長老の家
長老の家
その夜、無二斎は秋祭りの打ち上げの宴に呼ばれた。
村の世話役たちが長老の屋敷に集まり、祭の成功を祝い村の今後を話し合う。
無二斎は武家の隠居という事で、村の相談役にもなっている。弁千代は、お供役として無二斎に同道を命ぜられた。
提灯を下げて無二斎の前を歩く。橋を渡って暫く行くと、丸に二つ引きの定紋の入った高張提灯を掲げた屋敷が見えてきた。
「あそこが長老の屋敷じゃ」無二斎が言った。
「立派な門構えですね」弁千代の実家よりもよほど立派である。
「本陣じゃ、特別に門を構える事を許されておる」
門を潜って玄関に至るまで、石畳の上を歩く。両側を竹の垣根が縁取っている。
玄関で訪うと、長老の細君が出迎えてくれた。
「まあ先生、お忙しい中わざわざお運びいただき有難うございます。もう皆さんお集まりですよ、ささ、どうぞお上がり下さいまし」白髪を綺麗に結い上げた細君が二人を奥の座敷に誘う。
襖を開けると二十人ほどの人が集まって長老を中心にコの字型に座っていた。
無二斎は上座の長老の右隣に座った。弁千代は末席に席を得た。
座って弁千代はハッと身構えた。長老の向こう隣に荒磯が座って居たのである。
無二斎は一向に気にとめる様子もなく、ニコニコと笑っている。
「皆の衆、よく集まって下さった。皆のお陰で無事秋祭りも終わることができこんな嬉しい事は無い。今夜は心ゆくまで楽しんで貰いたい。粗末ながら酒と料理はふんだんに用意した、遠慮なく呑み、且つ食って頂きたい」長老が挨拶をした。
応えて村の世話役の一人が口を開く。「長老のお陰で先祖代々続くこの村も大いに安泰じゃ。これからも世話役一同力を合わせて村を盛り上げて行こうぞ!」
「応!」席のあちこちから声が上がる。
「今日は荒磯関も場を飾ってくれている、皆も雷電関との大一番は瞼に焼き付いておろう。このような機会は滅多にあるものでは無いぞ、是非大関と親しく一献酌み交わして欲しい」
まるであの事件が無かったかのような長老の言い方だった。
『まさかあの事を知らないのか?』そう思ったが直ぐに打ち消した。『そんな筈は絶対に無い!』弁千代は何か割り切れないものを感じた。
酒宴が始まった、何事もなく時が過ぎる。
無二斎も長老や世話役から酒を注がれるまま盃を重ねている。
つ、と荒磯が立った。徳利を持って無二斎の前に跪く。
「先生、お流れを頂戴致したいでごんす」そう言って軽く頭を下げる。
「おう、荒磯関。あの一番は実に見事じゃった」無二斎は盃を荒磯に手渡した。
「いや、お恥ずかしい。思わぬ苦戦ばしたでごんす」無二斎の酌を受けながら荒磯が頭を掻いた。『一体何が起こっているのだ?』弁千代には何が何だか分からない。まるであの日の出来事が無かったかのような振る舞いだ。
荒磯が盃を洗い、無二斎に返す。その盃に酌をしようと手を伸ばす。
その瞬間荒磯が無二斎に飛び掛かって行った。
「あっ!」思わず弁千代が叫ぶ。
然し、弁千代が腰を浮かした時には、荒磯は無二斎の後ろの床の間に転がっていた。
無二斎の前の箱膳と、床の間の香炉が粉々に砕け散ったが誰も意に介さない。
それらは、女中の手によってすぐに取り替えられた。
無二斎は何事も無かったように酒を飲んでいる。
荒磯も自分の席に戻り、隣の客に酒を勧め始めた。
誰も今起こったことに関心を示さない。
『俺は夢を見ているのか?』弁千代は我が目を疑った。
仕方なくまた座って様子を伺っていると、荒磯が厠に立つ素ぶりを見せた。
長老の後ろを通り無二斎の後ろに来た時、いきなり無二斎を羽交い締めにした。
今度は弁千代が声を上げる間も無く、荒磯は座敷の中央に投げ出されていた。
ズシン!と音がして家が揺れたが、銚子が倒れた程度で済んだ。
荒磯は受け身を取って立ち上がり、そのまま厠に行った。
そんな事がそれから数度繰り返されたのである。弁千代はもう驚かなかった。
荒磯は羽織のように飛んで行くが、無二斎は何をしたようにも見えない。
その証拠に盃の酒は一滴も溢れてはいなかった。
宴も終盤に差し掛かった頃、荒磯が無二斎の前で手をついた。「先生、有難うごわした」
「気が済んだか?」
「はい。ですが一つだけお聞きしたい事がごわす」
「何じゃ?」
「儂は先生に投げられたのじゃろか?それとも自分で飛んで行ったのじゃろうか?」
荒磯は挑むような目で無二斎を見た。
「さあ、それは儂にも分からん」無二斎はにべもなく答えた。
「荒磯関、お気は済まれましたかな?」長老が言った。
「はい、今日は無理なお願いをいたしあんした。じゃが得難い経験をしたと思うのでがんす。この経験を生かして今後も相撲道に精進いたしあんす」荒磯は長老に向かって深く頭を下げた。
「無二斎先生。私のわがままを聞いて頂きお礼の言葉もありません。皆の衆にも協力感謝する。然し、この荒磯関はもっともっと強くなる、きっと歴史に残る大大関になるであろう。その一翼をこの村が担った事を誇りに思おうぞ!」
「知らないのは私だけだったのですね?」
帰路、提灯を無二斎の前に翳しながら弁千代が言った。
「済まぬ、芝居には観客が必要じゃでな」
「然し、私は不思議なものを見ました」
「ほう、不思議なものとはなんじゃ?」
「はい、荒磯関はまるで羽織のように飛んで行きました。然し投げた師匠の躰はそれ以上に軽かったのです」
「ほう、お主にはそれが見えたのか?」
「はい」
「恐ろしい奴よのう・・・」
『楷』
翌日三雲がやって来たので、弁千代は兄弟子に昨晩の出来事を話した。
「それは私の時と同じだ。いつでも打ち掛かって良いと言われて、何度も試したのだが結果は同じだった。どうしてでしょうと師匠に尋ねたら『儂にも分からんよ』と言われてしまった」
「荒磯関も同じだったのですね・・・」
弁千代は昨日のことを思い出しながら答えた。
「ところで、ベンさんは、師匠の軽さが見えたという事だが?」
「はい、水鳥の羽のようでした」
「凄いなぁ、私なんか何年やっても見えないよ。でも触れるとよく分かる、暖簾に腕押し糠に釘だ、全く抵抗を感じない」
「然し重さがない訳では無い・・・」弁千代は呟いた。
「そこに秘密があるのだと思う。どういう躰の使い方をすればそうなるのか、それが分かれば免許なんだがなぁ・・・」そう言って三雲は腕を組んだ。
「ベンさん、稽古をしよう。考えて分かるものでも無い」ゆっくりと立ち上がって三雲が言った。
「はい!」
弁千代と三雲は、庭に筵を敷いて向かい合った。
「まずは座ろう」三雲が言った。
「柔術の『形』も居合のように座技が基本なのですか?」弁千代が尋ねる。
「足があると無用な力を使うのだ。だが、今からやるのはまだ『形』では無い。『形』に入る前の遊びみたいなものだ」
二人はほとんど膝が合わさるくらいに向かい合った。
「お互いに、手を膝の上に置いて座る」三雲が言った。
「こうですか?」
「そうそう、次にベンさんが両手で私の手を上から押さえる」
弁千代は三雲の両手をしっかりと握った。
「力比べだ。私が手を上げるから、動かないように抑え込むんだ」
弁千代は体重をかけて、力一杯に抑え込む。
「では、行くよ」
三雲の手がゆっくりと膝を離れて浮き上がる。弁千代は慌てて腕に力を込めるが、三雲の手は止まらない。弁千代の力を無力化するように上がって来る。
「あっ!」
弁千代は姿勢を崩され右に転がった。
「凄い!全く力がぶつからない!三雲さんの力の方向がまるで掴めない」
三雲はニヤリと笑った。
「今度はベンさんの番だ」
三雲は弁千代の手を押さえた。そっと触れている感じだ。
「行きます!」
弁千代は満身の力を込めて手を上げる、が手は膝に吸い付いたままでちっとも上がらない。
だが三雲は少しも力を入れているようには見えなかった。
「ウ〜ムムムム!」弁千代は身悶えして抵抗するがどうする事も出来なかった。力み過ぎて腕が震え出した。
汗も噴き出す。とうとうたまらなくなって、弁千代は頭を下げた。
「参りました・・・何故なんです、何故私の手は上がらないのです?」
「それはベンさんが力に頼り過ぎているからだよ、柔術は力では行くことの出来ない世界だからね」
三雲の話を要約すると次のようになる。
まず力を抜く事、躰を細かく分けてバラバラに動かす事、その力を再び合成する事、胸と背の落しを使う事、仙骨を立てる事。
「だいたいこれだけのことを同時に行うのだな」
「う〜ん難しい。一つだけでも大変そうだ」
「それ程でも無い、私もここまでなら出来るのだ」
「それだけではダメなのですか?」
「『形』に入った途端、力みが出てしまう」
「何故だろう?」
「すぐに結果を求めてしまうのだな。例えば相手を投げようとして力を抜けば、相手には何の変化も起こらない。ただ投げるだけなら力を入れる方が簡単だ。それを我慢して結果の出ない試みを続けるのは至難の技だ」
「しかし、投げなければ『形』にならない」
「だから『形』があるとも言える。出来なくても出来た形を稽古することができる。『形』は投げるのが目的では無いからな、どの様に投げるのかが大切なのだ」
「どの様に投げるか・・・」
「話はここまでだ、後は実際にやってみるしか方法はない」
「はい!」
「では、『楷』の『形』から始めよう」
「楷って?」
「楷書、行書、草書、の楷だよ」
「つまりは入り口の『形』なのですね?」
「そうだ」
弁千代は再び三雲と向き合った。




