山賊
山賊
雲水の足は速い。弁千代が堤を登った頃には、遥か先を歩いており、やがて見えなくなった。
弁千代は意識してゆっくり歩いた、今までのように急ぐ必要は無い。
遠くに野良仕事をする百姓の姿が見える。もうすぐ刈り入れの時期だ、忙しくなるのだろう。
次の宿場まで五里、暗くなる前に着くはずだ。今日はそこに泊まる事になる。
宿場は、山の麓にあった。
ここで道は二手に分かれている。まっすぐ山に向かう坂道と、山を迂回して南に伸びる平坦な道だ。どちらに行くかは今夜ゆっくり考えよう。
宿場に入るとすぐに厩があった。人や荷物を運んでいるのだろう。城下にいる時はそんな事思いもしなかった。
生活に必要な小物を売る店が数件並んでいる。宿屋も三件あった。
『お宿』と書いた木の札の下がっている一番小さな宿に入った。なるべく金は使いたくない。これも今まで考えた事は無かった。
引き戸を開けると土間だった。上がり框の奥に囲炉裏が見える。
人の姿はなかった。
「御免ください」奥に向かって声をかけた。
「誰じゃ・・・」声がして、白髪の老婆が現れた。
「今夜、泊めてもらいたいのですが?」
「三十文じゃが?」
「それで結構です」
「飯は食うかね?」
「はい」
「酒は?」
「酒は要りません」
「風呂は?」
「それはお願いしたいです」
「飯と風呂で二十文じゃが?」
「構いません」
「そこに水桶があるで、足を洗って上がりなされ」
老婆は、そう言って奥に入って行った。
弁千代が、手ぬぐいで足を拭いていると男が出てきた。
年齢からいって、さっきの老婆の息子だろう。顔も良く似ている。
「いらっしゃいまし」男は愛想よく言った。「部屋にご案内致しますで」
男について行くと、一番奥の六畳間に通された。
部屋は三つほどあるようだが、他に人の気配は無い。
「どうぞごゆっくりしててくだっせ。飯ができたら呼びに来ますで」
「かたじけない」
男は頭を下げて出て行った。
旅装を解いてから、弁千代は座布団を枕に寝転んだ。
「あ〜疲れた!こんなに歩いたのは初めてだ・・・」
人の気配で目が覚めた、いつの間にか眠ってしまったらしい。
「お侍様、飯の支度が出来ましたが」
「はい・・・」弁千代は目を擦りながら起き上がる。
「囲炉裏の部屋に来てくだっせ」
「分かりました、すぐに参ります」
囲炉裏の自在鉤にかかった鍋には、雑炊ができていた。
岩魚が竹串に刺さって囲炉裏の灰に突き立ててあった。いい具合に焦げ目がついている。
丸い藁の敷物に座ると、老婆が腕に雑炊を装ってくれた。雑炊の中には猪肉、大根、人参、牛蒡、薩摩芋が入っている。
「こんなもんしかねえですが」老婆が言った。息子は風呂の用意でもしているのだろう、姿は見えなかった。
「いえ、十分です」
美味かった、雑炊がこんなに美味いものとは知らなかった。
軽く塩を振った岩魚も絶品だった。開放感がそう感じさせるのかも知れない。
開放感を感じるためには、その前に抑圧された状態がなければならない。きっと今迄の暮らしはそういう状態だったのだろう。
飯が終わって、薄い茶をすすりながら老婆に訊いてみた。
「この宿場の入り口で道が二手に分かれておりましたが、どちらに行ったら次の宿場でしょうか?」
「どちらも、次の宿場に続いておりますじゃ」
「どちらが早く着きますか?」
「そりゃあんた、山越えの道に決まっておろう。あんたの足なら昼間には着きますじゃろう」
「南の道は?」
「休まず歩いても夕方にはなるじゃろうな、年寄りと女は途中の小宿で一泊するしかない」
「では、山道を行きます」
「じゃが一つ問題がある・・・」
「何でしょうか?」
「山賊が出るのじゃ」
「山賊?」
「じゃから山道は人気が無い。皆遠回りをしても安全な南の道を行くでな」
「山道は一本道でしょうか?」
「ほぼ一本じゃが、途中で一箇所だけ分かれ道がある」
「何か目印のようなものはないのですか?」
「寺がある。もっとも今は廃寺じゃがな」
「それをどちらに行けば・・・?」
「左じゃ、右へ行くと山奥に迷い込む。地元の樵しか行けん」
弁千代は迷った、急ぐ旅では無い。しかし安全な道を行くのも楽をしているようで嫌だ。
山賊が出たら・・・戦うしか無い、何せ武者修行なのだ。
「やはり山道を行こう・・・」そう呟いた。
「止めはせんが気をつけて行きなされや」老婆が抑揚無く言った。
部屋に戻ると布団が敷いてあった。その日は風呂に入って、ゆっくりと眠った。
次の日、弁千代は陽が充分に昇ってから宿を出た。
うまくいけば昼過ぎには次の宿場に着く、慌てる事は無い。
宿で握り飯を作って貰い、老婆と男に見送られて出立した。
緩やかな坂を登る、朝の空気が心地よい。鳥の声が聞こえた。
暫く行くと沢があった。喉を潤し竹筒に水を汲む。
その辺りから急に道が険しくなった。
大小の石が地面から突き出している。道幅がどんどん狭くなっていった。
遂に獣道ほどの幅になった時、前方に男が現れた。
高い位置に、むき出しの脛が見える。腰に朱鞘の直刀を差していた。
「身に着けている物、全部置いて行け、そうすれば命までは取らん」男が言った。
後方で音がした、振り返ると胴鎧をつけた大男が立っていた。
どちらもまだ抜刀していない、数を頼んだ余裕だろうか?それとも腕に自信があるのか。
いずれにしてもこのような事に慣れている、老婆の言った山賊に違いない。
弁千代は挟まれた。左右は杉が密集している、この中では戦えない。
正面の男の方が腕が立つ。瞬時に判断して後方の男に向かって突進した。
「あっ!」後方の男は驚いたように二、三歩後退した。
走りながら抜刀し大男の横をすり抜けざま剣を横に払った。
ヒュー!という音がして、大男の喉から血が大仰に吹き出した。
弁千代の学んだ剣術では、この技を『松風』と云った。
『そうか、それで松風か・・・』妙に納得した。
「この野郎!」前方の男が、抜刀してすぐ後ろに迫っていた。振り向いていては間に合わない、弁千代は石につまずいたように前につんのめった。
「もらった!」男が叫んで真上から剣を振り下ろす。
が、男は弁千代の背に覆い被さるようにぶつかって動きを止めた。
男の背中から弁千代の刀の切っ先が突き出ている。
弁千代は片膝をついたまま、左肩越しに後方を突いていた。
この技の名は『徹底』その意味は分からなかった。