足
足
それから二ヶ月が過ぎた。
今日、無二斎夫婦は朝から芝居見物に出かけている。
昼過ぎに三雲が来たので、庭に出て稽古をすることになった。
最近弁千代は、座ったまま三雲を左右に投げ分ける事が出来るようになっていた。
「じゃあ、立ってやってみようか。まず私が手本を見せるから」
弁千代が三雲の両手を上から押さえると三雲が「行くよ」と言った。
「あっ!」
三雲の腕が消えた。否、実際に消えたわけではない、そのように感じたのだ。
自分からツンのめるように前に跳んだ。受け身を取って立ち上がる。
側から見ると、三雲に後方に投げられたように見えただろう。
「次はベンさんの番だ」攻守を交代した。
弁千代は座技の感覚を思い出し、フッと力を抜いた。が、何も起こらなかった。
「もう一度」三雲が言った。
結果は同じだった。
「出来ません・・・」
「立てば、足が邪魔をする」
「足が邪魔?」
「無足を使えベンさん」
「無足?」
「足を消すのだ。柔術ではそのことを無足と言う』
「・・・」
「ではもう一度」
三度目は膝を抜いてみたが結果は同じだった。多少三雲が腰を落とした程度だった。
「うん、さっきよりは良い。だがまだ上半身と下半身がバラバラだ、焦らずに全身が同時に動くように稽古しよう」
「はい!」
「実は私がこれを出来るようになったのは、ベンさんのお陰なんだよ」
「私の?」
「ベンさんに手解きしている時に気がついたんだ。それまでは全く出来なかったんだがね」
「それはどう言うことですか?」
「つまり、ベンさんが私の動きを真似る事によって、私の欠点を教えたくれたのさ」
「そんな事が・・・」
「あるんだよ。だから同門の弟子は大事なんだ。相手と競争するんじゃなくて補い合って上達してゆく、それを切磋琢磨というんだ」
「稽古は相手を倒そうとする事では無いのですね?」
「そういう事。道場での強い弱いには意味がない・・・ではもう一度やってみようか」
「はい!」
その時、玄関先で喚き声が聞こえた。
「出て来いサンピン!居るのはわかってるぞ!」
弁千代が玄関に出てみると、二ヶ月前鰻屋の帰りに堀から投げ落とした人足だった。
「探したぞ!こんなとこに隠れて居やがったのか!」
「隠れたつもりは無いが?」弁千代は首を傾げて答えた。
「喧しい!あの時の礼を呉れてやる、ちょっと面貸しな!」
表に出てみると十人ほどの人足達が、手に手に得物を持って立って居る。その真ん中に法被を着て腕組みをした肥満の中年男が立って居た。
「親方、こいつでさぁ、おらっちに恥をかかせたサンピンは!」
親方と呼ばれた男はズイと一歩前に出た。「俺の可愛い子分達を堀に叩っ込んだのはお前か?」
「はあ、間違いありません」
弁千代は真っ直ぐに男を見据えて答えた。
「いい度胸だ、ちょいとそこの河原まで足を運んじゃくれねえか?」
「ベンさん、どなたです?」三雲が玄関に顔を出した。
「はあ、二ヶ月前にちょっとした行き違いがあって・・・」
「誰だてめえは?」男が三雲に訊いた。
「まあ、この人の兄みたいなもんです」
「お前には関係ねぇ、すっこんでな」
「そうは行きません、その方が貴方にとって可愛い子分なら、この人は私にとって可愛い弟です」
「俺は中丸組のもんだ、怪我したくなかったら大人しくそいつを渡しな」
中丸組は人足・職人の口入れ屋の元締めだ。
「う〜ん、なかなか剣呑なお話ですな。良かったら私もおつきあい致しましょうか?」
「面倒だな、一人も二人も同じ事だ。ついて来な!」親方は踵を返して歩き出した。
弁千代と三雲は、河原で人足達と対峙した。河原は広く、湿った土が柔らかい足場を形成している。
「ベンさん、ここは私に任せてくれないか?」
「えっ!でもこんなに大勢・・・」
「ちょっと試したい事があるんだ、ここなら怪我をさせずに済みそうだ」そう言って三雲は親方を見た。
「親方、ここは私が先に出ます。私がやられたらこの人が出るという事で如何でしょう?」
「良いだろう。何れにしてもお前達が無事に帰れる保証は無いがな」
親方は川下、弁千代は川上に陣取り成り行きを見守る事になった。
人足達が三雲を取り巻いた、三雲は輪の中心に立った形だ。
弁千代は、三雲が危なくなったらすぐに飛び出すつもりでいた。
「やれ!」親方が短く言った。
棒や竹槍を持った人足達が、オラオラと声を出しながら、自然体で立った三雲の周りを回り出す。
「くたばれっ!」右側の棒を持った男が打ち掛かって来た。
三雲は自分から男の懐に飛び込み、棒を持った男の右腕に軽く手を触れた。
「グフッ!」どこをどうされたのか、男は大きな弧を描いて飛んで行き、地面に背中を叩きつけられ海老反りになって呻いた。
「このっ!」正面から竹槍が迫る、斜めに尖った穂先が三雲の腹を突いて来た。
ギリギリで躱して竹槍を両手で握る。途端に男が硬直して爪先立った。
「イテテテテテ・・・!」男の手は竹槍に鳥黐でくっついたように離れない。
三雲は竹槍の先に男をくっつけたまま左右に振り回し、人足達を牽制する。
人足達は一斉に後退さる。
三雲が竹槍を離すと、男は竹槍ごと吹っ飛んで行った。
後ろから一人が飛びかかって行ったが、何をする間も無く三雲に投げられて悶絶した。
三人がやられたのを見て、人足達は中々襲っては来なくなった。
数を頼んだ者の心理、誰かが先に行くのを待っている。
「何をしている!早く片付けろ!」親方が叫んだ。
顔を見合わせ、四人が一斉に打ち掛かった。三雲は滑るように四人の間を動き、あれよあれよという間に薙ぎ倒して行った。
残る二人は動けなくなった。親方も顔面蒼白だ。
「どうした、行け!」
親方の剣幕に仕方なく一人が前に出た。長い棒の先に鍵爪の付いた鳶口を持っている、日頃人足達が使っているものだ。
「仕事の道具を、このようなことに使っても良いのか?」三雲が諭した。
男はちょっと怯んだ様子だったが、「うるせえ!」と喚きながら打ち掛かって来た。
三雲は鳶口をヒョイと取り上げ、柄の尻で男の鳩尾を突いた。男は声も出せずに蹲る。
匕首を構えた男が震えている、三雲がそっと鳶口を下に置くとホッとしたような顔になった。
「留吉、行け!」親方が喚いている。
留吉と呼ばれた男は匕首を構えたまま後退さる。首を左右に振って、まるで子供がイヤイヤをしているみたいだ。
留吉が突然匕首を投げ捨て跪いた。
『許してくだせえ、許してくだせえ!」額を地面に擦り付け両手を合わせて三雲を拝んでいる。
「これ以上は無益だ・・・」三雲が親方に言った。「子分達を連れて帰りなさい、皆、歩いて帰れる筈だ」
暫く呆然としていたが、親方は引き攣った顔で子分たちを叱咤しながらあたふたと帰って行った。
「三雲さん。凄いです、どうやったんですか?」
「無足を使った」
「ああ、あれが無足ですか!」
「何とか実戦の役に立った。どのように見えたかな?」
「人足達はバタバタ走り回っていましたが、三雲さんは滑るように動いていました」
「そうか、そう見えたのか」
「はい!」
「無二斎先生のは、もう普通に歩いているようにしか見えないよ」
「名人の動きは、普通の人の動きと区別がつかなくなるのですね」
「名人と分かる動きをしたら名人ではないね、まだまだ道は遠い」
「今日は何か掴めそうな気がします。稽古をお願いします」弁千代は三雲に頭を下げた。
「そうだね。戻って稽古の続きをやろうかね・・・」
弁千代は三雲と肩を並べて歩き出した。




