露天
露天
無二斎に道場は無い。
多くの場合庭に筵を敷いて稽古をする。時には山の中で、時には川の水に浸かって、あらゆる状況を想定する。
これに天候の条件等を加えれば事態はもっと複雑になる、とても道場だけの稽古で追いつくものでは無い。
室内の戦いだけを想定しても条件は常に変化する、同じ条件で戦える事など皆無であろう。
道場で強い者が、必ずしも勝つとは言えない所以である。
「師匠はどうして道場を持たないのですか?」弟子入りして一月が経った頃、弁千代が無二斎に尋ねた事があった。
「禅坊主が座禅を組むのはどうしてかの?」無二斎が見当違いな問いを返した。
「え、集中力を高める為では無いでしょうか?」
「では、何のために集中力を高めるのじゃ?」
「心を一点に集中して、雑念を消す為です」
「違うな、禅坊主は心を宇宙に向かって拡散する為に集中しておるのじゃ」
「拡散する為に集中する、矛盾なのでは?」
「矛盾じゃな、じゃが心は雑念に囚われておる。心を自由にしなければ悟りは遠い。それと同じで、敵にだけ囚われておれば、周りの状況に足を掬われる。道場のない稽古は禅坊主の座禅と同じじゃ」
「敵は戦いの条件の一部に過ぎないと?」
「集中するという事は、心が何かに縛られるという事じゃ。何かに縛られる事を執着という、執着を捨てよ、捨てるという思いも捨てよ」
「師匠、そこまで行くと私の頭では理解出来ません」
「うむ、実は儂にも良く分からん」
「えっ!では何の為に・・・」
「分からぬか?道場を持たない言い訳をしておるのじゃよ」
「・・・」
「お前たちは立派な道場が欲しいかのう?」
「いえ、いりません・・・師匠」
弁千代はすっかり煙に巻かれてしまった。
『行』
二ヶ月が過ぎた。稽古前に三雲とやる『遊び』も漸く出来るようになった。
初めは手の方向を変えるなどして四苦八苦してやっていたものが、あるときスッと出来るようになった。
「早いなぁ、私なんか一年かかったよ」三雲が驚いた顔で弁千代を見た。「じゃあ、今日から『行』の『形』だ」
『行』とはつまり書道で言う所の行書の事である。『楷』の『形』がゆっくり・正確に出来なければ、『行』の『形』に入れない。ゆっくり正確に出来ない動きを早く正確に出来る道理は無いからである。
ここでは、『楷』と『行』という別の『形』があるわけでは無い。
同じ文字を楷書と行書で書くように、同じ『形』に楷書のやり方と行書のやり方があるという事である。という事は勿論『草』の『形』もあるという事。
修行の段階により、同じ『形』が変化するという事である。『形』が生きているとはこういう事であろう。
『草』の段階に達した者は、自由にこの三段階の『形』を行き来出来るが、『行』の段階の者は『草』の『形』は出来ないし、『楷』の段階の者は、『行』『草』の『形』は出来ない。
真似をしようとすれば、似て非なるものになってしまうだろう。
然し、見取り稽古でその差を見極めるのは難しい、先達の指導が不可欠な所以である。
三雲は弁千代にとって良い先輩であるし、弁千代も三雲にとって良い後輩である。
三雲は弁千代に教える事によって自分の欠点を発見する事が出来た。
相手が無二斎だけでは、こうは行かなかったであろう。
「弁千代殿、弁千代殿」
弁千代が庭を掃いていると、玉が縁側から声を掛けてきた。
「はい、玉様、何かご用ですか?」
「ちょっとおつかいを頼まれて欲しいのだけれど」
「何なりと」
「宿場口の飛脚屋に行って、文を出して来てくれませんか?」
「お安い御用です」
「せっかく賑やかな場所に行くのだから、ついでに何か美味しいものでも食べておいでなさい」そう言って玉は、文と一緒に幾許かの銭を持たせてくれた。玉にとって弁千代は孫のようなものなのだ。
「有難うございます、では行って参ります」弁千代は一本歯の下駄を突っ掛けて家を出た。
下駄は無二斎から与えられたもので、修行中は常に履いているよう命じられている。
家から宿場口までは十一町程である。
冬にしては珍しく暖かい日差しの中を、弁千代はゆっくりと足を運んだ。
一本歯の下駄は躰の一部のように馴染んでいる。走る事も出来るが今日はその必要もない。
畦道を歩きながら遠くの山を眺める。こうしていると、自分は宇宙の一部なのだと納得させられる。
宿場口で文を飛脚屋に託すと、弁千代は堀割の道をぶらぶらと歩いた。
堀は石積みで護岸され、道には柳が等間隔で植えられている。
水面には小舟が行き交い、荷をどこかへ運んでいる。無二斎の家の周辺に比べると、人工的な風景が広がっていた。
弁千代はこのような風景が嫌いではない。人の営みが伝わってくるからだ。
「さて、腹が減ってきたな、何を食べようか?」
一度空腹を意識するともう堪らない。店を探して自然と早足になる。
どこからかいい匂いが漂ってきた、鰻を焼く香ばしい匂いだ。
見ると、対岸の荷揚げ用の船着き場の上に小さな店があった、”うなぎ”と染め抜いた紺の幟が立っている。
「あそこに入ろう」弁千代は一町程先の赤い橋を渡って、店の暖簾を潜った。
「いらっしゃいませ!」元気の良い女の声がした。
広い店ではない。店内は混んでいたが奥に幾つか空席がある。
「どうぞ、奥のお席へ」女が弁千代に声を掛けた。
軽く頷いて席に着く、女が茶を運んで来た。
「うちは鰻の蒸篭しかありませんが?」
「はい、それで結構です」
「鰻が焼けるまで、しばらくお待ち頂けますか?」
「はい・・・えっと、ではお酒を一本下さい」今日はこれくらいの贅沢はいいだろう。
「お燗は?」
「熱燗で」
「かしこまりました」女は注文を伝えに戻って行った。
待つうちに酒が来た、それをちびりちびりとやりながら店を観察する。
店の入り口側に焼き場があった。頭に鉢巻を巻いた男が忙しなく団扇で風を送っている。
堀側は窓で、船の行き来が望めるようになっている。
『この店は二人でやっているのか、そうすると焼いているのは旦那さんで、さっきのは女将さんだな?』
『客は、町人が四人、老夫婦が一組、荷揚げ人足が三人。人足がチラチラとこちらを見ている、酒が気になるのだろう』
『ここで戦いになれば逃げ場は無い、窓から堀に飛び込むのが上策か?』
近頃は気がつくとこのようなことばかり考えている。
「お待ちどうさま」女将が蒸篭を運んで来た。「山椒をかけると美味しいですよ」
蒸篭の蓋を開けると良い香りが鼻腔を擽る。
「頂きます」蒸篭に箸をつけた時、人足が金を払って出て行った、仕事に戻るのだろう。
「美味い!」思わず声が出た。女将がこちらを振り向いて笑った。
タレの甘さが何とも言えない、鰻もふっくらと焼き上がっている。
一粒残らず食べ終えて、勘定を頼んだ。お代を受け取りながら女将が訊いた。
「お侍さんは、刀をお持ちではないのですか?」
「はあ、訳あって師匠に止められております」
「そうですか・・・この辺は気の荒い人足が多ございます、気をつけてお帰りくださいましね」
「はい、用心いたします」
「またおいで下さいまし!」女将は店先で弁千代に頭を下げた。
赤い橋まで来るとなんだか様子がおかしい、橋の向こう側に先ほどの店で会った人足達が屯して居る。
弁千代が橋を渡り出すと、こちらを向いてにやにや笑いだした。構わず歩いて行くと一人が目の前に立ち塞がった。
「お侍、腰の物はどうなさいやした?まさか質にでも入れて昼間っから酒を飲んでたんじゃないでしょうねぇ」
「訳あって置いて来た・・・」
「なんと!侍が刀をねぇ。おい皆んな見上げた度胸じゃねえか、刀も無しにこの橋を渡ろうなんてよぅ!」
他の二人が笑いながら橋の両側から弁千代の背後に回った。
「悪いこたぁ言わねぇ、少しばかり酒代を恵んじゃくれねぇか?」
「恵んでやっても良いが条件がある」
「なんでぃ、その条件てなぁ!」男が凄んで訊いた。
「そこの堀で泳いで貰おうか」
「なにっ!このサンピン、自分の立場がわかってるのか?」
「良く分かっているつもりだが?」
「クソ生意気なガキだ、下手に出てりゃいい気になりやがって。おい!押さえてろ!」
背後の二人が動いた、左右から弁千代の肩と腕を鷲掴みにする。
正面の男が近づいて来た。「変な下駄履きやがって、それじゃ動けないだろう?」
「やってみるか?」
「クソッ!」いきなり殴りかかって来た。
弁千代は躰を捻り、右腕を掴んだ男を力任せに正面の男にぶつけた。続いて間髪を入れず反対側に身を捻ってもう一人の男もそれにぶつけて行った。
三人は一塊になって転がった。
「野郎!」すぐさま一人が起き上がり弁千代に向かって突進して来た。
弁千代は一本歯の下駄で男の顎を蹴り上げておいて次の男を待った。
二番手の男は拳で弁千代の顔面を殴りに来た。
弁千代は左手で男の右手首を取り、身を転じながら腰を沈めた。
ザッブーン!見事な一本背負いで男は橋の欄干を越えて堀に落ちて行った。
残ったのは弁千代に因縁をつけて来た男だった。男は懐から匕首を取り出して構えたが腰が引けている。
じりじりと後ずさる。弁千代は突っ立ったまま動かない。
「ワー!」突然、男は恐怖に引き攣った顔で匕首を滅茶苦茶に振り回しながら向って来た。
何度か躰を捌いて受け流し、真っ直ぐに突いて来たやつを、右足を引いて躱しながら、左手で男の右手首を上から取った、下から右手を添えて左に返す。
小手返し、男は一度欄干に激突し堀に落ちて豪快な水しぶきを上げた。
橋上で伸びていた男に活を入れた。男は息を吹き返し、目を白黒させている。
「良い泳ぎを見せて貰った、これは見物料だ」弁千代は四文銭を一枚、呆然とする男の手に握らせ、橋を渡ってその場を去った。
来た道を戻りながら、さっきの戦いの動きを思い出す。
「う〜ん、まだ力に頼った小手先の技だ、師匠のようには参らぬ」腕を組むと何気無く着物の袖を見た。
「あっ!斬られてる!」
弁千代は項垂れて、無二斎の家に帰って行った。




