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弥勒の剣(つるぎ)  作者: 真桑瓜
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伊助の剣


伊助の剣



その宿場に着いたのは、そろそろ呑み屋の提灯に灯が入ろうという時刻だった。

今夜は旅籠を探して、道場へは明日赴こうと思った矢先、竹刀を撃ち合う音が聞こえて来た。

こんな街中に道場があるのか?訝りながら音のする方へ歩いていくと、武者窓に人集りができている。

「何があるのですか?」一番後ろで爪先立って覗いていた町人に訊いた。

「他流試合だよ。ここの先生は強いね、今日はこれで五人目だ」振り返りもせず町人が答える。

途端に「バシッ!」っと音がして「ゴロゴロ!」っと人の転がる音が続く。

「お脛一本!どうだ!」甲高い声がした。

「参りました!」低い男の声がする。

「では、百文置いて帰りなさい」さっきの声が言う。

暫くして、一人の武士が玄関に現れ、這々の態で逃げ去って行った。

「今夜はもう店じまいだ。やる気のあるお方はまた明日おいでなさい。但し百文を忘れないようにな」

玄関からぞろぞろと男達が出て来た。武士ばかりではない、町人もいる。

皆、意気消沈していた。

武者窓に噛り付いていた野次馬たちも三々五々と引き揚げて行く。

急に辺りが静かになった。

弁千代はまだ武者窓の外に佇んでいた。『何だ今のは、道場で賭け試合をやっているのか?』 


「まだ誰かいるのか?」道場の中から声がした。

「はい、この道場の評判を聞き及び参ったものです、どうか一手御指南の程」

「もう相手が見えない。明日おいでなさい」

「暗闇で戦うことも、武士の習いかと存じますが?」

「・・・」

「それとも、暗くては戦えないと?」

「ほう、それはまた異な事を・・・面白い、お入りなさい」 

弁千代は玄関に回り、草鞋の紐を解いて道場に足を踏み入れた。入り口で礼をするのを忘れない。黒い男の影が見えた。他に人の気配は無い。

「お主、何人斬った?」影が言った。

「人は数では有りません」

「真剣勝負がお望みか?」

「貴方に遺恨は無い、出来れば木剣で・・・」

「そうか・・・ふぅ助かった!」男はホッと息を吐いた。「寿命が十年は縮まったぞ」

何だこの男は、急に態度が砕けた調子になった。

しかし、かなりの手練れであることは間違いない、油断は禁物だ。

「中武弁千代です」先に名乗った。

「神松寺伊助」

初対面の挨拶は済んだ。

「では、お手並み拝見」

「ちょ、ちょっと待て」伊助が手を挙げて止めた。「ものは相談だが竹刀にしないか?」

「洒落ですか?私はどちらでも構いませんが」弁千代は木刀を竹刀に持ち替えた。

「ついでに、防具も付けようではないか」

「・・・」

「どうだ?」

「良いでしょう・・・」弁千代はバカバカしくなって来た。

伊助の言うまま、面・籠手・胴・脛当てまでつけた。

「神様に見届け役になって貰う」伊助は神棚の蝋燭に火をつけた。

「では参る」伊助は先程までの卑屈な態度が嘘のように堂々と正眼に構えた。

弁千代も正眼に構えを取る。

伊助は間合いを計ってゆっくりと移動する。徐々に弁千代は蝋燭を背にする位置に立たされた。

元来蝋燭は、対象物をはっきり見ると言うよりも、物の影を作って位置を知る為にある。

弁千代の位置から伊助の姿は、己の陰になって見え難くなった。戸外で太陽を背にして立つ戦術とは逆だ。

伊助の動きが急に激しくなる、床を跳ねるように前後左右に動き、竹刀の切先は鶺鴒の尾のように忙しなく上下に揺れている。

「りゃりゃりゃ!」時々奇声まで発する。

弁千代の切っ先は微動だにしない。対照的な剣だ。

ダンッ!と床を踏み鳴らし、伊助が突いて来る。弁千代は一歩下がった。

さらに踏み込んで伊助が突く。弁千代の切先が上がり上段の構えに変化する。

「もらった!」伊助の竹刀が鞭のように撓って弁千代の脛を斬りに来た。

弁千代は後足で浮身をかけた、前足の踵で自分の尻を蹴るように足を刎ねあげる。

伊助の竹刀が空を斬る。

弁千代は上げた足で伊助を蹴るように前に出た。

伊助の竹刀が弁千代の胴を狙って浮き上がって来るのと同時だった。

一瞬早く、弁千代の火の出るような面撃ちが伊助の脳天に炸裂した。

「う〜ん・・」と唸って、伊助はその場に昏倒した。


弁千代は、床に大の字になって倒れている男を見て、蔑む気持ちにはなれなかった。

寧ろ、体面だけに拘る最近の剣術家より、よほど武の本質に迫っている気さえした。

相手の力量を見抜き、戦いを自分の有利に運ぼうとする伊助の戦略は、実際に剣を交える前から本当の戦いは始まっているのだと弁千代に教えた。

剣での戦いなど、その一部に過ぎないではないか?剣の強弱にどれほどの意味があるのか?


「むむぅ・・」

伊助が息を吹き返す。暫く不思議そうに辺りを見回していたが、急に米搗きバッタのように跳ね起き床に頭を擦り付けた。

「そのように畏まることはありません、紙一重の勝負でした」

伊助は上目使いに顔を上げた。

「そうか・・・紙一重であったか。うむ、そうであろう」伊助はホッとしたように頷いた。「しかしお主は強い、どこで修行なされた?」

「故郷の藩の指南役の道場で。闇稽古は良くやらされました」

「そうであったか・・・どうりで俺の策が効かないはずだ」

「いや、見事な戦略です、感服いたしました」

「あはは、そう褒められると弱いな。どうだ、お近づきの印に外で一杯やらんか」

弁千代は、この男に興味を覚えた。

「おつきあい致しましょう」


外に出ると、赤提灯が幾つか灯っている。

「ここはツケが効くのだ」そう言って伊助は、その中の一軒に入って行った。

「親父、酒を頼む。それと肴も適当に見繕ってな」

「おや、先生お珍しい。今日はお連れさんとご一緒ですか?」

「うむ、中武弁千代さんと仰る。やっとまともに話が出来る人に巡り会えた」

「それはようございました。どうぞごゆっくり」親父は愛想良く言った。

「かたじけない、そうさせて貰うぞ」

二人は小上がりの座敷に席を占め、向かい合った。

酒が来てから伊助が言った。

「改めてご挨拶致す、神松寺伊助と申す」

「中武弁千代です」

「まあ、一献・・・」

伊助は弁千代に酌をしながら言った。

「もうお気づきと思うが、俺は武士ではない」

「はい、珍しいお名前だとは思っておりました・・・」

弁千代も酌を返す。

「神松寺というのは、俺の田舎の村の名前だ。俺は江戸の有名な道場で下男として雇われておった」

「それがどうして剣術など?」

「俺は時々仕事の合間を縫って、道場の稽古を覗いておったのだ。ある時、俺があまりに熱心に見ておるものだから、門弟達が面白がって俺を道場に招き入れた」

「・・・」

「俺の筋が良かったとみえて、剣を仕込んでやろうと思ったのだろう。それから道場で一緒に稽古をする事を許された」

「それは、先生が許されたのですか?」

「先生は進歩的な思想を持っておられてな。剣に上下の隔ては無いと、俺にも分け隔てなく教えてくれたのだ」

「それはまた、素晴らしい先生ですね」

「だろう?だが三年もすると俺に敵うものは道場に居なくなったのだ。さすがの先生も、それでは外聞が悪いと思ったのか、江戸から遠く離れたこの地に道場を建て、俺を道場の師範に据えた」

「それは・・・」

「態の良い左遷だよ。だが俺にとっては願ったりだったな、面子に囚われず自由に剣を稽古できる。それに賭け試合をしても誰にも文句を言われない」

「あなたほどの腕前の人が、何故賭け試合など?」

「生活の為だよ。うちの門弟は百姓が多い、米や大根を貰っても食うには困らぬが酒は飲めん」

「ははあ・・・」

「それにそのうち剣は流行らなくなる。今のうちに儲けておかなけりゃぁな」

「剣は身過ぎ世過ぎの道具では無いと思いますが?」

「それは、お主のような本物の侍が言う言葉だ。俺たちは何としても生きなけりゃならんのだよ」

弁千代は、何と答えて良いものか分からなくなった。ただ、そのような考え方もあるのだな、と何となく思った。


「それよりも、剣の話だ」伊助が話を変えた。「俺が脛斬りを始めたのも、江戸の道場で誰もやっていなかったからだ。かなり心得のある奴でも、脛はがら空きだった。あれでは実戦に弱かろうと思ったが、とうとう先生には言い出せなかった」

「どの流派の『形』にも、脛斬りはあるはずですが?」

「誰も『形』など真面目に稽古しないよ」

「どうしてですか?」

「防具を付けて撃ち合う方が面白いし、強くなるのが早い」

「しかしそれは最初のうちだけです。『形』をやらなければ到底『術』にはなりません」

「それでは門弟が続かん、さっさと撃剣稽古をする道場に移っちまう。それに道場の先生自体が、『形』の意味を理解していない。精々がとこ儀式の見世物にするくらいだ」

「何故そんな事になったとお思いですか?」

「悪い事では無いが平和が続き実戦から遠ざかったからだろうな。みんなが自己主張を始めて、自分のやり易いように『形』を変えて行った為、中身が空になったんだな。それでは門弟たちに説得力が無い、そんな『形』を何本知っていたって役に立つはずは無いだろう」

「『形』が人の動きの質を根底から変えてくれるのです。その『形』を捨ててしまったら武術では無くなる」

「時代が『術』を必要としなくなった。そんな面倒な事をしなくても人は殺せる、鉄砲や大砲があれば済むからな。人と人との闘争は”生な力”さえあれば事足りるようになったんだ。近頃、武術を武道、剣術を剣道と読み替える輩が出てきた。『術の小乗、道の大乗』などと言ってな」

「術を捨てて、道に走った・・・実を捨てて名を取った」

「俺の脛斬りが有効なのは、ほんの一時の話だ。こんなものはそのうち防御法が広まればそれで終わりだ。そんな即物的なものに命をかけて修行するなど馬鹿馬鹿しいとは思わぬか?」

「・・・」

「俺はお主が羨ましい。もっと早くお主に出会えていたら・・・」

伊助は寂しそうに手酌で酒を注いだ。





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