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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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無二斎


無二斎




その夜、弁千代は伊助の道場で寝た。夜は、割と冷える季節になっていた。

布団は一組しか無い。伊助は弁千代に譲ろうとしてくれたが断った。

汗臭い稽古着を何枚か重ねて包まった。伊助の布団も同じようなものだろう。

朝起きると躰のあちこちが痛かった。これも武者修行に出て初めて経験した事である。


「では、これにて失礼致します」道場の玄関先で弁千代は頭を下げた。

「お主は絶対に、昨今の風潮に染まらないでくれよ」伊助が言った。

「私は、他に生き方を知りませんから・・・」

「では、武運を祈る」伊助も腰を折って礼をした。


次の宿場まで三里半、見上げると空いっぱいに鰯雲が広がっていた。

しばらく里山の風景を見ながら、ゆるゆると歩く。

茶店で遅い朝飯を食べた、今日は早めに宿を取ろう。

途中何事もなく時は過ぎて行く。

次の宿場が近づくと、黄金の海と見紛うような稲穂の波が見えた。

暫く行くと、幅が三間程の小川に突き当たった。橋はもう少し上流に小さく見える。

此方の岸に水車小屋がある。その横で、軽衫風の袴を履いた爺さんが小川に向かって小用を足していた。

小さな菅笠を被っている。武家の隠居のようだ。

突然、水車小屋の陰から男が飛び出して来た。壮年の武士である。

武士は、躰ごと小柄な爺さんにぶつかって行き、両手で突き飛ばした。

「危ないっ!」思わず叫んでいた。

弁千代はそこで信じられないものを見た。

まるで何事も無かったかのように、爺さんが向う岸を歩いて行く。

武士は呆然とその場に立ち竦んでいる。

「何をなさるのです、無防備な年寄りに向かって!」弁千代は声を荒げて武士に近づいた。

武士はハッと我に返ったように弁千代を見た。

「見ておられたか・・・」そしてようやく悔しげな顔で呟いた。「また駄目だった・・・」

「・・・」弁千代は訳の分からぬまま武士を見返した。

「あれは私の柔術の師匠なのです」

「えっ!」

「隙があれば、いつでも掛かって来い。儂を驚かせる事が出来たら免許をやる、と言われているのです」

「なんと・・・」

「今日こそは、と思ったのですが・・・あっ!」

そこで武士は自分の腰に手をやった。

「脇差が無い!」

そう言えば、用を足していた爺さんの腰は無腰だった。しかし上流に歩いて行く爺さんの腰には脇差が確かにあった。

「凄い!」思わず弁千代が口走る。

武士は項垂れて、弁千代がいることも忘れたように歩き出した。

「あの、もし・・・」

もう武士には何も聞こえてはいなかった。武士の魂を抜かれて気付かなかったのは大きな失態に違いない。

弁千代はもう声を掛けなかった。遠くで笛の音が鳴っていた。


橋を渡って少し行くと、宿場の入り口に大きな赤い鳥居が見えた。

笛の音はそこから聴こえてくる。よく聴くと鉦や太鼓の音も混じっている。

「秋祭りの準備か・・・」

鳥居に近づくと色とりどりの幟が立っている、勧進相撲の力士の幟だ。荒磯の名があった。

「荒磯か」荒磯なら弁千代も知っている「結構有名な関取が来るのだな」


宿場に入ると浮かれた雰囲気が伝わって来る。今日は遅くまで賑わうに違いない。

早めに宿を取っておいた方が良さそうだ。

最初に目についた宿に入り声を掛けた。

「すみません、今夜泊まりたいのですが?」

忙しそうに立ち働いていた男が、立ち止まって弁千代を見た。

「生憎今夜は一杯でしてね、相部屋でよければご用意出来ますがね?」

弁千代は、今夜は一人でゆっくり眠りたかった。

「分かりました、他を当たってみます」

「明日は勧進相撲なんでね、他も同じようなもんだと思いますがねぇ」そう言って男はまた忙しそうに行ってしまった。

三軒の宿に断られた、こうなればどこかのお堂で野宿も仕方がないと諦めかけた時、藁葺きの一軒家が見えた。

「駄目で元々、一晩の宿を無心してみよう」弁千代は玄関に立った。


「今晩は、どなたかいらっしゃいませんでしょうか?」

「は〜い、ただいま」」すぐに奥から返事があった。

奥から出て来たのは、小柄で品の良い白髪のお婆さんだった。

「夜分大変恐れ入ります、旅の者ですが旅籠が見つからず難儀しております。不躾なお願いですが一晩泊めて頂ければ有難いのですが」そう言って弁千代は頭を下げた。

「まあ、それはお困りですね。毎年この時期は相撲がやって来る為、いつもは暇な宿も見物客で一杯です。お見かけしたところ旅はあまり慣れてはおられぬ御様子、むさい所で爺様と二人暮らしゆえ大したおもてなしも出来ませぬが、よろしければお上りください。爺様も喜びましょう」

駄目元を覚悟していた弁千代は、少々面食らった。こんなにあっさりと承知してもらえるとは思わなかった、初対面の自分をそこまで信用しても良いのか?しかも老人の二人暮らし・・・。

「あの、お願いしておいてこんなことをお伺いするのも変なのですが、私をお疑いにはならないのですか?」

婆さんは怪訝な顔をした。「困った時はお互い様、それにうちは大丈夫なのですよ」

「大丈夫って・・・どうして?」

「ほほほほほ・・」お婆さんはそれには答えず、弁千代を奥へと誘った。「ささ、どうぞお上りください」

「お爺さん、お若い方がお見えですよ。今晩は賑やかになりますねぇ」

奥へ声をかけながら廊下を歩いていくお婆さんについて行くと、四角い炉の切ってある座敷に案内された。

座敷は綺麗に片付いており、床の間には翁と嫗の掛け軸が掛かっていた。

その前に、白髪で小さな髷を結った爺さんが、ちょこんと座っている。

衣服に見覚えがあった。

「あっ、貴方はあの時の!」弁千代は驚いた、昼間水車小屋で見かけた老人に違いない。

「ほっ、いつお会いしましたかの?」

「い、いえ、お初にお目にかかります、中武弁千代と申します。今日水車小屋のそばでお見かけ致しました」

「水車小屋?確かに行ったな・・・それで?」

「見事な技を拝見いたしました」

「技?儂が何かしたのかの?」

「はい、壮年の武士に突き飛ばされて・・・なのになんの事無く川を跳んで歩いて行かれました」

「あれを見ておったのか?」

「左様で・・・」

「あやつは駄目じゃ。気配も消せん」

「いつの間にか脇差も・・・」

「ははは、慌てておったじゃろ、今度来たら返してやるか・・・まあ、ちょっとした悪戯じゃ」

弁千代が、呆気にとられて突っ立っていると、爺さんが言った。

「そんなに畏まることは無い。早うこちらに来てお楽になされよ」

「はっ、失礼致します」

弁千代は納得した、この爺さんがいるのなら確かに大丈夫だ。炉の対面に座って改めて挨拶をした。

「本日は突然の身勝手なお願いをお聞き届けいただき、有難うございます、私は・・・」

「堅苦しい挨拶は抜きじゃ。儂は、安藤無二斎、婆さんは玉、どうじゃ猫みたいじゃろ」

そう言って無二斎はコロコロと笑った。

「儂らは既に隠居の身、家督は息子に譲ってこんな田舎に隠棲しておる。なんの遠慮もいらんぞ」

「お爺さん、何だか孫が遊びに来たみたいですねぇ。私は今から腕に捻を掛けて美味しい軍鶏鍋を作ります。出来上がるまでこの方のお相手、よろしくお願いしますよ」

「おう、分かった婆さん。精々美味いものを作ってくれよ」

「はいはい、では行って参ります」

玉はいそいそと座敷を出て行った。


「ところで弁千代殿は剣を修行しておられるな?」

「お分かりですか?」

「動きに無駄が無い。誰に学ばれた?」

「加州左馬之助先生に・・・」

「そうか、お名前は聞き及んでおる。ならば柔もやられたか?貴流には柔も含まれておった筈」

「はい、多少の手ほどきは受けました、然し私は剣には熱心だったのですが柔はあまり・・・」


「コケー!コッ!コケー!」

突然、庭でけたたましい鶏の鳴き声がした。いや、鳴き声と言うより絶叫に近い。

「婆さん張り切っておるな、一番威勢のいい奴を潰すつもりだ」

「なんと、私の為にそんな・・・」

「なぁに、軍鶏鍋は喰いたかったが、二人では食べきれんので諦めておったのだ。今日は腹一杯食ってくれよ、儂らもご相伴にあずかれて有難い」

「はあ、誠に恐縮です・・・」


やがて玉が鍋を提げてやって来た。炉の五徳に掛ける。

鍋には既に何種類かの野菜が入っていた。

待つうちに鍋は沸騰し、いい香りが漂って来た。

「さて、軍鶏肉を入れますよ」玉が食べやすい大きさに切った肉を鍋に入れる。「肉が煮えるまでお酒でも飲んでいて下さいな」

酒は、炉の灰で程よく温まっていた。

無二斎と弁千代は、まるで本当の爺さまと孫のように盃を傾けた。

「さあ、出来ましたよ」玉が軍鶏鍋を二人に取り分けてくれた。

弁千代は堪らなくなって真っ先に箸をつけた。

「どうじゃ、美味いじゃろう?」無二斎が訊く。

「はい、私が食べた料理の中で一番です!」

「まあ、お世辞でも嬉しいこと」玉はまんざらでも無さそうだ。

「いえ、お世辞ではありません、本当に美味い!」

二人は嬉しそうに弁千代の食べる姿を見ていた。

「弁千代殿、旅は急ぎか?」無二斎が訊いた。

「いえ、此れと言うあても無い一人旅です」

「それならば、もう一晩泊まって行かれませぬか?明日は秋祭り、珍しい出店もありましょう。のうお爺さん」と、玉が提案した。

「おお其れは良い、弁千代殿そうなされ。婆さんも喜ぶ」

弁千代はここ数日の殺伐とした生活を思い出していた。急激な環境の変化で少し心が疲れていた。ここらで二、三日休むのも悪くない。「お言葉に甘えます」そう言っていた。





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