武者修行
無門弁千代物語
武者修行
弁千代の父は、さる小藩の馬廻役であった。
その父が死んだ。
家督を兄が継いだ。
次男坊の弁千代は、兄のお荷物となった。
弁千代は家を出た。名目は武者修行。
藩の指南役を務める加州左馬助の道場で、十六歳の弁千代に敵う者は、師範代の笠置彦十だけだった。
左馬助は、弁千代の剣の才能を見抜き、兄に武者修行に出る事を許すようにと強く勧めた。
兄は、冷や飯食いの弟が家に居るのも外聞が悪いという事で、武者修行を許した。
必要な路銀は為替で各宿場の両替商に換金してもらう事にした。
母は、弁千代を殊の外可愛がってくれたが、剣で身を立てるという弁千代の志に反対はしなかった。
この時代、次男坊の選択肢は三つある。
一生居候でいるか、他家の養子に入りその家の家督を継ぐか、剣で身を立てるかである。
養子の口はそうそうあるものではない。かと言って一生兄の世話になるのは嫌だ。腕に覚えのある剣の道を選んだのは、当然の選択だった。
まだ暗いうちに家を出た、門の前でいつまでも見送ってくれた母の、今にも泣き出しそうな顔を見た時には、少しだけ胸が痛んだ。
手甲に脚絆、野袴を履き手に菅笠を持った。背中に背負った道中袋には、当面の金子と下帯。
腰には細身常寸の打刀。師の左馬之助が、秘蔵の一刀を餞別にと弁千代に与えてくれたものだ。
稽古には大振りな肥後の同田貫を使っていたが、武者修行は命懸けなのである。運剣の遅速の僅かな差が生死を分ける。
街道に出て真っ直ぐ西に向かって歩く。武家屋敷の立ち並ぶ区域を抜け、商人の町を抜ける。
農作地を抜け大きな川の堤まで来た時、夜が明けた。
弁千代は空を見上げる、今まで見たことのない清々しい空だった。
河原に降りると船着場があった。
細長い平底の船にはすでに先客が居た。
一人は武士、一人は商人、一人は雲水。
「お侍さん、乗るかね?」船頭が訊いて来た。
「渡し賃はいくらですか?」
「乗ってくれるなら、十六文でいいよ。見ての通り船はガラガラだ、軽すぎてまっすぐ進みゃしねえ」
「なら、お願いします」弁千代は答えて、船に乗り込んだ。
「おいおい、船頭さん。儂等は二十文払ったぞ、酷かぁないかい?」商人が文句を言った。
「重石代わりに乗ってもらうんだ、文句言うんじゃねえよ。何処に着いても知らねえぞ!」
船頭が言うと、商人はむっつりと黙ってしまった。
侍は鷹揚に笑っている。卑しく無い身なりの二本差しだ。
雲水の顔は、饅頭笠で見えない。舳先でまっすぐ対岸を見つめている。
船頭は竿で岸を突いて船を出した。
流れに入ると竿を魯に変えた。船が下流に流される。
「もう二、三人乗ってくれると楽なんだがなぁ・・・」船頭はブツブツと独り言を言った。
「貴公どこへ参られる?」侍が訊いた。
「・・・」
弁千代が黙っていると、侍が言った。
「失礼致した、拙者は加藤伊織と申す。他意は無い、まだお若いのに一人旅とお見受けしたもので、ちと訊ねてみたのじゃ」
「中武弁千代と申します。本日武者修行に出立したばかりです」弁千代は姿勢を正して答えた。
「ほう、武者修行。それは今時珍しい」
「左様なので?」
「うむ、武士の世も泰平が長過ぎた。近頃では武者修行をするような、骨のある若者は皆無じゃ」
「私はそれほど志の立派な人間ではありません。ただ、兄のお荷物になりたくなくて旅に出ただけです」
「ははは、正直じゃな」
それきり、侍は言葉を切ってしまった。弁千代も特に話す事も無いので黙っていた。
船が対岸に着くと、雲水と商人はそれぞれの目的地に向けて歩いて行った。
先に降りた侍が、弁千代を待っていた。
「先程は失礼した。拙者は柳河藩家老、無門吉右衛門様の家臣じゃ。拙者は今から上方へ出て、用事を済ませたら船で帰る。気が向いたら訪ねて来るがよい、殿はお主のような若者を探しておられる」
「有り難う存じます。剣の修行が成った暁にはお尋ねしとうございます」
「楽しみにしておるぞ」
この時、時代は大きく変わろうとしていた。各藩とも優秀な人材を求めていた。
旅の途中で、これは、と思う若者に声を掛けるのは、半ば習慣化していたと言って良い。
侍は商人の向かった方へ、弁千代は雲水の歩いて行った方角へと、足を踏み出した。