鳥居を潜ると、三人の侍が背後を固めてついて来た、いづれも頭巾で顔は見えない。

これで先に入った侍と合わせて五人になる。境内に人気は無かった。


「安藤無二斎先生ですね?」待っていた侍が訊いた。先に入った尾行の侍だ。

「如何にも」

「私は龍神馨、大和流柔術淵心館道場の門弟です」

「その門弟殿が、何用かな?」

「是非我々と太刀合って頂きたい」

「それは何故?」

「そちらの方は今度の御前試合に出場のお方と推察致します。失礼ですが、御前試合の相手に相応しい方か見て参れ、と我が師日置善尉に云い使ったのです」

「ほう、我が弟子の力が知りたいと?」

「こちらの代表は、当道場の師範代、速水健吾。若いが我々五人でかかっても敵いませぬ。そちらの方がもし我々に遅れを取るようなら、この場から引き返して貰えと命じられました」

「その訳は?」

「御前に恥かしい試合をお見せすることはできないからです。もしお聞き届けいただけないならば刀にかけても・・・」

「それは穏やかではないな・・・どうする弁千代」

「其方の仰る事も道理、お気の済むように」弁千代は龍神を見据えて答えた。

龍神も弁千代を睨み返す。

「それでは試させて頂きます」龍神はさっと右手を挙げた。

四人が一斉に頭巾を取った。皆まだ若い、それでも弁千代よりは幾分年嵩に見える。

「刀は邪魔です、無腰で参りましょう・・・太田!」

龍神が命ずると、一人の侍が刀を集め始めた。「そこもとの刀もお預かりいたします」

弁千代が刀を差し出すと、太田は恭しく受け取り他の刀と一緒に神殿の前に置いた。

「神にかけて卑怯な真似は致しませぬ」龍神が無二斎に誓った。


立ち合いは静かに始まった。無二斎は荷に腰掛けて傍観者となる。

「中武弁千代・・・参る」弁千代が前に出ると、五人は鶴の翼のように横に広がった。それぞれの間隔は約一間。

鶴の頭の部分に龍神が立った。

両端の二人が弁千代を包み込むように移動を始めた。


鶴の翼の先端が、同時に弁千代に襲いかかった。弁千代はそれを無視してまっすぐ鶴の頭に走る。龍神は二、三歩後退した。

それと入れ替わるように、鶴翼の肩が前に出る。

右の敵が拳を繰り出してきた、弁千代は身を沈めながら右に飛ぶ。

拳が頭上を掠めると同時に、右手を敵の股座に突っ込み肩に担ぎ上げながら、左から迫った敵に投げつける。二人は折り重なって地面に叩きつけられた。

間を置かず、背後から敵が組み付いて来た、弁千代の動きを止めたいのだ。

止められれば不利になる。右脚を跳ね上げ、振り向きざま蹴倒した。

腰にしがみついて来たもう一人を、肘を落として潰す。「う〜ん」と唸って二人は気を失った。

弁千代は龍神と対峙した。


「思った以上です!」龍神が言った。

「まだ続けますか?」

「当然です。こんな機会はそうそう無い」

「ならば・・・」




弁千代が入身の構えを取る。

龍神は手刀の先端を弁千代に向けた。龍神の得意は当身か?。

弁千代は、抜足で素早く間を詰め、裂帛の気合を込め一本拳を龍神の喉目掛けて突き出した。

龍神は咄嗟に右に身を躱し、右手刀で弁千代の頸を押し斬るように打った。

二人の躰が交差した。どちらの技も紙一重で決まらず、互いの立ち位置が変わる。

龍神の手刀は弁千代の正中を捉えたまま動かない。

『敵の拳足は刃物と思え』弁千代は無二斎の言葉を思い出す。

龍神の手刀が風を巻いて突き出された。

弁千代はその手を払わぬよう身を躱し、そっと指先で龍神の腕に触れる。

「わっ!」

途端に龍神の躰が硬直し、目の前の顔が恐怖で引き攣った。

龍神は自ら跳んで弁千代から離れ、もう自分から攻撃しようとはしなかった。

弁千代が前に出ると龍神はじりじりと下がった。明らかに戸惑っている。

「参りました!」突然龍神が跪いた。

弁千代は構えを解いた、龍神の額からは汗が流れ出していた。


「気が済みましたか?」弁千代が訊いた。

「はい、・・・しかし今のは何だったのですか?」

「何の事です?」

「あのまま突っ込んでいたら、私はどうなっていたのでしょう?」

「さあ、それは・・・」


「思考を超えているのじゃよ」無二斎の声がした。「体が勝手に動く、もう本人の預かり知らぬ境地じゃ」

「そのようなことが・・・」龍神は信じられぬという顔をした。

「あるのじゃよ、武術の原理原則に従って修行しておれば、何も不思議な事では無い」

「良い経験をさせて頂きました」龍神は再び額を地面に擦り付けた。


その後、龍神の案内で無二斎と弁千代は隣国の城下に向かう事になった。

他の門弟達は師に報告する為、先に帰って行った。


「なんとも知れぬ恐怖でした」旅籠の湯船に浸かってから龍神が言い出した。「なんだかこう、奈落の底を覗いているようでゾッとしたのです」

「左様で・・・」

「いつもどのような稽古をされているのですか?」

「そうですねぇ、兄弟子と『形』の稽古ばかりやっております」

「『形』の稽古だけであのような・・・」

「『形』には、たとえ基本の『形』であってもそのまま極意に通じる『理』が含まれているのです。否、『理』そのものだと言っても良い、ある意味一番難しいのが基本の『形』でしょうね」

「そこでつまずけば極意へは至れぬと・・・?」

「そういう事です。『形』は、出来ていない我々に、出来たカタチを教えてくれます。後はその間を埋めていけば良い」

「そのように簡単に仰られるが、とても凡人の我々には・・・」

「凡人だからこそ『形』が必要なのです、出来ないのはやる意思がないか、即物的な結果を求めるからです」

「しかし我々武士は兵士です、すぐに結果を求められる」

「さあ、そこが問題なのです。相対的な評価に価値を求めるか、絶対的な価値を見出すか」

「なるほど・・・我々はその狭間で揺れている、結果、中途半端な技になる」

「私などは気楽なものです、家督は兄が継いだ、人の評価を気にせず修行が出来る、ありがたい事です」

「私等は組織の中で生きて行く為にそのように割り切れないのです、窮屈なものです」

「それが世の中でしょう」

「私は貴方が羨ましい、私も脱藩して・・・」

「それは違う!」

「ははは・・冗談ですよ。そんなこと出来はしない」

「・・・」


弁千代にはまだ、自分の行く末を想像する事は出来なかった。


                  

                    2



翌朝、三人は遅めに宿を出た。隣国の城下はもう近い、急ぐ必要は無い。

然し、龍神はなんだか浮かない顔をしている。

「龍神殿、如何されましたかな?」無二斎が訊いた。

「はい、気になることがございます・・・」

「なんじゃな?」

「実は、太田が妙なことを口走っておったのを思い出したのです」

「なんと言っておったのじゃな?」

「万が一、他国の柔術家に負けるような事があれば、道場は潰されるのだと。ならば、我々に何か出来ないかと」

「ふむ・・・」

「その時は、気にも止めず聞き流しておりましたが・・・然し」龍神は間を置いてから思い切った様に言った。「刀を抜くような事があるやも知れませぬ」

「血気に逸った若者が考えそうな事じゃの」

無二斎は暫く考えていたが、「龍神殿、御城下に入る道はこの道以外には無いのかの?」と訊いた。

「はい、一本道で御座いますれば。竹林の中を通っても、堀を渡る橋は一つです」

「動きがあるとるとすれば、もっと手前であろうな」

「いかさま・・・」

「師匠、私が様子を見て参ります」弁千代が言った。

「そうしてくれるか・・・然しくれぐれも手を出すで無いぞ」

「心得ております」


弁千代は早足で二人から離れて行った。

「龍神殿、ゆっくり参ろう。心配は要らぬ」

「はい・・・」龍神は、それでも不安を消す事は出来なかった。




先行した弁千代は、なるべく人の間に紛れるようにして歩いた。

竹林の手前に大きな倉庫があった、前に大八車が沢山並び、厩もあって人足達が忙しく立ち働いている。

弁千代は、傍の松の木に身を寄せ暫くその様子を観察した。

小半刻も経った頃一人の侍が建物から出て来た。見覚えのある顔だ、太田に間違いない。


「では、頼んだぞ」太田が言った。

「へい、お任せを」後から出て来た人足が揉み手をしながら頷いている。

「上手く事が運んだ暁には、手間賃は弾む」

「そりゃ、ありがたいこって!」人足は頭を下げた。


太田はそのまま建物の裏手に姿を消した、これ以上近づくのは得策では無い。弁千代はいま来た道を引き返して行った。


「そうか、後の三人も建物の裏に潜んで居たに違いない。そこで儂らを待ち伏せるつもりじゃろう」無二斎が断じた。

「私が話をしてみます」龍神が言った。

「無駄じゃ、返ってお主の身が危ない」

「ではどうすれば・・・」

「相手の策に乗ってやろう」

「しかし・・・」

「なぁに、案ずる事は無い。いずれ道場を思っての事じゃ、やがて目が覚める」

「人足を雇ったと思われます」弁千代が言った。

「刀は使うな。誰にも怪我をさせてはならん、特に人足にはな」

「分かりました」

「私はどうすれば?」龍神が訊いた。

「手出しは無用じゃ、儂らの刀を預かってくれればそれで良い」

「はい・・・」龍神は俯いて唇を噛んだ。


件の倉庫の前まで来ると、人足が一人血相を変えて飛び出して来た。

「お侍さん方、助けてくだっせ!裏で刃物を持った大男が暴れておるんでやす!」

「なにっ!そりゃ大変じゃ、案内致せ!」無二斎、迫真の演技である。

「こちらでやす!」

人足について裏手に回ると、案の定誰も居なかった。小さな休憩小屋と普段は荷物を集めておくのであろう広い空き地があるだけだ。

「何処じゃ、大男というのは?」無二斎が人足に訊いた。

人足は、ニヤリと笑って「そんなもん、最初っから居やしねえよ」と言った。

「おーい、みんな出て来い!」

小屋の中からバラバラと人足達が出て来た、ざっと七、八人は居るだろう。皆、手に棒だの杭だのを持っている。

弁千代が無二斎の前に出た。

「刀を・・・」そう言って弁千代は刀を龍神に預けた。

「龍神殿、下がっていよう・・・弁千代、任せたぞ」

「承知!」

無二斎と龍神が下がると、人足達は弁千代を取り囲んだ。狙いは最初から弁千代一人なのだ。


「皆んな!侍に刀がなければ怖がる事はねぇ。一気に畳んじまいな!」さっきの人足が言った。

「応!」人足達は一斉に弁千代に躍りかかる。

それから龍神の見たものは、凡そ信じられない光景であった。

弁千代に殺到する人足達の得物は悉く空を切り、弁千代の躰の一部が触れる度、彼らは宙を舞って落ちて行った。

全てが終わるまでそれほどの時間は要しなかった、気がつくと立っているのは弁千代一人になって居た。


「出て来たらどうですか?」弁千代が小屋に向かって声をかける。

コツン・・と音がして、小屋の中から太田が出て来た。右手で刀の柄をしっかりと握りしめている。

緊張のあまり、鐺を入り口の板にぶつけたのに違いない。

後から三人の若侍も出て来たが、強張った顔は太田と大差無い。


「太田!何故このような馬鹿な真似を!」龍神が堪らず叫んだ。

「道場の将来を思っての事だ!」

「馬鹿な!師の命は対戦者の力量を測れという事のみぞ!」

「そんな事は分かっておる、然し・・・」

「お主は師の顔に泥を塗るつもりか!速水健吾を信じられんのか!」

「煩い!ろくに戦えもしなかった奴の言葉など、聞く耳持たぬわ」太田は龍神を睨みつける。

「なにっ!」

「もう良い、龍神殿。それ以上火に油を注ぐ事は無い」無二斎が口を挟む。「弁千代、代われ。儂が相手をする」

「はっ、然し・・・」

「お主が戦えば、どちらも無事では済むまい。それでは遺恨が残る、大事な御前試合を遺恨試合にしてはなるまいぞ」

「・・・」

弁千代は渋々引き下がった。

「儂の脇差を頼む」無二斎は龍神に脇差を預け、四人の侍の前に立った。

「抜くが良い」

「うぬ・・・」柄を握った手に力がこもる。

「抜けるかな?」無二斎は一歩前に出た。

ザザッと四人が後退さる。誰一人刀を抜く者はいない、否、抜けないのだ。

皆、必死の形相で抜こうとしているのに、鯉口が錆び付いた刀のように抜き差しならない。

「ほれ、どうした。抜かないのならこちらから行くぞ」さらに無二斎が前に出る。

「うわっ!」四人は小屋の壁際まで追い詰められて動けなくなった。

それを見た無二斎が四人に命じた。「今から城下に戻り、日置先生に儂らの到着を報告するが良い。但しそれ以外の事は何も言うでないぞ」

四人は放心したように口を開けて頷いた。

「行け!」

無二斎が叫ぶと、四人は脱兎の如く駆け出した。


「何がどうなっているのです・・・?」龍神が呆れたように訊いた。

「なぁに、ただの子供騙しの幻術じゃよ」

「然し・・・」

「言葉は『呪』じゃ、使いようによっては人を縛る、あのような状況では効果覿面じゃな、あははははは」

「言葉は人を縛る・・・」龍神は無二斎の言葉を繰り返した。

「儂らは知らぬ間に多くの言葉に縛られておるのじゃ、今更驚くことでは無い」

「はっ!肝に命じます」

「師匠、先を急ぎましょう、なんだか空模様が怪しくなって来ました」弁千代が急かす。

「おお、そうじゃな、年寄りに冷たい雨は躰に悪いからのう」


三人は建物を離れ、城下へと向かった。



                   3



城下へ入る頃、雨が本降りになり、携帯用の合羽では用をなさなくなった。


「今日は何処へお泊りです?」商家の軒先を借り受け雨宿りをしながら龍神が訊いた。

「うむ、ご家老の西郷宗久様の御屋敷にご厄介になる予定じゃが」

「ご家老が先生をご推薦なさったのですね?」

「西郷様がご家老になられる前は、良く屋敷に招かれて稽古をしたものじゃ」

「ご家老の腕前も、相当なものと伺っております」

「その辺の武術家では、問題になるまいよ」

龍神は暫く考えてから言った。

「如何です、我が師日置膳尉の道場淵心館は目と鼻の先、雨が止むまでお休みになられては?」

「それは有難いことじゃが・・・」

「太田のした事は師の預かり知らぬ事。来て頂ければ師もきっと喜ぶ事でしょう」

「弁千代、どうする?」

「私は是非伺いたいと思います、速水という人にも会ってみたい」

「そうか、なら決まりじゃ」

「はっ、ありがたき幸せ」龍神の顔に笑みが戻った。


雨が少し小降りになった頃を見計らって、三人は淵心館に急いだ。

遠目に見ても立派な道場が近付いて来る。冠木門には『淵心館』と大書した扁額が掲げられていた。

驚いたことに、門の下に人影が見える。男が三人、女が一人のようだ。


「あっ、先生!」龍神が声を上げた。

「や、ようこそおいで下さいました、安藤無二斎先生ですね?」大柄な壮年の武士が声をかけて来た。「当道場の主人、日置膳尉です」そう言って膳尉は深々と頭を下げた。

女が無二斎に傘を差し掛けてくる。膳尉の妻女であろうか、控えめないでたちに好感が持てる。

「如何にも安藤無二斎じゃが」無二斎は師の後ろで畏まっている太田の顔を見据えた。

「太田に聞きました。弟子の不始末、後でいかようにもお詫び致します、が先ずは拙宅へお上がり下さい、ボロ屋ですが屋根があるだけマシでしょう」

そう言って、膳尉は無二斎と弁千代を玄関に誘った。

女が傘を差し掛けたまま玄関まで付き添った、その後にもう一人の男と龍神が従い、太田が俯いてついて来た。


母屋へ通され座が落ち着くと、膳尉が改めて挨拶をした。

「私は日置膳尉、どうぞお見知り置きを」

「安藤無二斎と申す、これは弟子の中武弁千代という者です」

「中武弁千代です、どうぞよろしくお願い申し上げます」弁千代は善尉に向かって頭を下げた。

膳尉は弁千代を暫くの間見据えていたが、やがてにっこり笑って頷いた。

「これは、我が愚妻千鶴と申します」膳尉が先ほどの女を紹介する。

「千鶴で御座います」

膳尉は次の間に控える三人を見た、「そちらに控えておりますのは我が弟子、既に龍神と太田はご存知ですね?」

「如何にも」無二斎が答えた。

「今一人の者は、速水健吾、我が道場の師範代にございます。今度の御前試合では中武殿のお相手を致します」

「速水健吾、お見知り置きを」速水は畳に手を着き上目使いに弁千代を睨む。

弁千代も速水を睨み返す。

「速水は若いが当藩随一の柔の使い手、中武殿とは好敵手となるでしょう」

膳尉は無二斎に向き直り頭を下げた、「この度の不祥事は、全て師である私の責任です、どうかお許し下さい」

「いや、御前試合を恥ずかしくないものにしようという、貴殿のお考えは正しい」

「然し、人足まで雇って、剰え刀を抜こうとした事は許されるものではありません」善尉は渋い顔をした。

「太田殿がご報告を?」

「いや、太田は先生の到着と中武殿の実力が十分なものであるという報告をしたのみです」

「ほう?」

「あまりにその時の様子がおかしかったので、問い詰めますと白状致しました」

「どうかお許しください・・・」太田は次の間で消え入りそうになりながら、畳に額を擦り付けた。

「何分にも私と道場の将来を案じての事、この通りお詫び致します」膳尉も弟子とともに頭を下げた。

「双方に怪我の無かったことは、不幸中の幸い。此度のことは無かった事に致しましょう、のう弁千代」

「師匠の御心のままに」

「有難い、これで一安心じゃ」膳尉はほっと息を吐いた。


                

                





                    4


雨が上がり二人は淵心館を辞去した。泥濘んだ道を西郷の屋敷に向け足を運ぶ。

屋敷は大手門に近い武家屋敷が立ち並ぶ一角に、広大な敷地を占めて建っていた。

「此処じゃ、懐かしいのう」無二斎が漆喰の海鼠塀を見上げて呟く。

「さすがご家老のお屋敷、立派なものですね」弁千代も感心している、故郷の我が家の比では無い、見渡す限り白い塀が続いていた。

長屋門に立っている門番に、訪を告げる。

「御前試合に弟子を伴って罷り越した安藤無二斎と申す、ご家老西郷宗久様にお取り次ぎ願いたい」

門番は小さな爺さんと孫のような共侍の二人連れを見て怪訝な顔をしていたが、すぐに門内に入って行った。

しばらく待っていると取次の侍が出て来た。月代を綺麗に剃り上げた若侍である。

「榊慎之介と申します。ご家老からくれぐれも粗相の無いようにと仰せつかっております、どうぞこちらへ」

榊に誘われて式台を上がると、畳敷きの玄関になっていた。

そこを左に行くと、主人が公用に使う建物、右へ行くと母屋である。榊は右へ曲がり長い廊下を通って歩いて行く。ここには生活の匂いがした。

いくつもの部屋の前を通り過ぎ、八畳の居間に通された。広縁から庭が望める落ち着いた部屋だ。

「ご家老はもう直ぐお城からお戻りです、此処でしばらくお待ちください」そう言って榊は下がって行った。

入れ違いに女中が茶を持って現れた後は、静かな時間が流れた。此処は外界とは隔離された別世界である。

築山には、松をはじめ季節毎に味わいが変わるように植物が配置され、池には橋が架かり鯉が泳いでいた。

「素晴らしいお庭ですね、なんとも贅沢だ」弁千代が言った。

「なんの。精神的なご苦労の絶えぬご家老は、此処で英気を養ってまた外の世界の戦場に戻られるるのであろう。してみると強ちこの庭も贅沢とは言えんよ」

「確かに、そう考えると我々とどちらが幸せとも言えませんね」

「人の幸せとは、心の安定にある。どのような状況でも心が静かならば幸せなのじゃよ」

「武術の修行もそのためなのですか?」

「武術は方便じゃよ、目の前に現れる現象に対処しながら本質を見極め、躰の動きの質を変えながら、心の性質も変えて行く為のな」

「今のままではダメなのですね?」

「以前も申したが、心も躰も本来病気なのじゃ。まずその事に気付かなければ病気を治すことは叶わんよ」



宗久が下城してきたのは、酉の刻を回っていた。明後日の御前試合の最終的な打ち合わせに手間取っていたのである。

「無二斎殿、久し振りじゃ!ご健勝であられましたか?」宗久は手を取らんばかりに喜んだ。

「西郷殿こそお健やかで何よりです」

「何年振りかのぅ」

「さて、儂がまだお役についていた頃じゃで、七年にもなりますか?」

「玉殿はお元気か?」

「相変わらず軍鶏の首を絞めております」

「ははははは、私が藩命により無二斎殿の道場で稽古をしていた頃、よく軍鶏鍋を馳走になった」

「よく覚えておいでですな」

「なあに、忘れられる筈は無い。一生で一番楽しかった頃じゃ」

「今は、そうでは無いと?」

「責任ばかり重くなっての、あの頃が懐かしい」

宗久がふと弁千代を見た。

「これは失礼致した、余りにも懐かしゅうて気付かなんだ。そちらが明後日の午前試合に出場されるお方か?」

「はっ、中武弁千代と申します、お見知り置きを」

「うむ、良い面構えじゃ。何年修行なされた?」

「まだ、一年に満ちません」

「何、それは・・・」宗久の顔が曇る。

「西郷殿、弁千代は剣術で相当な腕を持っておりますが、一年間剣術を禁止し柔術のみに専念させております、古参の柔術家と比べても遜色はありません」

「そうか、無二斎殿がそう言うのなら間違いは無かろう。只、大和流の速水は天才じゃ、勝算はあるのか?」

「本日、ひょんな事から淵心館に寄る機会がありました。その折速水を見たのですが、実力は拮抗しております、勝算は五分と五分」

「う〜む、左様か・・・」

「勝負は時の運、それとも他に何かご心配でも?」

「それじゃ、大目付の伊東惣蔵が速水をえらく推しておるのじゃ」

「それが何か?」

「大きな声では言えぬが、当藩にも御多分に洩れず勢力争いがある。速水を勝たせて殿の指南役に着かせようという腹じゃ。殿の指南役となればそれだけ発言力は強くなるでの」

「武術の試合をそのようなことに利用しようとは・・・」

「政は一筋縄ではいかぬのだ」

「ご家老も苦労が耐えませぬな。然し勝つという保証は出来ません」

「勿論じゃ、正々堂々戦ってくれればそれで良い。只、身辺にはくれぐれも注意するようにな」

「心得ております」

「・・・さて、今夜は久しぶりに一献傾けようか」

宗久は、控えの間に声を掛けた、「榊、奥に言って酒肴の支度を」

「はい」榊が出て行き障子の閉まる音がした。







                    



                     5



翌日、弁千代は西郷の屋敷で終日本を読んで過ごした。庭の隅に土蔵があり、中には書物が雑然と積んであった。西郷は自由に読んで良いと言ってくれた。

蔵の東側の高い所に、明かり取りの小さな窓があり、その窓を開けると、なんとか文字が読める明るさになった。

弁千代は黴臭い古書の臭いが嫌いでは無い。蔵に篭るとそれらの書物を手当たり次第に読み始めた。


無二斎が握り飯と茶を持って、蔵に姿を見せたのは昼過ぎだった。

その後、無二斎は街に行くと言って出て行った。


黄昏時、もう文字も見え辛くなった頃『方丈記』と表書きのある、薄い和綴じ本が目に付いたので、なんとなく手に取った。

「鴨長明、聞いたことがある」弁千代は独り言を呟いた。


『方丈記』を持って居間に戻り、文机に向かって手燭を頼りに読む。

「ゆく川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず・・・か」

その最初の一行に心惹かれ、身動ぎもせず一気に読み終えた。『方丈記』は世の無常と執着の虚しさを教えていた。

「私は、目の前の川は常に同じ川だと思っていた。が、確かに同じ水が流れてくることは二度と無い。全てのものは変化し続けている、『これで良い』ということは成り立たないのだ。『これで良い』と現状維持を決め込んだ途端に人は堕落に向けて変化する。また、どんなに立派な建物を建てても、天変地異があれば一瞬で消えてしまう、加持祈祷は役に立たない。生きて行く為には一丈四方の庵があれば事足りる、その庵にさえ執着する必要は無い」

只、これだけの事だけれど、弁千代はこの書物から多くを学んだ。自分の経験則だけで判断できる事は高が知れている、先人の知恵を学ぶ事で人として成長出来るのだ。

もっと本を読もう、と弁千代は思った。


「今帰った」申の刻を過ぎた頃無二斎が戻って来た。

「儂らは見張られておるぞ」そう言って無二斎は胡座をかいた。

「淵心館の連中ですか?」

「いや、あれは素人では無い、そういうことを生業にしている奴等じゃ」

「と云うと?」

「大目付の手の者やも知れぬ」

「然し、我々がこの屋敷にいる限り手出しはできないのでは?」

「だと良いが・・・用心に越した事はない、計画を立てておこう」

「はい」

「まず、この屋敷は両隣と塀一つで隣接しておる。人目があるでそこからの侵入は考え難い」

「では裏でしょうか?」

「常識ではそうなろう」

「刻限は?」

「見廻りが来るのが、戌の刻から寅の刻の間に一度ずつ。その間を見計らって来るだろう」

「大人数では目立ちます」

「うむ、手練れが数名。三、四名といったところか?」

「武器は?」

「長物は邪魔じゃ、短い剣と手裏剣、精々手槍かの」

「こちらは?」

「儂の脇差が一本、預けてあるお前の刀は、西郷殿に訳を話して返してもらおう」

「使ってもよろしいので?」

「構わぬ」

「分かりました」

「但し、裏をかかれる事もある、その時の対処も考えておけよ」

「はっ!」


西郷に訳を話すと、見廻りの数を増やすと言った。但し、隣の屋敷との関係からあまり大仰にもできぬと云う。

なにせ情報が不足している、推測だけでは人は動かせぬ。


「後は儂らでなんとかするしか無いな」

「世の中は無常です、何が起こっても不思議ではありません」

「ほう、いつ覚えた?」

「今日、『方丈記』で」

「『方丈記』か、良い本じゃ」無二斎は、慈愛に満ちた目で弁千代を見た。




                    6



深夜、弁千代は広縁の柱に背中を持たせ掛け、刀を抱いて座っていた。

勿論、雨戸を閉めきっているので庭は見えない。

無二斎は障子の向こうで軽い寝息を立てている。

弁千代は、無二斎だけは絶対に守ろうと思っている。尤も、無二斎にしてみれば片腹痛い事に違いないが。


「弁千代、来たぞ」

いつの間にか寝息は止んでいて、無二斎の声がした。一間以内に居る者だけに聞こえる特殊な発声法だ。

軽く頷いて弁千代は帯に刀を差した。左足を折り敷いて右膝を立てる。宿直の侍が警護の時に取る構えだ。鯉口を切って敵を待つ。

庭は静かで、風が松の葉を渡る音だけが聞こえた。侵入者は完全に気配を消している。

微かに水の音がした、雨戸の下枠の溝に注がれているらしい。

コトリと音がして雨戸の一枚が溝から浮いた。

音も立てずに立ち上がり、弁千代は一気に雨戸を蹴倒した。

「曲者だ出あえっ!」大音声で呼ばわった。何処かで呼子の音がする、見廻りの侍が気づいたようだが音は遠かった。

曲者は四人、真っ黒ないでたちに覆面をかぶっている。誰も声を発しなかった。

弁千代は庭に飛び降りた。

着地の瞬間を狙って、一人が刀で斬りかかって来た。

足が地に着くと同時に、弁千代は敵に向かって跳んだ。すれ違いざま横払いで胴を抜く。

敵は背骨まで切断され、声も無く地面に転がった。


正面から、棒手裏剣が飛んで来た。同時に手槍を持った敵が間合いを詰めて来る。右に躰を躱した。

手裏剣は先端を先にしてまっすぐ飛んで来るわけでは無い。ちょうど的に刺さる位置で先端が前に来るように四分の一回転して飛んで来る。的を外れた手裏剣はさらに回転し、背後の雨戸に当たって落ちた。

間髪を入れず手槍が突き入れられて来た。間合いが近過ぎて刀は間に合わない。

左手で槍を抑え、肩でぶつかりながら無足を使うと、触れた瞬間敵は消し飛んだ。

それを追うように前に出たところに、右の敵の刃が迫っていた。躱す暇がない。

相討ちの覚悟を決めた時、一条の光が目の前を過った。

「グエッ!」初めて声を発して敵が倒れた。胸に深々と脇差が突き立っている。

「弁千代、油断するでない!」無二斎の声が聞こえる。

最後の敵の動きが止まった。

敵は二、三歩後退り、踵を返して昼間弁千代が篭った蔵の方に走って行った。

蔵の後ろに退路があるのだろう。

「待て、追うでない!」弁千代が後を追おうとすると、無二斎が止めた。

「痛っ!」弁千代は右足の裏に痛みを感じ立ち止まった。

見ると、地面に菱の実がたくさん転がっている。無二斎が飛んで来た。

「傷を見せよ!」

「たいした傷ではありません」

「良いから見せよ!」無二斎が珍しく動揺している。

足裏を見ると無二斎は急いで脇差の鞘から小柄を抜き出し、傷を十字に切った。

「うっ!」思わず弁千代が呻く。

無二斎は弁千代の足裏に口を付け、血を吸い出し地面に吐いた。

「し、師匠、お止めくださいそのような事!」弁千代が叫ぶ。

然し、無二斎は無言のまま同じ動作を繰り返した。


バタバタと警護の侍が二人、押っ取り刀で駆けつけて来たが、転がった骸をみて声を失っている。

「傷の手当てをする、湯と晒しと火鉢を持て!」無二斎が警護の侍に命じたが、二人は呆然と立ち尽くしている。どうして良いか分からないといった表情だ。

「急げ!」無二斎が声を荒げると、漸く弾かれたように駆け出して行った。

命じたものが届くと、無二斎は湯で弁千代の足裏を綺麗に洗い、火鉢で小柄を熱して傷を焼いた。そして傷口に晒しを裂いて巻きつけると漸く落ち着いた声で言った。「これで良し、だが暫くは動くでないぞ」

「はい、でもどうして・・・?」弁千代が訝しんで尋ねた。

「その菱の棘には毒が塗ってある、おそらくトリカブトじゃ」

「トリカブト?」

「猛毒じゃ、毒が回ると無表情になって死ぬ事から、別名ブスとも云う」

「ブス?」

「醜女の事じゃ、トリカブトは菱の同類で、実が寄り添って生るから拇子の実とも云う、拇子はブスの語源じゃよ」

「表情のない女は、醜いという事ですね・・・」弁千代は小さく頷いた。


警護の侍は、気絶している男を縛り上げ、両脇を抱きかかえるようにして引き立てて行った。


「あやつが口を割る事は無いであろうよ」

「忍び・・・」

「うむ、奴らは決して雇い主の名を漏らさぬ。信用商売じゃでな」


後刻、西郷から届いた報告によると、曲者は舌を噛み切って自害、当然三人の遺体には身元の割れるようなものは何も残っておらず、従って目的も分からない。たとえ大目付が怪しいにせよ、それを証明する事は難しいだろう、と云う事だった。


その夜、弁千代の足は腫れて熱を持った。弁千代は痛みで眠れなかったが、明け方ウトウトとして夢を見た。子供の頃の夢だった。巨きな百足を踏み潰そうとして、刺された時の夢だ。

その時父が、無二斎と同じようにしてくれたのを思い出す。懐かしい思い出だった。

目覚めると衣服は汗でぐっしょりと濡れていた。だが、足の腫れは引いており、痛みもほとんど消えている。


「弁千代、大丈夫か?」登城する前、無二斎が訊いた。

「はい、もう何ともありません。私の未熟故の失態、ご心配をお掛けしました」弁千代は、足に痺れが残っている事は黙っていた。言ってどうなるものでも無いのだ。

「無理はするな・・・」無二斎はそれ以上何も言わなかった。




                    

                     7



御前試合は、二の丸御殿の中庭に設けられた『お稽古場』の三方に、紅白の幕を張って行われる。城主は建物の中から試合を観覧する事が出来る様になっていた。

巳の刻、速水と弁千代は試合場に跪き、手をついて城主の登場を待った。

広縁の左脇には西郷、右脇には大目付の伊東が控えており、藩の主だった者は紅白の幕の前に並べられた床几に腰をかけている。無二斎と日置の姿もその中にあった。

人の気配があった、城主が着座したのであろう。

「面を上げよ」頭上から声がした。

直接、城主の顔を見るのは憚られる。弁千代は形ばかり顔を上げた、速水も同様だ。

「苦しゅうない、面を上げて顔を見せよ」抗い難い威厳のある声だった。

「殿の仰せじゃ。構わぬ、面を上げよ」西郷が二人を促す。

速水が背筋を伸ばして顔を上げた、弁千代も城主の顔を見た。

まっすぐ通った鼻筋に濃い眉、眼には知性の光が宿っていた。一見して名君である事が知れる。

「うむ、二人共良い面構えじゃ、存分に戦え!」

「はっ!」再び地面に額をつけた。


「立ちませい!」審判から声が掛かる。「支度を・・・」審判は藩の剣術指南役、瀬尾十兵衛。

弁千代は足袋裸足のまま襷を掛け鉢巻きを締めた、速水も準備は整っている。

「両者前へ・・・御前である、見苦しい真似の無いようにな」十兵衛はそう言って扇子を持った右手を挙げた。

二人は二間の間を取って礼をする。

「始め!」十兵衛の扇が翻った。


速水の構えは自然体、軽く腰を落とし両手を開いて立っている。

弁千代は左入り身に構えた。左の肩と膝頭、足の親指の先を一直線に揃える。

互いに相手の目を見据えた。

ふっと弁千代の視線が浮いた、速水の肩越しに遠景を観ているような目つきだ。

速水は僅かに俯き、弁千代の喉を中心に視線を拡散する。


速水が視線を落とした瞬間、弁千代は右足を大きく踏み込んで一本拳を速水の人中めがけて突き出した。人体最大の急所に放った、必殺の一撃だった。


速水の躰がフッと沈む。

速水の手が前襟に触れると、弁千代の躰が宙を舞った。

弁千代が猫の様に降り立つと、すかさず追ってきた速水の脚が伸び弁千代の腹を蹴り上げた。

その脚を右脇に抱え込み、弁千代は左足で速水の軸足を払う。

速水は、背中からドウと地面に叩き付けられながらも左足で弁千代の右側頭部を蹴った。

弁千代は一瞬目の前が真っ暗になり昏倒した。

気が付けば速水が胸の上に馬乗りになっていた。掌を返し交差した腕が、襟の中に潜り込み奥襟をしっかりと掴んでいた。

速水はその腕に体重を預け、弁千代の頚動脈を締め付ける。

意識が次第に遠ざかって行った。弁千代は負けを覚悟した。

遠のく意識の中で、今朝の夢の続きを見た。大声で泣いている弁千代を、父は抱いてあやし続けてくれた。父はどこまでも優しかった。

弁千代は父の顔を見て微笑んだ。

「馬鹿な!効いていないのか?」速水が訝る。

速水はもう一度力を入れ直す為に一瞬力を抜いた。

その時無意識に、弁千代の手は頸と速水の腕の間に滑り込んでいた。

弁千代の眼が、カッ!と見開かれる。目の前に速水の顔があった。

弁千代はいきなり速水の腕を振り払い、速水の顔に向けて額をぶつけていった。

ギャッ!と言って速水が仰け反った。鼻から血が噴き出した。

すかさず弁千代は胸の上から速水を振り落とし、背後を取った。

両足で速水の胴体を挟み込み、右手を前に回して速水の左前襟を取る。

左手は脇の下から突っ込み右前襟を掴む、そして速水を抱きかかえたまま、ゆっくりと後ろに倒れ込んだ。

完璧な送り襟締めが決まった。

早見の躰から力が抜けて行く。

一つ・二つ・・・・・十を数える頃・・・速水は落ちた。

弁千代は徐に技を解いた。


「それまで!勝負あった!」十兵衛が宣した。


日置が駆け寄り速水を抱き起し背中に活を入れる。

「う・ん・・・」

「大丈夫か?」

「私は・・・負けたのですね?」

「良い勝負であった」

速水は起きて御前に跪く。

弁千代も隣に座り共に礼をした。


「二人共、見事な戦いぶりであった。余は満足である」

「はっ!」

人の立つ気配がして、建物の奥に消えた。


速水が弁千代の方に向き直る。

弁千代も速水に向いた。

「有難うござった」

「こちらこそ・・・」


二人は、顔を見合わせて笑った。






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