出立
出立
翌朝まだ暗いうちに、弁千代は携帯用の提灯に火を入れ、笹野屋を出た。
今日は、二つ先の宿場まで行くつもりだ。女将が名残惜しそうに見送ってくれた。
結局、鈴は宿場専属の三味線弾きになった。
昼間は三味線の師匠として宿場の者に三味線を教え、声が掛かればお座敷で三味線の芸を披露する。小さな家を貸し与えられ、生活の目処も立った。
宿場の出口に、鈴が立っていた。提灯の明かりで顔が見えるくらいまで近づく。
「いろいろお世話になりました」弁千代が頭を下げた。
「私もついて行こうかな・・・」
「えっ!」
「あら嫌だ、冗談ですよ、そんなに驚かないでくださいな・・・お達者で」
「はい、目的を果たしたら帰りにまた寄ります。それまで元気でいて下さい」
「ごきげんよう・・・」鈴は深々と頭を下げた。
「左様なら」
弁千代は、剣の修行に終わりはあるのだろうかと、ふと思った。
次の目的地を二つ先の宿場にしたのは、有名な剣術の道場があると聞いたからだった。
次の宿場までは二里、目的の宿場は更に二里半先。少し早足になる。
最初の宿場につく頃に昼になった。暫く続いた好天の為、道が妙に埃っぽい。
馬や駕籠、荷車がひっきりなしに弁千代の横を通過して行く。
笹野屋で拵えて貰った弁当を使える場所を探す。
追分の道に立つ地蔵堂の側に茶店があった。
緋毛氈を敷いた床机に腰を下ろす。店の老婆に茶を頼んだ。
弁当を開き、茶を喫していると武士が二人やって来て少し離れた床机に腰掛けた。
「婆さん、酒はあるか?」若い方の武士が横柄に訊いた。
「へえ、ごぜえますが・・・」
「なら、銚子を二本・・いや三本、冷で良い。それから湯呑みを二つ、猪口はいらんぞ」
「肴は如何致しましょう?」
「何でも良い、はよう見繕って持って参れ!」
「へい、ただいま・・・」老婆は慌てて奥に引っ込んだ。
「おい、坂上。お主の気持ちは分かるが、昼間から酒はどうかと思うぞ」先ほどの武士より年嵩の武士が、諌めるような口調で言った。
「しかし、大楠さん。あの技は卑怯ではありませんか?あれで負けと言われても納得が行きません」
坂上と呼ばれた若い武士は、憤慨して年嵩の武士に食ってかかった。
「まあ、確かに脛を狙われたのでは防ぎようが無い」
「実戦剣法などと言って近頃評判の道場だから、どんな道場かと思って行ってみたら、ただの田舎剣法では無いですか」
老婆が酒と肴を持って来た。坂上はひったくるようにして、自分で湯呑みに酒を注ぎ、一気に煽る。「大楠さんも呑んでください」坂上は銚子を掴んで大楠に勧めた。
「ああ・・」大楠は坂上の酌を受け、薄い唇に湯呑みを運んだ。
「こちらは、初めて脛当てをつけたんだ。最初から分が悪い」
坂上は手酌でグイグイ飲んでいる。最初は小声だったものが段々と大きくなって行く。
「坂上、もう止せ、外聞が悪い。それに先生の顔もあろう」
大楠は周りを気にしている。きっと弁千代のことも気になっているに違いない。
「だいたい、大楠さんも大楠さんだ。塾頭なら塾頭らしく、あいつをやっつけてくれても良さそうなもんじゃないですか?」
「今の儂では奴には勝てん。これ以上恥の上塗りをしては、道場の存続に関わる」
「恥ですと!私が道場の恥だと・・・!」
「そうは言っておらん。儂はお主の無鉄砲さは好きだ、だからこそこうして同道して来たのだ。しかし今日は度がすぎる」
「なにっ!」坂上が座を蹴って立ち上がる。
酒が溢れ、湯呑みが地に落ちて割れた。
「もう、貴方とは絶交だ!」
坂上は、プンプン怒って大楠を残して立ち去ってしまった。
「お見苦しいところをお見せした」大楠は弁千代に向かって頭を下げた。
「いえ・・・」
「今の話は、何卒ご内聞に」
「はい、決して他言は致しません。しかし今のお話に出て来たのは、私が今から向かおうとしている道場のように思います。宜しければどのような道場なのかお聞かせください」
大楠は立ち上がり弁千代の方に歩いて来た。
「婆さん、すまんな、お代は儂が払う。もちろん湯呑みの弁償もな」
「ありがとうごぜえますだ」老婆は腰を曲げてお辞儀をした。
「すまんついでに、茶をいっぱい所望したい」
「へえ、すぐに持って参ります」
大楠は弁千代の横に腰掛けた。所作に隙がない、かなりの腕と見た。
「私は大楠進之介、さる道場の塾頭を務めております」
「私は中武弁千代、武者修行の身であります」
「ほう、武者修行とは今時珍しい」
「はい、次男坊の身でありますれば気楽なもので・・・」
「そうですか。先程の者は藩の御目付の跡取りなのですが、あのようにわがままに育っております。さしずめ私は教育係ということで・・・」
「それは・・・」大変でしょう、という言葉を飲み込んだ。「失礼ですが、かなりの腕前と御推察致します。その貴方が敵わぬとは一体どのような剣術なのですか?」
「うむ、一言で言うと脛を斬る」
「それは・・・剣術であれば当たり前では?」
「それが、当たり前では無いのだ。足などを狙うのは卑怯だ、武士らしく無い、と言う風潮が蔓延しておって、近頃では足を狙わないのが暗黙の了解のようになっておる」
「何故に?」
「泰平の世が永過ぎたのだな」大楠は小さく溜息をついた。「ところが黒船が来て以来、それが怪しくなってきた。世情の不安を背景に、武士だけではなく百姓や町人までが剣術を習うようになった」
「武術は武士の専売ではなくなったと?」
「そうだ。そこで武士の対面に拘る者は、頑なに足斬りを潔しとせず防御の法を考えない」
「それでは武術本来の目的から外れている・・・」
「そこに気が付かないのだよ、いや、気が付かないふりをしているのだな。足斬りなど百姓町人がやるものだと」
「剣に身分の上下はありません」
「現実を見ずに、観念だけを見ているのだ。剣術にしても『形』が形骸化しその意味を見失った為、今では防具をつけての撃ち合い稽古が主流になっている。足斬りの剣術に手も無く翻弄されるのも宜なるかな」
「防具をつけての撃ち合いの方が実戦的に見えるのですね?」
「あれはただ自分勝手な自己主張をしているだけだ。自分を消し、型に嵌め込んで、それから再構築したものでなければ『術』にならない、そのことを忘れてしまった武士はただの木偶の坊だ」
弁千代は、この大楠という武士の見識の高さに驚いた。
「しかし、あなたのような侍もいる」
「ありがとう、だが、この事を理解する者は少ない。皆、時代の波に押し流されているのだよ」
「・・・」
「いや、つまらぬことを話してしまった。その道場の事であったな・・・」
大楠によると、その道場主の剣は柳のように柔らかいという。脛を狙うのも、そこから上半身の攻撃に繋げるための過程に過ぎないと。
「足斬りに拘ると、思わぬしっぺ返しを喰らうので、用心が肝要だ」
礼を言って大楠と別れた。弁千代は、いつかこの男とも剣を交えたいものだと思った。




